メモ(論理的じゃない世界が好きなこと、など)

 今、考えが理屈っぽくなりすぎていて、少し不穏な感じがするので、何時間か休もうと思っています。さっき映画のことなどについて神経質に書き進めたので、少々疲れています。僕は読書も書くことも大好きですが、それについてはまた書こうと思います。書くときは必ずヘッドホンかスピーカーで音楽を聴いています。音楽から離れると、僕はきわめて生きにくくなるし、音楽を聴けない時間は苦痛です。映画が魅力的に思えてきましたが、音楽と言葉の、それぞれに特有の魅力についても書いてみたいです。
 全ての表現に共通する魅力は自意識の発露ではなく、自分を含めた世界を客観視することにあると思っています。つまり世界も人も、頭で考えて簡単に言葉に出来るような論理には全然従っていないということ、その論理の外にあるものを意識することが、表現の始まりだと思っています。
 「今自分が生きているこの感じ」が既に論理的ではありません。その、言葉に出来ない現実を無心に見詰めることが、客観視することだと思っています。
 と、偉そうに書きつつ、僕には客観視なんてまるで出来ていません。表現とは、特定の表現手段のことではなくて、ただ生きていることも、お喋りをすることも、もちろんブログを書くことも、みんな等しく表現だと思っています。生きていることは素晴らしいことです。僕はその素晴らしさを僅かながらでも感じられる人になりたいです。
 自分という枠組みにこだわらず、他人を含めた世界の全てや、その細やかさ、生活の一瞬、そういう「何もかも常にこうある、ただある」という世界の生理学的側面と共に、僕を含めた人たちそれぞれが持つ悩みの回路の複雑さや、人間が動物だった頃には持てなかった神経の病理学的かつ魅力的な側面を、現実に対しての抗議の数々や、人たちの願望の実現の可能性、悲しさ、寂しさ、全ての人が個人的な思い出の中に立っていること、そして、にもかかわらず世界が美しくて楽しいことを、いつも感じていたいです。
 そして形容されていない景色や気持ち、ほとんど形容が不可能な感情や感覚が多過ぎるという、言葉の不完全性、日本語という言語の無力さから力を得つつ僕は書くだろうと思います(もちろん外国語も学びたいですが、それは言葉を豊富にはしなくて、寧ろ欠落を多く知ることに繋がると思っています)。
 言葉による表現への欲求と、もう一度でいいから「楽しい」と本当に感じられたら、という希望に支えられて、希望を引きずりつつ、希望に引きずられて、僕は生き長らえています。書きたいことがあるし、僕は神経質さを忘れて、いつかはまた、元気に、完璧に楽しく書きたいです。
 僕は個人的な人間です。個人的な人間としての誰かに出会いたいです。どうしても現実感が希薄で、近くにいる人たちまでが、命の無い存在にしか見えない、という危ない状態に陥ることがとても多いです。個人的な人間としての誰かに本当に出会えたなら、それだけで死んでしまっても悔いがないくらい、僕は、そして多分誰しもが、繋がりに飢えていると思います。人間とはそういう生きものだと思っています。