日記(自分を取り戻しかけていると思う)

1月16日(月)、
 雨が降っている。雨音は心地いい。けれど僕はヘッドホンを付けて音楽を聴いている。音楽が楽しいと、起きているのが楽しくて、ベッドから起き上がるのが簡単だ。朝の5時に起きて、一日中UKロックを聴いていた。
 読書をして、フランス語の勉強をした。

 

1月17日(火)、
 真夜中、ふと思い出して、昔掛けていた眼鏡をネットで検索したら、ひとつだけ売っているのを見付けたので、一時間くらい迷って、購入ボタンを押した。その眼鏡はすごく気に入っていたのに、壊してしまったので、ずっと同じのを探していた。何年も前に生産中止になったみたいで、どのサイトを見ても売り切れだったので、もう手に入らないものと思っていた。鼻に当たる部分のパーツが無くて、眼鏡のフレームの金属が、直接鼻に引っ掛かるようになっている。シンプルなデザインがとても好きだ。
 その眼鏡はレンズが丸いのだけど、少し楕円形で、ジョン・レノンが一時期掛けていたのと同じモデルなのだそうだ。ジョンはいろいろな眼鏡を掛けていたので、特別その眼鏡を愛用していた訳ではなかったみたいだけれど。僕は数年間、ジョン・レノンが最晩年に掛けていた、白山眼鏡店のセルロイドの眼鏡を買うつもりでいたけれど、結構高価なのでずっと買い渋っていた。間に合わせで三千円で買った眼鏡を、三年以上も使っていた。
 僕は少し気持ちが軽くなったのかもしれない。セルロイドの眼鏡のかっちりした感じよりも、細い金属フレームの丸眼鏡の、軽やかな感じが好きになった。

 

1月18日(水)、
 ……食欲が無かった。おにぎりを一個食べた。

 

1月19日(木)、
 脳波が、音楽の中で切り替わる感じが好き。一度感じると、それ無しでは生きられなくなる。楽しいことがあると、完璧に生きられそうな気がしてくる。

 真夜中、空が低い音で鳴っている。空の高いところで。人間には到底作り出せないような電圧が、雲の中で渦巻いている。

 赤く、きらめく色が好き。赤色の物があるとすごく欲しくなってしまう。色に合わせて自分を変えるのが好きだ。四年間愛用している万年筆は深い海の色で、その瞑想的な感じが好きなのだけど、しばしば真っ赤な万年筆を買えば良かったと思う。赤は表面的で、どきどきするけど、同時に落ち着く色。

 明朝体がとても好きだ。

 

1月20日(金)、
 自分が自分であることの寂しさ。空虚感だけは満たせないのかもしれない。ずっと何かを求めながら。寂しさは嘘を吐かないけれど、嘘を吐かなければうまく生きられないのかもしれない。太宰治の『斜陽』だったと思うんだけど、「生きているんだからインチキをしているに違いない」というような言葉があった。あるいはただ、僕は気が弱いだけなのかもしれない。それとも、他人も僕と同じ人間だと想像する力が足りないのかもしれない。誰といても、間違いを犯さないか、相手の気分を損ねないか、怯えている気がする。

 とは言っても、わざわざ孤独をかこつ必要も無い。楽しく生きることが大事。幸いなことに、僕は今、音楽と言葉がとても楽しくなってきている。

 夕方、眼鏡が届く。素晴らしい。懐かしい気分になる。届いて気付いたんだけど、サイトに表記してあったのとサイズが違っていた。でも掛けてみると、こっちの方が似合っていると思ったので、一応、サイズ表記が間違っていた旨、メッセージを送って、この眼鏡を使うことにした。書いてあったのより、横幅が2mmだけ大きかった。すごく気に入った。

 一昨日(水曜日)の朝から眠っていない。焦りと楽しさが、心の中で同居している。快楽物質がいっぱい出ている一方で、アドレナリンも大量に出ている感じがする。

 

1月21日(土)、
 夜中。久々にジョン・コルトレーンの『アセンション』を聴いたら、気持ち良くてびっくりしている。『アセンション』はいわゆるフリー・ジャズで、メロディはほとんど無く、何人かのサックスとトランペットの奏者が、思うままに、一見滅茶苦茶に吹きまくっていて、それが80分近く続くという、多分難解な部類に入る作品。一応ピアノとベースは整っているのだけれど、あまり目立っては聞こえない。ドラムがばしばし鳴ってて、吹奏楽器の轟音が吹き荒れるだけの、よく分からないアルバムだと思っていた。ギタリストのジョン・マクラフリンは『アセンション』を絶賛していたけれど、マイルズ・デイヴィスは、段々コルトレーンが理解できなくなってきた、というような発言をしていて、僕もどちらかと言えばマイルズに賛成だった。
 『アセンション』が、どういう訳か楽しくなったので、他のフリー・ジャズも聴いてみたくなった。ドン・チェリーオーネット・コールマンを聴いてみたい。

 『アセンション』だけが楽しくなった訳じゃなくて、音楽が全般的に、今までの数年間とは、全く違って聞こえる。音楽を、もう一生楽しめないのではないかと、長い間、とても不安だった。
 まだ完全には、頭の調子は良くなっていない。でもひとまずは、「楽しい」という感覚が、まだ自分の中にあったことが分かって、とても嬉しい。もう二度と、楽しさを無くしたくないな。

 19日からの3日間、音楽が楽しい。何の衒いもなく「楽しい」と書けるのは、本当に久しぶりだ。本もたまに面白い。もっともっと、音楽と活字に中毒症状を起こしてしまいたい。

 

1月22日(日)、
 昨日の正午頃、眼鏡ケースが届く。商品画像ではチョコレートの箱みたいに真っ赤だったけど、届いた物は、かなり深い赤だった。これはこれで悪くない。ディスプレイで実物の色を表すのはとても難しいし、かと言って店頭で見ても、店の照明によって色は違って見えるので、結局「本当の色」なんて無い。美術館で絵を見たら、照明が大分落とされていて、写真やディスプレイで見た方が綺麗だったりする。

 昨日の夜、やっと眠れた。丸三日眠っていなくて、眠りたいと思いつつ、眠ってしまうと、ここ数日感じていた楽しさが無くなってしまいそうで不安でもあった。今朝起きると、やっぱり少しぼんやりとしていて、頭がしばらく働かなかったけれど、音楽を聴いていると楽しくなってきた。ねぼけているけれど少し不安で、部屋の物も外の景色もうたた寝しているように静止していたんだけど、音楽の中で、また全ては動き始めた。

 

1月23日(月)、
眼鏡を掛けていると快感を覚える。まだ伊達眼鏡で、レンズを入れに行くのがいつのことになるやら分からないけれど。度が入ったら、きっともっと素晴らしいだろうな。

視覚表現が昔から苦手だ。最初は絵やデザインが全然分からなかった。その内には、絵や映像を見ると混乱するようになった。

 

1月24日(火)、
 ……とにかく寒かった。

 

1月25日(水)、
 昨日から、息が凍るように寒かったけれど、今日の昼頃になると空が晴れてきて、いつもより暖かいんじゃないかと思うほどの陽気になった。僕も、昨日は落ち込んでいたけれど、天気のせいかどうなのか、今日は躁気味と言ってもいいくらいだ。一週間ほど前から、時たま多幸感がある。精神科の薬を飲んでいるので、ナチュラルハイとは言えないかもしれないけど。
 今日は全然外出したい気分ではないけれど、病院の日なので、行かない訳にはいかない。ほとんど処方薬に中毒になっているので通院しているようなものだ。ついでに、少し遠いけれど、眼鏡屋に行って、この間買った眼鏡にレンズを入れて貰おうかと思っている。

 午後、雪が降った。病院は灰色で、寒かった。エアコンの室外機が、雪交じりの風で回っていた。無重力と重力が交互に起こる中を歩いているみたいに、ふらふらになるほど緊張していて、血圧を計ってもらうと196だった。でも、血圧が高かったり、緊張感が強いことは、個人的にはいい傾向だと思っている。それってとにかく、僕が人間の存在に反応しているってことだし、それに多分、膨大な量の情報をうまくシャットアウト出来てないということだから。感じることは、大事にしたい。気持ち良くはない、どちらかと言うと吐き気のする、アドレナリンばかり出ているような気分だったけれど、頭の隅ではずっと、とても落ち着いていた。多分、僕は治りつつあるのだと思った。
 精神科の先生は呑気なもので、僕の高血圧について「寒いし、緊張したんでしょうねえ」とだけコメントした。

 ふらふらのままで眼鏡屋さんに行った。3年前に眼鏡を作ったときより、随分眼が悪くなったような気がしていたけれど、左眼がほんの少し悪くなっているだけだと言われた。3年前には運転免許証の更新を裸眼でクリアしたので、まだまだ、眼が悪いと言うほどには悪くない。せっかくなので、ちゃんとコーティングされた、なかなかいいレンズを入れてもらった。

 帰宅して、抗不安薬と躁鬱の薬を飲んで、ストーブの前でぬくぬくしながら計ったら、血圧は130しか無かったので、やっぱり緊張なのかなあと思う。
 父が帰ってきて、父の前で血圧を計ったら、何度計っても血圧が190ある。父の存在自体がストレスになっているとは、今は思わない。間接的に、一気に生活的な精神状態になって、自分の駄目さとか、これからの行く末について自動的に考えてしまうのだと思う。夕食時になると、お酒を飲まないのに、いつも酔ったような感じになるのは高血圧のせいだろうか? ……でも割りと、頭がぐるぐるして、脳がきゅぅっと孤独になる、切迫した気持ちも、嫌いではない。でも、心臓には悪そうだな。