日記(落ち込み気味だ)

2023年1月3日(火)、
 午後、久しぶりに、自分が自分であることを思い出した。ひと月近く、僕は、僕が僕である感覚を忘れていた。風の音、そして空の匂い、この寂しさの中を生きていくこと。大事な感情や感覚を、僕はすぐ忘れてしまう。自分が自分であることはとても簡単で、とても難しい。寂しさの喪失は、何より、あってはならないことだと思う。僕には個人性や、拘りや、愛着がある。僕がいることの感覚。プライベートな感触。

 今年は出来れば、この個人性を取り落とさずにいられればいいんだけど。

 瞑想をしなくてもいい。宇宙を知らなくても、意識の次元(?)を高めなくてもいい。自分が自分でいられればいい。この僕でいたい。

 寂しさとは、自分の全存在を感じることだ。

 

1月4日(水)、
 ものすごく気分が落ちていた。生きていて何になるんだとか、何かが出来たところで仕方がないとか。

 

1月5日(木)、
 ぼんやりしていて、何もやる気が起こらない。雨がさらさら降っている。何となく、窓辺に置いたデジタルの時計を見ていた。
 遠くの林の匂いが、湿っぽい空気に乗って運ばれてくる。記憶の匂い。実際に嗅いだことのある匂いかは分からない。これが今感じている匂いなのかも分からない。陽の光が、鳥の声と共に、薄く開けた窓から、部屋の中に滲み込んでくる。本を読んでいると、匂いを強く感じる。

 

1月6日(金)、
 何も思い出せない。頭の中が脅迫的な言葉に満たされていて、意識の表面が殺伐としている。静けさなんて何処にも無いみたいだ。

 

1月7日(土)、
 命のぎりぎりの端っこにいることで浮かび上がってくる、全てがきらきらとした感覚って、きっとあると思う。今、生きていることの感触。

 ……僕は少年のままでいたいと、昔、思っていた。感傷的なままで、何も知らずに死にたいと。僕はいつしか、どうしようもなく大人になってしまったと思って、行き場のない衒学趣味に囚われていた。逃避願望か、もしくは虚無か。そうでなければ踏ん張ることしか出来なかった。いっぱい知らなければならない、何故だかはよく分からないけれど、たくさん知った方がいいのだと焦り、けれど自分自身、今の自分に納得していなくて、結局じっと座り込んでは、光が自分の中に見付かる瞬間を待っていた。
 今また思うのだけど、何歳になっても、60歳になっても、90歳になっても、もしかしたら200歳になっても、少年のままで、感傷的なままでいていいのだ。僕は僕のままでいたいし、僕のままで生きたい。僕のままで死にたい。

 けれど動けない。今いる椅子の上が、人間が生きている世界の外みたいに思える。

 

1月8日(日)、
 眠いのに眠れない。骨までがぴりぴりとしている。欠損。

 

1月9日(月)、
 全てを知りたいという気持ちがずっとあって、それと同時に、僕はただの僕でいたい、僕が感じることを、惨めさも含めて大事にしたい、という気持ちがずっとある。その両方が、僕にとってすごく大事なんだけど、どちらかと言うと後者を忘れてしまった方が、ずっと危ないと思っている。「世界」なんて言葉は、忘れてしまっていい。でも、自分が自分であることや、人が人であることを忘れてしまったら、僕の心は消えてしまう。

 

1月10日(火)、
 今現在を、魚が泳ぐように生きられたらいい。何も気にすること無く、何も思いわずらうこと無く。闇の中、ディスプレイの向こう側で、デジタル表示の時計の[04:09]がぼんやりと青く光っている。
 何も無い空間にいたい。ネットカフェが世界で一番好きな場所だったのに、病気が流行って行けなくなり、この頃になって行ってみようと思ったら、煙草が吸えなくなっていて、自分の生息区域がどんどん狭められているような、もやもやとした不安を感じる。真っ白な空間が好きだ。訳の分からない、出来れば気持ちいい思考をどんどん膨らませていたい。

(いつか真っ赤な、大きなピアノが欲しいな。窓を開け放つと音が長水路のように流れ出していく。樹々の葉っぱが水底を泳ぐみたいに揺れていて。
 それとも、アップライトのピアノでもいい。水草のような小さな部屋で、ランプやデジタル時計の周りを、ピアノの音が静かに回る。その小さな、儚い渦の中で、僕は小さな声で歌っていたい。)

 ディスプレイの中は、虚ろではない。僕はもう大分前から、怒りたくなったら、とにかく30秒、数を数えることにしている。それでも駄目なら、少し横になる。怒っているとき、不安なとき、不満なときは、何をどう考えても、絶対に自分が正しいとしか思えない。すとんと絶望に落ちたりする。孤独を慰めてくれるものが何も無い。

 僕には書くことしか残っていない。でも、書くことは残っている。

 夜。久しぶりにお酒を飲んでしまった。お酒を飲むと、自分がただ時間に流されている感触を肌や、そのずっと奥の骨で感じる気がする。

 

1月11日(水)、
 水の音。薄いドアの音。キーボードの音。僕は自分を治療して、世界に連れ出すために生きてきたはず。こんな暗闇の中で。

 何も無いなら、何も無いところから生き始めなくてはならない。

 

1月12日(木)、
 どうしても気分が落ち込んでしまう。夕食時、よほどお酒が飲みたかったけれど、酔って一瞬気分が良くなっても、すぐに空虚感に満たされると思って、少しも飲まなかった。そしたら何故か急にハイになったので、両親のいるところで、日付が替わるまでずっとギターを弾いていた。

 

1月13日(金)、
 ……

 

1月14日(土)、
 ……

 

1月15日(日)、
 朝、空の高くでは、雲が陽の光になかなか溶けきらず、緩慢にその形を変えている。ぼんやりそれを眺めている。心に余裕が出来てきて、ぼんやりしていても時間の無駄とは感じない。体内時間がゆっくりと流れている。

 午前中、ホワイト・ストライプスの『Ball and Biscuit』という7分19秒ある曲を10回くらい聴いた。とにかくエレキギターの音を堪能出来る曲なので、ギターの音を聴きたいときや、自分の精神状態を確かめたいときや、音のチェックをするときに、延々聴いている。今朝は、iPodで聴いてみたり、WALKMANの音の設定を変えながら聴いてみたり、ヘッドホンのイヤーパッドやケーブルを交換したりしながら、何度も繰り返し聴いた。ほんの少し聴いて音がいいと思っても、それで7分も聴いていると、何故か疲れたり、少し音が悪いと感じても、その音だと7分間とても楽しめたりする。本当に自分が聴きたい音を見付けるのには、少し時間が掛かる。
 くっきり聞こえすぎるのも良くなくて、音が少し混ざっているくらいの方が、音楽に浸りやすい。眼鏡のレンズも、完璧にくっきりと見えると疲れるから、ほんの少し見えにくいくらいに合わせた方がいいと眼鏡屋さんに言われて、そんなものかと思ったのだけど、音楽もそれに似ているかもしれない。聞こえすぎると疲れる。

 ヘッドホンは15年間、ずっと同じのを使っている。audio-technicaのヘッドホン。このヘッドホンの音が、僕の基準音になっていて、このヘッドホンで随分音楽を楽しんできたし、完璧に音楽に感動してきた。だから、このヘッドホンで音楽を楽しめないなら、ヘッドホンが悪いんじゃなくて、僕の精神が悪いのだと、僕は頑なに信じている。

 小さい冷蔵庫を買おうか迷っている。冷蔵庫は意外と音がうるさいので、廊下か、隣の部屋に置こうと思っている。加湿器やストーブの音や匂いは好きなんだけど。

 夜になって、雨戸を閉めた。ここ数日、夕方頃に小雨が降ることが多い気がする。風はほとんど吹かない。木枯らしを最後に感じたのはいつだろう? 雨の音に、時々、昔から連綿と生き続けてきた自分の息吹みたいなものを思い出すことがある。何もかも大丈夫だと思える。誰から見放されたとしても、自分が自分を感じられるなら、何も迷うことなんて無い。
 一週間くらい、比較的暖かい日々が続いて、空気は乾いているけれど、外に出ても、氷を押し付けられるような、びっくりするような寒さは感じない。
 この街には……世界には、子供の頃とても大切にしていたのに、今では何も思い出せない、大事な場所が何処かにあるような気がする。見付かったら瞬時に「この場所」だと分かる、僕の中の時間を巻き戻してくれるような場所。実際、僕の中では、時間なんて本当は流れていないのかもしれない。全て錯覚なのかもしれない。ただ、大事な場所からどんどん切り離されていく過程を、便宜的に時間と呼んでいるだけで。この世には、きっと何処かに、時間に流されることのない、永遠の場所があるはず。そしてそれは、まさにこの場所なのかもしれない。僕の中にあるのかもしれない。忘却していくことの白々しい不安。でも何を忘れているのかも分からない。

 この部屋にも酸素があるって、何て不思議なことだろう。そして僕の浅い呼吸。

 最近体重が増えた。僕の身長だと健康体重が68kgなのだけど、何とそれを超えるくらい肥った。70kg前後あって、こんなに肥ったのは20歳の頃以来だ。痩せるのはけっこう簡単だ。一回50㎏台まで落としてみようかな。