流れに身を任せながら

12月3日(土)、
 優しくなりたい。僕は自分のことばかりだ。でもだからって、他人の為に、なんて思って生きるのもまたとても自己中心的だ。大体の親は、本気で、子供のため、と思っていると思うけれど、子供は親の自己中心性を見抜いている。
 最近僕は、動くのがあまり苦にならなくなってきて、一週間くらい、食器は全部洗っている。でもそれは僕の為で、冷たい水に触れながら、お茶碗をじゃかじゃか洗っていると、頭が少しすっきりする。寒くなってきたから、浴槽もぴかぴかに洗おうと思っている。それも、昼間にぬるめのお湯に長い時間浸っているのが、とても好きだからだ。自分の目がいつも冴えていると、いつも眠たいと言っている母が、正直言うと、少し疎ましくなってくる。母は少し鬱気味だと思う。でも僕を省みてみると、僕は何年もの間、鬱で辛くて、本当に食べて寝る以外、何にもしていなかった。人のことなんて言える筋合いではないのだ。鬱になったことがなくて、自分の元気さを周りに当然のように押し付ける人間にはうんざりで、僕はそうはなりたくないとは思っているのだけど。

 言葉って何だろう? そもそも僕って何だろう?

 僕は消えてしまいたい。死にたいと言うより。生きながら、僕が僕自身を失ってしまえたなら、本当に素晴らしいと思う。僕という存在? そんなの知らない。でも……、捨てられない感傷もあって、それで消えるに消えることが出来なくて、とても中途半端だ。大事なものがあることは人生を、生きる甲斐あるものにしてくれる。けれど生きることを重たくもする。今この瞬間だけ、書いている間、それから眠りに落ちる瞬間だけでも、僕は何ものでもない存在になりたい。怯えながら、失うことを恐れながら生きていると、それだけで疲れる。呼吸だけで、もう疲れ切ってしまう。ギターを見る。ギターの無い世界は、軽々としてて、呼吸しやすいかもしれないと思う。のに、ギターの無い世界には耐えられないとまで、同時に思う。僕は消えたい。なのに都合のいいことに、時々だけ消えたいなんて思う。ネジを外すことの出来ない頭。まともじゃなくなることを怖れている。
 薬を溜めてたくさん飲んだり、お酒で薬を飲んだりして、瞬間的にさっぱりとした気持ちになることはある。薬がすごく効いている間、僕はすっきりと空っぽで、音楽を聴くと音楽になれる。でも少しだけ常識的な思考が残っていて、辛くとも、こんなことしてないで、きちんと毎日努力しろよと、頭の何処かで思っていてうるさい。

 自分を捨てたい。自分の為なんてちっとも思わない人間になりたい。AIみたいに淡々と生きたい。それを苦に思うことも無く。自己の保身。自己嫌悪。自意識。エゴイズムなんて要らない。それが生存にとって不可欠で、捨てる必要の無いものであるとしても。僕は自己完結したナルシシストになりたい。ただ、時間が過ぎていくままに過ぎていくだけの人間。そしてそれに十分満足している人間。藁をも掴まず流れていく。流れていきたい。僕は僕を忘れてしまいたい。