メモ(孤独感、など)


僕には誰にも届ける歌がない。寂しさを受け取ることが出来ると、お腹がほんのり温まるけれど、僕はこの空だけを真っ直ぐに届けたいと思う。夏の、雲の変化ばかりが早い、平坦で小さな空を切り取って。言葉ではそれが無理ならば、言葉は僕の道具じゃなくて、やはり僕の空みたいなものだからかもしれない。誰かと同じものを信仰するにしても、そこに何かしらの共有が生まれるとは思えないし、僕は何も信仰できない。傲慢なのではなく、それどころではないから。「忍ぶれど色に出でにけり……」という和歌があったと思うけれど、隠していても漏れてしまうのなら、感情って便利だ。「僕は本当は寂しいのです」と医者に言うと、先生はふと面白そうに笑って「ぬいぐるみを抱いて寝るとどうですか?」とジェスチャー付きで勧めてくれたけれど、先生が抱いている架空のぬいぐるみがあまりに大き過ぎるので、僕は笑った。そういう問題じゃない、と思いつつ、そういう問題じゃないことの積み重ねで、少しずつ、もしかしたら自分は孤独じゃないのかも、と思うようになるのかもしれない。もちろん、心は直接通じ合うものではないし、同情されたり、真面目に、話を聞こうと言われても戸惑うけれど、多分、無視されるのでもなく、深刻とかになるのでもなく、自然にいて欲しいんだろうなと思う。その自然さが僕の感情とあまりにも解離していたとしても、僕を受け入れて欲しいんだろうなと思う。時々僕の口から、嘘じゃなく小さな冗談を言ってみようという気紛れが起こるまで。その気紛れが仮に僕自身を白けさせたとしても、夜、眠る前に思い出すときには、そんな小さな冗談がほんの少し発熱しているように感じられるような。そんな、ささやかな温度を抱いて、僕は少し安心して眠れるかもしれない。薬は決して与えてくれることのない温度。



愛情に餓えている? 誰でもそうだ。すごく陳腐だけど、僕は愛情に餓えている。

内燃する感情……。伝えたいことが伝わらないから寂しいのか、それとも寂しいから伝えたいと地団駄を踏むのか、どちらが先かは分からないけど、全然伝わらないから寂しくて、寂しいから伝えたいという連鎖は発生していて、結局のところ僕は、ネガティブな感情しか動力源に出来ないのかもしれない。中途半端に元気なときが一番混乱しているかもしれない。中途半端な元気さというのも変だし、中途半端であれ、元気さというのは僕にはとても得がたいものではあるけれど。

病気で、本当に死にそうなときは、誰でもいいから手を握ってくれていさえすればいいと思う。もうそれくらいしか願いがない。砂漠で涸渇した人が、たった一杯の水に人生の全てを支払ってもいいと考え、それさえ手に入れば全てが満たされた心地がするように。今すぐ死ぬってときはシンプルで、欲求はストレートで、でもそれが充たされないと死ぬよりも辛い。元気があり過ぎるときは逆で、周りの人と自然に波長が合わなくて、普通に、自分としてはすごく面白いことを話しているはずなのに、相手の反応は鈍くて、あれ?、と思う。元気さって、小学校の時の理科の化学実験みたいに、一滴の違和感でさぁっと色を変えてしまって、それまで世界中の全ての人が友だちに思えていたのが、急にアルカリ性の液体に脳がどっぷり浸されたみたいな孤立を感じる。位置エネルギーみたいに、すごく高い場所でハイであるほど、落ちるスピードも速い。誰も責められない。要するに立っている高さが違っただけで、落ちたら落ちたで、今度は気分があまりにロウで、誰にも付いていけない。

でも薬と、多分脳の緩慢な可塑性みたいなものが、段々自分を無感覚にしてくれる。起き上がることが辛くなくて、話したくて堪らないような衝動もまた起こらないとき、自分でも最初は楽になったと思うし、周りからも付き合いやすくなったと言われて嬉しい。けれど辛くない代わり、充たされることも無くなる。孤独さが強いとき(死が近いと感じるとき、誰とも波長が合わないとき)、孤独さを埋め合わせたいという切望はとても一途だ。でも何となく周りと調和できる感じが続くと、それ以上何にもしたくなくなる。切望は消える。その内、僕は健康な状態をとても不健康に感じてくる。訳の分からない感情や疎外感が薄れて、飲みたくもないコーヒーを何杯も飲んでいる感じがして、出てくるのは文句と、ぐずぐずした自己嫌悪と、もやもやした空虚感で、そして胃もたれとコーヒーの不味さに段々不安になってくる。



僕は長年鬱状態だったし、死ぬこと以外ほとんど考えてなくて、しかも自殺できるほどの力も無かった。たまに良くなったときには、何でも出来そうだと大きなことを計画しては、計画だけで終わっていた。ネガティブであるにしろ、自分の中に、懐かしい、そして持続的な感情がまだちゃんとあるのを発見したのは、多分ここひと月くらいの間のことで、かなり明確に躁状態になって、とにかく喋りまくった後、今度は急にひどく寂しくなった。

僕は内面的で、内燃的な感情が無ければ、本当に何にも出来ない人間だ。義務感では何も出来ない。趣味にも暇つぶしにも興味がない。ポジティブな動機で動ける人になりたいと、よく思う。僕は何となく生きられて、現状維持が出来ていれば、もやもやしたフラストレーションは溜まってくるけれど、今すぐそれをどうこうしようという気にはなれない。ハングリーであれ、っていうのは本当だと思う。でも意識してハングリーになるのは不可能な気がする。意識して本当に切羽詰まった自殺願望を持つのと同じくらい。



孤独の音はとても小さくて、胸の下辺りで鳴っている。

いくら考えても埒は明かない。結局いつも同じ考えに舞い戻ってきてしまう。何故生きるのか?、ということに。どうして僕はこんなに長生きしたのだろう? もっと生きたい人もいるし、不本意に死ぬ人もいる。僕は人生を避けている。何もかもに直面することを避けている。痛みには本当に嫌になってしまって、少し動悸が始まると怖い。眠いとき人に会うと、自分が嘘つきに思えるし、眼が覚めてて人に会うと、嘘じゃないことが悪い冗談だと受け取られてひどく痛い。痛い方がずっとましだと思っていたけれど、それにも限度がある。身体の痛みは、脳内麻薬ですぐに安らぐけれど、心の痛みは蓄積して、あるとき現実がぱりんと割れてしまう。現実と悪夢の区別が付かなくなって、夢のナンセンスさが現実に侵入してくると、比喩ではなく時計の針が飛んだり逆に廻ったりし始めて、電柱が全て傾いて見える。でも現実感が無いわけじゃなくて、全てのものが生々しく、そしてとてもグロテスクに見えて、眠りながら真っ赤な明晰夢に生きてて、割れた心から世界全体に悪い血が拡がって、僕の内側にあるはずの痛みが、外界を覆い尽くして、全てが生々しく狂った傷口にしか見えない。何を見ても痛い。どんな音楽も痛い。「死ぬ」って普通静かな場所に帰ることだ。でも悪夢を生きてるとき、僕には帰る場所が無い。自殺は想像の産物で、多少メルヘンチックで感傷的な死を思い浮かべられるからこそ、自殺は出来るものだと思う。世界がとても綺麗に見えるとき、死はとても綺麗だ。悪夢の中で死んだら、永遠に悪夢から出られない気がする。僕は痛みを数年間避け続けて、段々世界が透明感を取り戻してきて、これが現実である、という外界の不動性をきちんと信じられるような感覚を取り戻してきた。悪夢は悪夢として、眠りの中にきちんと格納された。狂うのは怖い。でも、次は狂わないかもしれない。

後悔しても、恥ずかしくて死にそうでも、傷付いても、もうそろそろまた、僕は再び生きなければならない。痛くて現実が壊れそうになったら、また壊れてしまえばいい。自己防衛するほど、アレルギー反応のように、外からの痛みを自分の中で発酵させてしまう。僕が壊れてしまうのは、どうしても壊れたくないときだ。一般論を言えば、人は人間関係の中で精神を病むと思う。自分が破綻したら、人間関係も破綻するという恐怖心が大きいから。「普通の、破綻していない人」という基準があるとするなら、そんな基準を満たす人なんていない。僕は正常であろうとする強迫観念を捨てたい。正常じゃない自分を心底憎むとしても、好きとか、嫌いとか、そういう自己評価を超えたところに僕はいるし、全てを、正常だとか異常だとかいう観点から見ずに全部受け入れることが出来るのは、自分を全部受け入れたときだけだ。自分を好きでなければならない、という思い込みも捨てて、嫌いも含めての全てを。世界は本来、ものすごく綺麗だから。本当に綺麗な中で生きたい。