メモ(好き、のことなど)


数日間、考えが全然纏まらなかった。自分の中に少なくとも二つの、相反する感情があって、ほとんど眠らずに考え続けていた。大きく分けて、孤独を求める気持ちと、孤独だけは嫌だという気持ちが、同時に僕の中にあって、結局のところ、じゃあ僕はどう生きればいいんだろう?、と考えると、孤独でありながら同時に人のことを考えて生きるしかないのだと思った。人恋しい気持ちは当然のようにあるけれど、実際に人に会うと、ほとんどの場合、自然にはいられなくて、とても疲れてしまう。かと言って、人前で悠々としていられても、それはそれで自分が嫌になるんだろうな、と思う。隠遁したいと本気で思っていたこともあったけれど、それにしては人と本当に離れて生きることを想像すると、寒々しくなって、とてもうまく行きそうにないと感じる。



好きなものが何故好きなのか、言葉では全然説明出来ないけれど、「僕が感じているこの感じは、とても人と共有出来そうにない」としか思えないような、静かで、まるで異世界を心臓の辺りで覗き見ているような感覚を、好きなものに対してはいつも感じる。僕が特別に好きないくつかのものについて、好きな理由を訊かれても、一番大事な部分については、何とも言えない感じ、としか言えなくて、その感じはあまりにも確かなのに、いつもあまりに脆い感じがする。世界でたったひとり、僕に宛てて作られたような感じがして、僕だけが個人的に、作者の感情を確かに感じているような気さえして、時間を超えて作者と何かを共有しているような気がする、……少なくともそういう錯覚に陥る。でも、その感覚は、とても細い線でようやく繋がっているように覚束ないので、いつそれが切れるか分からなくていつも不安になる。

好きなものには何度も何度も、何年も接し続けて、作品や作者と、もう少し確かで永続的な関係性みたいなものを保てたらいい、と思うのだけど、同時にいつも新鮮な関係でありたいと思う。とても大切で、小さくて、脆い何かが、心の中で微かに震えるような感覚を、いつも感じていたい。好きなものとは(もちろん好きな人とも)惰性で付き合いたくないし、でも惰性じゃない、ってことは、いつもゼロから出会うことのなので、いつも少し不安だ。その不安を、僕はとても大切なものだと思う。だから、好きなものについては、本当はひっそりと、どうしても不安げにしか人に伝えられないはずなのに、僕にはどうも、手っ取り早くその良さを伝えようとあれこれ解説したり、大袈裟にプレゼンテーションめいた勢いで、好きなものを紹介して「これがすごく好き。本当にすごい」と場違いに性急に人の賛同を得ようとしてしまう、とても悪い癖がある。そのくせ、相手が僕に合わせて「すごいね」と言ってくれたら、嬉しくて、でも後になって、そんなに簡単に分かるものだろうか、本当かな、すごくありきたりにしか見てくれてなかったんじゃないかな、と意固地に疑いたくなってしまうような、あまりにも面倒くさい思考回路を持っていて、それ以上に、僕の好みなんか紹介されても迷惑だったんじゃないかと思うし、そして静かにひとりで作品に改めて触れてみては、安っぽく自分の「好き」を安売りしてしまったような気がして後悔する。

それでも僕は自分の好きなものは大抵、人に教えたくなるし、もし本当に僕の好きなものを好きと言ってくれる誰かに出会えたら、もしかしたらその人とは何か、それもやはり錯覚ではあっても、小さな何かを共有出来るのではないか、という希望のようなものをいつも持っている。そしてその希望は、ほとんど叶わないことも、うすうす分かっている。すごく個人的で、小さなもの(そして、僕自身、忘れがちなもの)だから。それなら最初から趣味が合う人と話せばいいようなものだけど、僕の「好き」と人の「好き」は違っていて、僕は秘やかに好きでいたいのに、相手に熱弁されたら虚しくなるかもしれないと、多分その機会を意識的に避けている。と言っても僕自身、好きなものについてうまく伝えられなくて、結局は表面的なことをあれこれ興奮気味に喋ってしまっては後悔するのだけど。それでも、何となく、自分と相手とでは、作品の愛し方みたいなものが違ってて、一般論を言えば、いろんな解釈や接し方があるから面白いのだけど、本当に好きっていうのはそういうのじゃない気がする、とか思ってしまうことが多い。もちろん、それは僕の偏狭さに過ぎない。けどもし相手の方が、僕の好きなものを、より深く好きだったり、あるいはもっと好きになりたいという思いが強いと思ったら、一瞬で相手に好感を持ってしまう。僕が興味の無いものであっても、すごく好きなものを持っている人のことは、やっぱり好きで、それは相手の人格とはあんまり関係ない。相手に合わせようとも思わないし、話を合わせるために同じものを好きになろうとは、なおさら思わない。でも、相手の好きなものに、本当に興味を持つことはある。でもそれで相手の好きなものとか、好きな気持ちが分かったなんて思ったり、言ったりしたら、それはものすごく失礼なんじゃないかと思う。でもそれは僕の中で個人的に、自分に対して思っているだけであって、僕は僕で、僕の好きなものを積極的に布教するし、別に心底分かってくれなくても、少しだけ広められたら嬉しいのだけど。それに一人に広めたら、その人がもっと広めてくれるかもしれない。

美しいものはいっぱいある。けれど僕自身にとって、個人的にとても特別なものは少ない。感傷的ではなく、感情を揺さぶられるのでもなく、心の中にある、小さな小さな、濁ることのない、静かな水溜まりを微かに揺らすような何か。そして誰か。ニック・ドレイク中原中也が、僕にとってずっとそうであり続けてきたし、これからもずっとそうあり続けるように、秘やかに、個人的に、特別に好きな、それを僕から切り離したら、僕の存在自体が揺らいでしまうかもしれないような、いくつかのもの。ずっと好きなものや、今好きになったばかりのものや、もう少しで何かが分かりそうなものがいくつかある。「好き」なものが嫌いになることはあり得ないように思える。けれど、「好き」が分からなくなることが僕にはあって、それこそが僕にとっての一番の病気で、いつかついには何もかもに無関心になってしまうんじゃないかと思うと怖い。だから僕は好きだったものに、何があっても拘り続けるし、「人の好みは変わるものだ」とあっさり言える人を、とても奇妙に感じる。自分の中にある、微かで、けれど確かな感情を、僕は手放せない。「好き」という感情は、趣味的なものではなくて、自分の存在に強く関わるもので、それを無くしたり、自分自身で蔑ろにしたり、どう好きだったかうまく思い出せないのに、口先だけで好きとか楽しいとか言っていたら、すぐさま自分がばらばらになってしまう気がする。僕は実際、ばらばらになっていた。この頃不意に静かな時間が訪れて、僕が僕であることの根拠を少しだけ感じられるようになってきて、あやふやだからじゃなくて、あまりに身に浸みるような感情だからこそ、うまく言えない事柄があることについて、少しずつだけど、思い出してきた。



僕に関わる人のことなら何でも許せそうな気がする。何故なら僕は僕で、僕自身が幸せになるために本気になるしかなくて、他人に僕を幸せにしてもらうことは出来ないし、また誰も僕を直接不幸には出来ないからだ。

人を羨んだり、恨んだりする暇なんて、本当のところは無い。そんな時間があるなら、自分のことについて、後悔し続けている方が、まだずっといいと思う。人のことについてはあれこれ系統立てて文句が出てくるけれど、自己嫌悪や羞恥心は、受け入れることしか出来ないし、説明出来ないどうしようもなさや恥ずかしさの中に、確かな自分が隠れていると僕は感じるからだ。他人への文句や、怒りの感情を、いくら頭の中でこき混ぜて深めても、そこには自分はいない。怒りは、我を忘れるものだけど、自己嫌悪や羞恥心は、自分の目を覚まさせると思う。

言い訳することも出来ず、自分でも選びようのない自分を、そう易々と受け入れられるものではない。だからそれを受け入れるのには少しの勇気が要る。自分でコントロール出来る自分なんてほんの僅かだ。大体僕は僕の意図しない言動をして生きてきたし、すごく真心を込めたつもりの言葉に限って変だと言われたり、すぐに忘れ去られ、適当に言ったことや、冗談に限って真意だと受け取られたりして、良く思われようとするほどちぐはぐにいつの間にか悪人みたいに思われてたり、本当に何の気なしに言ったことで感謝されたりしてきた。そういう自分を振り返って、自分で自分に満足出来ることなんて、まず無い。自分のことは全て自業自得だ。いつも悪気を持って生きている人はほぼいないと思う。僕も多分だけど、そこまで悪気のある人間ではないと思う。けれど、悪気があるということになったのなら、やっぱり自分には悪気があったのだと受け入れる以外に方法が無い。それは誰にでも必ず起こることだ。誰も分かってくれないと、大抵の人は思っているのではないかと思う。でも、そう思っている人だって、やっぱり他人のことは悪く思うのではないかと思う。

僕はもう何も誰かのせいにしたくない。それは何より、自分にとって不毛だからだ。僕は後悔や自己嫌悪していた方がいい。僕は今、他人を責めるよりもずっと、自分自身を知りたいからだ。誤解されてきたことも含めて、今まで僕は僕自身以外の何ものでも無かったのだ、と思うと、僕は全然良い人間ではなかったと思う。今この瞬間の僕だって、全然良い人間なんかじゃない。今ここにいる僕はただ単純に僕自身であり、人に求められていないし、人に求めることも出来ないから、人をわざわざ悪く思うことに時間を使うのは馬鹿げている。僕はただここにぽつんといる僕でしかなくて、良くもなく悪くもなく、ただの僕で、空っぽで、持っている感情と言えば、寂しさくらいだ。

僕は今は、寂しさを紛らわすよりは、寂しさをもっとよく知りたい。寂しさは、自分に嘘を吐かないから。僕は、寂しいときにしか、自分が本当に求めていることが分からないかもしれないから。僕は、今ここにいて、自分の心に耳を澄ませてみる。自分が本当に求めることをして、尚かつ誤解されたら、すごく痛い。僕は多分、一生安穏には生きられないと思う。

僕は何かしら書きたいといつも思って生きてきた。でも今まで書いてきたのは、殆どが他人に対する弁解や言い訳だったと思う。僕は少しくらいは正直に書きたい。それはとても難しいことだし、正直に書いて、何が出てくるかは、今の僕には分からない。碌なものじゃないかも。自分で自分が分からない方が、寂しいよりもずっと辛いと思う。寂しさが少しずつ身に染みて感じられるようになってきて、でもその代わり、喜びも喜びとしてちゃんと感じられるようになってきた。