weak end

ベッドメイキング、シャワーを浴びる、入浴、ガラスの花瓶に入った花、

小さな、小さな、小さな家に住む。透明な、ガラスの家へ。
本棚に凭れてギターを弾いていたい。
詩と小説と海色のサイコロの棚……、、、


神の言葉は要らない。真理も要らない。科学的な真実も要らない。
僕が欲しいのは2バイト分の思い出だけ。
僕が知りたいのは僕の弱さだけ。
そして、すぐに消えてしまう、永遠の光だけ。
消えないはずなのに、多分すぐ消えてしまう、永遠の光だけ。


僕は人生に迷ったとき、そしてとても苦しいとき、哲学とか真理とかに惹かれてしまう。宗教はくだらなくて(異教を異端視する狭量さとか)、どうしても興味が持てなかったが、どうしても苦しいときに、苦しみを一気に解決してくれる神を求める気持ちは、分からなくもない気がする。僕は哲学や思想の本だけは、ここ数年ほどの間にも読んでいたけど、結局のところ、僕は自分の、多分悟った人から見ればくだらないような、あれこれの感情を捨てられない。いろいろ考えて、結局分かったのは、何かを分かった気になるとまずい、ということだけだ。人間のことが分かったと思ったり、世界を知った、とか思うと、途端に考えが窮屈になる。人のことを知ったかぶると、人のことを想像しなくなる。世界が分かったと思うと、世界を見なくなる。

何でも同じだ。世間を知ったとか社会を知ったと思うと、人を侮り始める。遂には、分からないという人に説教を始めさえする。いろいろなことを感じて生きていたはずが、鈍感な、憎むべき大人たちの一員に成り下がってしまう。真理(科学的な真理であれ、哲学的な真理であれ)を求め始めると、この世界のいろいろなことに興味を持てなくなる。

僕は自分の感情や、人の感情や、音楽や言葉や文学に興味があるのであって、悟りだとか真実の世界だとか、そういうことは本当はどうでもいいと、随分哲学書を読み込んだ後になって、やっと気付いた。それに、仮に真理というものがあるとすれば、それは言葉や思考によっては得られない。それは感覚と感情と想像力によって得るものだ。何もかもがくだらないという気持ちでいろいろ考えても、何ひとつ分かりはしない。僕は正しいことについては書けない。仏陀とかが書くのならともかく、ただの弱々しい個人に過ぎない僕には。寧ろ、自分の弱さと、人の弱さについて書きたい。それ以外は、知識や知見をひけらかすよりは、僕には何も分からないというスタンスを保ち続けたい。分かるのは自分の好き嫌いくらいで構わない気がする。

生活感に押し潰されそうなときだけ、生活から少し距離を置くのはいいとは思うけど、例えば何かを考えたり、半端に悟ったりして、生活、つまり人たちが生きている世界を完全に離れてしまうとか、人を何とも思わなくなる、となったら、本末転倒だ。何のための悟りや思想なのか分からない。


きっと一生本が読めないだろうと観念していた。それに多分、もう書けないだろうと思っていた。言葉を全否定する禅の思想に惹かれたりもした。読書が楽しいときは、他に思想なんて要らない。哲学というのは多分、何かを失った人が、思考の方面からそれを取り戻すためにあるのだと思う。素朴に言えば、自然な気持ちというものを、もう一度、思い出すために。

哲学は、身に付けるためにあるのではなく、通過して、忘れ去るのがいいと思う。思考が働かないと、感情もまた働かない。ちゃんと感情が働いていれば、勝手にやりたいことが見付かるので、別に人生の指針だとか思想なんて要らない。哲学や宗教は必要性から生まれたものだと思う。大昔から、自分が何をして、どう生きたらいいか全然分からなくなってしまう人が沢山いたのだと思う。

好きなものが何にも無いとか、分からないとなると、生活がどんなに満たされていても、途方に暮れてしまう。僕は音楽さえ好きとは感じられなくて、環境音のアプリで工場の音を聞いたり、民族音楽を漁ったりしていた。本来ストレスフルな人の為にあるはずのヒーリングミュージックは全然好きにならなかった。でもアンビエントはよく聞いていたから、同じようなものかもしれない。形あるもの、リズムや音色が怖かった。僕は今、ロックとテクノとジャズを主に聴く。あと、クラシックとブルース。一回りぐるぐる音楽の回路を巡って、結局同じところに戻ってきた感じがする。

自分の好き嫌いが分からないときに限って、いろんなものが理解出来なければまずいのではないかというような焦燥感に満たされて、わけの分からないまま知識だけが増えていく。作曲家の名前とか曲名はよく覚えるけれど、肝心の曲についてはあまり覚えていない。散漫に百枚のアルバムを一回ずつ聞くよりは、一枚のアルバムを百回聴き込む方が断然いい。耳を素通りする音楽は心に蓄積しない。第一楽しくない。脳幹に刻みつけるくらい、丸暗記するくらい同じアルバムを聴いた方が、僕は、いいと思う。僕には少しスポ根的なところがあるのだ。昔々、CDで音楽を聴いていた十代の頃、一枚のアルバムを百回聴き通さなければ、音楽は理解出来ないと頑なに思っていて、ノートに生真面目に聴いた回数を記録していたら、友人には呆れられたけれど、でも本当に、ちゃんと百回聴いたアルバムは、その感じとか感触とか景色とか色合いとか歌詞とか細かい音を、今でもきちんと覚えていて、僕の細胞の一部になっていると思う。多分、そういう生真面目さによって蓄えられた脳細胞や皺の蓄積が、今の僕の多くの部分を形成していると思う。そういう、馬鹿げてるみたいな、個人的な、憧れからくる拘りみたいなものを、忘れてはならなかったのかもしれない。


違法な薬を使わなければ、もう何処にも行けないんじゃないかと思っていた。バロウズだとかキース・リチャーズみたいに、浴びるように麻薬を使っていて、しかも長生きして世界的な天才であり続けた、またはあり続けているアーティストは沢山いて、そういう人たちは麻薬を使った「ゆえに」天才なのだ、と思い込んでいた。ルー・リードがヘロインについての素晴らしい名曲を作っていたりとか。でも普通に考えて、ジャンキーは山ほどいるのに、天才は一握りしかいないし、麻薬とは無縁な天才は幾らでもいる。僕は天才ではないけれど、すごくハイで楽しかったとき、別に違法な薬なんか全然使っていなかった。病院の薬ですごくハイになれると思い込んでいたけれど、あるときから薬の効能を全く感じられなくなった。鬱の人が覚醒剤に手を出す気持ちは辛いほどによく分かる。僕は病院に行くたびにリタリンコンサータを出してくれと粘ったけれど、毎回先生には「覚醒剤ですからねえ」で一蹴された。薬局では小学生みたいな男の子にコンサータが処方されてたけれど、僕にはODしまくった前科があるので、処方したら確実にODすると疑われてたと思う。カプセルの中身だけ取り出して。僕は今までドラッグを使ったことが無いけれど、すごく憧れていたのは確かだ。けれど、ドラッグが近くで手に入ることも知っていたけれど、単純にお金が無かったし、第一に外出が億劫すぎたので、たまたまやらなかった。もし、お金があって、懇切丁寧に、家まで売人が売りに来てたら、じゃんじゃん買ってたと思う。今は音楽と言葉があればそれだけで楽しいし、しかもその楽しさは日々増幅している。ものすごく得な体質だと思う。人工の麻薬は段々効かなくなるけれど、脳内麻薬はいつまでも効くどころか、楽しいのでさらに楽しいことをすることの連鎖で、さらに楽しくて気持ちよくなる。躁状態じゃなくて、これが普通ならいいのだけど。

この瞬間が幸せだったら、もう未来なんかどうだっていいな、という瞬間が毎晩来ればいいけれど、あるときぷつんとそれが途切れて、本当にどうだってよくて死にたい未来が延々続くかもしれない。気分は天気や風向きと同じで、別に僕の利益のためにあるわけじゃない。

どこか奥深い場所へ吸い込まれていくような。
気分が変わったので、新しいことを書こうと思って急いで買ったノートには、まだ何も書いていない。エンドルフィンが夜を発光させるように染める時間、取り憑かれたように書きたいから。

まだまだだ。僕が行ける場所はこんなものじゃない。

長年読書をしなかったし、たとえ読んでも読んでないのと同じで、視点が活字の上を撫でていただけだったから、言語力や思考力、想像力が、使いものにならないくらい落ちている。けれどあまり気にしない。何故なら今、勉強すること自体が楽しいからだ。学んでない分、多くを学べる。読み飛ばしてほったらかしていたり、読みもせずに埋もれていた本が、新たな世界を提供してくれる。僕は本をゆっくり読むのが好きだ。立ち止まり立ち止まり、考えながら、想像しながら。速読とは真逆で、細部を注視し、そして膨らませている。回復しているのを感じる。

ものすごく、ゆっくりと丁寧に生きたい。

自己の防衛システムって、いつも自己を破壊する。自分を守ろうとすると、何故かいつもうまくいかない。自分を守っていると、自分を忘れてしまう。自分を忘れた人から、人は離れていく。

……