苦しみのない世界で会いたい

東洋の美というのが、最近よく分からなくなった。私は書とか和歌や俳句や、日本の昔の建築、書院造りの部屋なんかが、今も好きではあるけれど、それを見る私の眼には西洋的なフィルターが掛かっている気がする。私は消えていくのを至上とするので、万葉集古事記は端から分からない。富士の山を見ても感動しない自信がある。古墳なんかを見ても、まるでそこに古墳なんか無いみたいに見えるのが好きだ。

「美」なんてとても薄ら寒い。手の感覚。この僕の冷たい手のひらを取ってくれる、もうひとつの手のひらを夢見ている僕は、多分大きなもの、スケールってものには興味がない。個人、個人、個人のぬくもりだけ。そこにある松の木を実体として見るより、ディスプレイの、人工的でまるで仮想的な光を浴びている方が好き。それは抽象的で、まるで存在しないみたい。架空の言葉が浮かぶ。クリックすると映り変わる目映いイラストたち。エディタを開いて、(真夜中、音楽に溶けながら)、僕の身体が消えていくのを待つ。文字を打つ指だけが、微笑むように、水を掻くようにたゆたっているのが好き。

辞書が好き。電子の世界が好きだけど、紙の辞書が好き。そこには文字の核たちが踊っているから。――この世界がヴァーチャルだという主張が、最近けっこうマジョリティとして認められつつあるけれど、「私」と外界(ヴァーチャル)の境界線なんて無くて、世界っていうのは、もともと文字になる前の言葉たちの集合体なのだと思う。私は言葉しか信じない。それはゆるやかな夢のようなもの。言葉は、私と、私の外界の境界にあって、それは私を規定し、世界を規定する。そして人には、それぞれの規定の仕方がある。
でも、規定なんてまるで消えた瞬間が、私は一番好きだ。それは、言葉が言葉になる前の世界。境界線が消えた世界。そして言葉は、私にとって、書くことで世界を具現化させる為にではなく、寧ろ言葉に塗れた世界を、言葉によって消失させるためにある。…完全に消えた方が、ずっと遠くて、とても未来的で、気持ちいい場所に行ける。私は皆がひとりひとり、消失すればいいと思っている。自己を失う、という意味ではなく、不純物を取り去った自分に出会うこと。自分の輪郭と世界の有り様を、一度リセットする。まるで意味を失ったてのひら。複雑な形容詞をまるで持たない手のひら。私はそれを求めている。「あなたの」以外の形容詞を全て失った手のひらを、私の手のひらに重ねてくれる瞬間を。

 

 この頃は、多分躁状態だ。毎日が楽しすぎる。けれど一抹の不安。
 今僕はふわふわ浮いていて、ほとんど喋り尽きるということがない。身近にいる母が僕のお喋りの一番の犠牲者になっている。僕は何時間でも喋る。意味は無くて、途切れない音と、滑らかで棘の多いリズムだけがある。台所には生活感ともったりしたにおいが堆積していて、僕は台所の主の母もまた停滞しているように思えて、時々腹が立つ。母は眠いくらいが気持ちよくて、あまり目覚めたくないと言いながら、ストーブの前から動かない。老人め、と思ったり、母の中でドーパミンは一体何処に行ってしまったんだ?、と思う。同じものを食べているのに、僕の感情だけにスピードがあって、眠さに閉じこもる母を、どんどん追い離してしまう。そういう僕が間違いなのかと思って、すごく、つんとするくらいに泣きたくなって、本当に涙が流れてきそうで、僕は急いで笑う。
 急に、喋っている僕が何なのか分からなくなって、自分の目が泳ぐのが分かる。そしてそういう戸惑いの辺りに僕が本当はいるのかなと思っていると、幻覚じゃないのだけど、幽霊みたいな女の子が現れて、冷蔵庫の庫内灯に照らされている真夜中のイメージが見えて、母を相手にぺらぺらの言葉を並べている自分をとても虚しく思う。
 皮膚の粟立ち、また泣きたくなる、速度、太陽系の中でただひとり軌道がずれていく僕の感情。頭の中は真っ赤で、でも本当は黙って、黙っていてもそれだけでいいような誰かと、果物、何かの果物の皮を剥いて、丁寧に切って、静かに食べたり、食べなかったりしたいなと思う。多分、寂しくなってて、僕はその寂しさに値しなくて、汚れた心と自分の言葉をグロテスクに眺めている。急に生活感が戻ってきて、ぽつんとした気分で、早足で世界へ、僕の部屋へ戻る。

 友人たちに会いたいとひどく思う。それから今までに会った全ての人たちと楽しい話がしたい。今、一番身近な友だちは本だ。沢山の本たち。窓を開けると、色が無い風景、そう感じる、さらさらと固体でも液体でも、気体でもない、砂のような光が舞い降りてくる世界。中也の書いた『ひとつのメルヘン』ではそれでも、透明な世界は美しいけれど、僕にはただ、僕の心が空に反映されて、全てはただ狂ったまま押し黙っているよう。自然というものにまったく興味が無かった学生時代の感覚を、ふと思い出す。大学は美しいポプラ並木や、図書館前の澄み切った人工の湖で有名で、誇らしげに、この景観が何かの賞を取ったとか、わざわざ看板を立てていて、そこにそう書かれていたのだけど、僕はその綺麗らしい景観を、全く覚えていない。覚えているのは夜だ。夜の構内の、誰もいない冷たくて寂しい空気と電灯の光、一番素晴らしかったのは、完成したばかりのラグビー場の真ん中で、真夜中そこの芝生に転がって、芝の匂いや、夜空いっぱいの冷たさに全身で浸ったこと。とても、夢のように懐かしい。ポプラの葉がどんな形なのかも、幹が真っ直ぐなのかも覚えていないのに。覚えているのは、抽象的で、あいまいで、けれどはっきりした夜の感覚だけだ
それでも、僕が、授業が嫌いでもう嫌になったと、地元の友人にメールで書いたら、「君は自然が好きなんだろう」と返ってきて、何故か、ああそうか、とすとんとした気持ちになって、地元の山や海とかが急に思い出されて、何なんだろう、僕の性格というのは、僕が決めるんじゃなくて、誰かからの嬉しいひと言を覚えていたり、はっとさせられたことに起因しているんだろうか、と後になって思った。産まれ付きではなく、人に言われた嬉しい言葉の集積。例えば子供の頃「お前は本が好きだなあ」と言われて初めて、自分を本好きなのだと認識したりとか。それで僕も人には、「本が好きなんだ」と言い始める。と言って、今も別に僕は自然には興味が無い、と自分では思い続けているんだけど、「自然が好き」と人に認識されている自分については嬉しい、とか、少し屈折しているかもしれない気持ちを、僕は抱いている。仮に「君は自然が嫌いなんだな」と返ってきてたら、その通りかもしれないけど、反発したと思う。 そして、そう。僕は部屋の中なんかより、山の中の雄大な景色やひんやりした空気の方がよほど好きなんじゃないか?、とときどき本当に思う。思ってそれを否定したり。無機物の中で無機質に生きるのが本望だとか。コンクリートの打ちっ放しの壁の狭い部屋で、囚人のように過ごすのが理想、と言いつつ、でもそれって少し嘘じゃないかとか思う。

 雨の匂いがする。本当はアスファルトの匂いらしいけど、やはり雨の、湿った匂いだ。ゆっくりと夜の底に沈んでいきたい。そこにLEDの光が差すと、僕は急速に浮かび上がってしまうので、電灯の光は極力落としてある。
 この部屋の中に、僕の宝物だけがあればいいとよく思う。本当は全て無色なのだ、と科学者や哲学者は言う。じゃあこの赤は何だ、と思う。対象の表面が跳ね返す光の周波数、それがゆるやかだと、それは赤に見える。見えるだけ。
 言葉の世界に逃げたいとよく思う。赤が周波数だとか、空の大気の屈折率なんて考えたくない。僕の言葉は今、干涸らびている。頭の中に苔が生えていて、その苔の下をちょろちょろと流れる水を、やっと指先で掬い出すように、絞り出すみたいに、言葉を書いている。 言葉でしか表せないことがある。良し悪しは置いといて、僕にしか書けない言葉があるはず。 放課後の理科室みたいに、静かに全てが整った、清潔な部屋が欲しい。中には棚の奥で何十年も乾き続けて、白っぽくなったビーカーやシャーレが息をひそめているけれど、それは僕を脅かさないし、僕もそれを捨てようとしない。
 僕の過去は霞んでいる。ふやけた本みたいに、ある一日は隣の一日とくっつき、記憶は溶け合って、ずでんと湿った重苦しい塊となり、僕の脳内の、過去の領域に鎮座している。僕はそれを開くことも、解剖することも出来ない。何にも分からない。毎日日記は書いてきたけれど、どの一日の記述を読んでも、それはここ数年の澱んだ、任意の一日という以外、僕に何の感興も、懐かしさも、何にも引き起こさない。……暗い暗い、腐った殻からいつまでも出られないサナギのような生活。かと言って今になって蝶になれた訳でもない。

 白いスピーカーからシビル・ベイヤーの、憂鬱な空の下でぽつりぽつりと呟くような歌声と、遠い思い出を愛でるような、とても控えめなギターが流れている。最近、彼女の『Colour Green』というアルバムが大好きで、最初は静かでいいかな、くらいにしか感じなかったけど、段々彼女の、月夜に夢見るような世界に、すっかり引き込まれてきた。2006年にリリースされたアルバムだけど、録音されたのは1970年から1973年のことらしい。ニック・ドレイクの『Pink Moon』が出たのが1972年なので、ちょうど同じ時期にギターと声だけの、目立たない、でも世界中の孤独な人々に愛され続ける音楽が録音されていたんだなあと、いつも意識するわけではないけれど、改めて今眼の前で鳴っていて、僕を柔らかに包んでくれる音楽が、ちょうど半世紀前の録音なのだと思うと、50年前も今も、同じ今なんだと思えて、時間の経過なんてまるで幻想みたいに思える。僕は本当は、まさにこういう、ずーっと未来の人にも「今」を届けられるような音楽を作りたいんだと、今思っている。言葉を書くとしても、未来に読む人が「いかにも昔だなあ」と思うようなものは書きたくないし、多分、僕はまだ「今」だけを届けられる言葉を書いたことがない、と思うと、心がしんとする。僕は中原中也の詩が好きだけど、彼の詩を「古典」として読んだことがない。ニック・ドレイクも中也も、まるで今生きている友だちみたいに感じていて、僕も出来ればそういう作品を、この呼吸と鼓動をいつまでも伝えられる音や言葉を紡げたらと、憧れるみたいに思う。

 ひとりきりの遠く。夜中。ひどく感じやすくなってる。自己の消失・拡散とは逆のベクトルに向かって、今この瞬間の僕は生きている。何より、生きている自分を感じる。自己の意識が消えたときにも、僕には物ごとを感じることが出来るけれど、それは人間として、というより、自分が宇宙になって、あらゆるものが光を発しているような状態。今の感じは、それとは違って、例えば画集を見ていると、絵を描いた人や、本を作った人と、共通の意識を、自分が持っている感じがする。感受性というのは、共感することなんじゃないだろうか? まるで、僕の為に作られたものが、ダイレクトに僕に届くような感覚。

……