メモ


僕は宇宙を生きている。同時に社会を左脳的に生きている。僕はそのどちらも好きだ。

言葉は生きているということ。

人の属性じゃなくて、人間そのものを好きになれたらいい。人を区別することに時間を割きたくない。

言葉はまるで生物のよう。体温があって、痛みがあって、毒があって、光があって。

煙草のにおいが優しく漂う。手指の先のトーン。キーボードを叩き、万年筆を走らせ、ギターを弾く手。人に触れることだって出来る。僕の今の関心ごとは、宗教にも哲学にも無い。世界が体温を保ったままであって欲しい。

僕が死んだ後は、僕に属する(と僕が思っていた)あらゆるものが消えてしまえばいい。

全ては地下だ。全ては街の一角。

心の病気とは概ね、言葉が壊れることだと思う。病的なとき、僕は言葉を遊ぶことが出来ない。詩はとても健康だ。

僕の世界は、僕の世界観で出来ていて、僕は僕の世界観をどんどん強固にすることに必死だった。

思考は水のように流れている。水は水同士溶け合い、同時に反発し合うから、流れる。

円は球になる。球は何になる? 地球は青いかもしれない。言葉も青いかもしれない。言葉が青いから、水は青いのかもしれない。

僕は、人の声が好きだ。疲れた声や、心配性の声、それからよそよそしく、震えがちで、呟きが呻きに変わったり、神経質に早口だったりする、いろんな声。

感じたい全てを感じられますよう。この世界を見たら、あちらの世界に行く。だから、この世界に未練なんか残したくない。

段々自分の世界が出来てくると、他の世界の侵入が怖ろしくなる気がする。他人の世界に侵害されるのが、何より怖くなる。しかもそれを意識しない。自分の意見らしいものが出来てしまって、それをどこまでも主張したくなる。自分が正しいと思っているとき、僕は正しくない。自分が段々そうなっていることに、自分ではなかなか気づけない。
自我は、本当はとても脆いものだ。ということは世界もとても危なっかしいものだ。次の瞬間、世界の規則はみんな崩れるかもしれない。重力が無くなって、身体がどこまでも浮かんでいって、しかも死ぬことも出来ないかもしれない。経験的に、そんなことは無かったけど、次の瞬間どうなるかは分からない。今という永遠の中にいたい。

誰の中にも泣いている自分がいる。でもその泣き声には慣れてくる。結局のところ、みんな救われるのだ。社会的な力を身に付けて、それを誇りに思っている人たちも、強い人も、正しい人も、弱い人も、間違っていると言われている人も、皆。

再生を表すiPodの点滅を見ている。

花は毎日世界を咲かせている。世界が咲いている。僕はそれを花として見ているけど。

言葉は、温かな海だ。

静かで、
全てで、
青く、
効果的な。

攻撃的で、
批判的で、
反発し、比較された、
再生された、新しい、
青、茶色、ノイズ、
起床する、残酷な燃料、
プルリング、

草陰に隠れていて急に飛び出してくる、

アメーバ、メディア、
複製された生命、
両替、
闘争、島国、
そして人生のための音楽。

僕は生きていた。僕は今、生きていない。でも、僕は生きるだろう。

ピアノは素晴らしい楽器だ。青くて。空間に孤独な夢を描く楽器。

意味の無いことは良いことだ。意味が無意味であっても、無意味が意味であっても、関係なく、僕は僕に感じられる全てを感じる。

身体はヴァイオリンで、ギターで、全ての楽器だ。声は僕の骨で、僕の身体で、血管だ。僕はただひとつの楽器しか持っていなかったし、今も持っていない。いずれテクノロジーが僕を補強してくれるかもしれない。ギターがピックアップの力を得たように、僕も電気的な楽器になれるかもしれない。

ギターをこんこんと叩いてみる。ギターは、論理的だったり、僕が予見出来る思考を超えていて、まるで今にも歌い出したかった空間が、凝固して形になり、波になったみたいだ。鉱石や木は無言で歌っている。職人は素材に声を与える。それはとても重要な仕事だ。ストラディヴァリウスになる以前にも、スプルースは生きていた。木の生命は、楽器となるためにあった訳じゃないけれど。僕は生きた木が、素材となり、それが楽器へと加工される過程が好きだ。僕は物が好き。

僕は醜いもの、老いたもの、汚れたものが好きだ。あまり区別したくない。美しいものと、そうでないものを。

ああ! 僕は人として生きている。



現代詩から感じる何か。ずきずきしてどきどきして透き通る何か。それは音楽から感じるあの感じ、見ている風景を音楽の一部にしてくれるような、音と景色の区別が無くなって、見えるものをとてもリアルな幻覚のように見せてくれるような、無重力の中で自分の心臓の引力だけを感じているような、喉の奥からみぞおちの辺りが氷のように冷えて、息がとても浅くなる感じと似ている。その、好きとも嫌とも言えなくて、健康とも狂気とも言えなくて、でもそれが無ければ僕が僕じゃなくなる、その感じを、音楽や言葉から感じる。その冷たさは、頭の中まで上がってきて、脳幹を冷やす。脳全体がとても寂しくなって、何もかもが、冷たい水の流れに溶けていく。全てが無意味になって、全てが懐かしい思い出になる。
アニメや映画から感じる感動や涙は、熱っぽくて、焦りにも似ていて、それが無くても生きていけると感じる。絵もそう。絵を見ていると、何かを掴んで離さない、強く抱きしめているような感情になる。でも絵は、ときどき冷たい。冷たさが好きだ。でもその冷たさは、いつまでもは続かない。忘れてしまった感情に指を浸して、次に身体を溶かし込んでいくような感情。その冷たい感触を忘れたくない。僕よりむしろ、本や音楽たちが、それを覚えている。僕の脳内よりずっと遠い宇宙を、いつまでも覚えている。僕が忘れてしまっても。僕が生きている限り、僕はいつでも、心の中の、それとも身体の何処かの、冷たい冷たい水溜まりに触れることが出来る。

日々、日常が嫌いになり、日本語が嫌いになり、そしてまた好きになって、朝起きて最初に目に入るイチゴ柄のマグカップとか、いいなと思う。世界は暮れて、死ぬまで晴れないのかも。哲学と心中するのかも。陽の光も感じないまま。チープでカラフルなものを無視したまま。死んじゃうのかも。

なすがままになんかならない。私はもう流されたりしない。私は羽の折れたペンギンだった。よちよち歩きで砂漠を横断してきた。今、私の前には海があって、羽はリハビリを始めたばかり。次こそはどこまでも自由に泳いでみせる。海の底の果ての果てまで。私はもう、流されたりしない。波には飲まれないし、砂地に打ち上げられたりもしない。
夏が来る。夏にはきっと泳げるだろう。

僕とは何か? 僕が僕を意識するとはどういうことか?

世界。色。つまらなくて可愛いものたち。

とてもクラシックなものが好きになったり、とてもポップなものが好きになったりする。何も好きじゃないときもある。……僕が現代に生きていることは、僕が、現代を生きている他の人たちと同じ今を生きているということだ。……僕は僕を良く見せようとする。今生きている他人に対して。みっともないとか思われたくない。その気持ちはときに不安を伴い、ときには身体が透き通りそうに快い。

僕が何処にいるか、誰も知らない。ここは何処なのか、今はいつなのか、誰も知らない。

冷たい感触が好きだ。透き通った空気がすいっと気道を通って、みぞおちあたりでそれは液体に変わり、お腹の底の方に滴る。お腹を触ると、熱いくらいなのに、体感はとても冷たい。透明な冷たいものが、血管を通って、全身を巡っている。

腕時計の秒針を眺めているのが好きだ。ほぼその為だけにアナログ表記の腕時計を買って、毎日付けている。おそらく一生、ずっと付けていられる、とても頑丈そうな、カシオのプロトレックという、アウトドア用の時計で、格好いい。小さなデジタル窓には、日付と曜日が表示される。
僕は『イノセンス』というアニメ映画が大好きで、とにかく画面の色の統一感が綺麗なんだけど、その色はアンバー(琥珀色)を中心として構成されていて、それが画面の未来っぽさの中に懐かしさを与えている。僕の付けている時計は、全体は黒で、細かいパーツやアクセントがアンバーっぽいオレンジだ。2100年代になってもクールに通用しそうなデザイン。最初は赤と黒のがいいと思ったんだけど、そちらは正統派のG-Shockの系統という感じで、レトロ感の方が強い。

[録音するもの]
・季節が変わる音(灰色)
・憂鬱の細胞が分裂する音/死滅する音
・眠気の音
・徴兵制がきしむ音
・風の音/想像した風の音
・意識が消えていく。意識、そして0の意識の音
・人たちの意識は宇宙の果てで繋がっている、その場所からのノイズ

私はただの抜け道。
私はただの抜け殻。

現実が冷たい銃口を向けてくる。

木、木製品、擦り減った石、
マホガニー、アルダー、スプルース、ローズウッド、、、、

90歳からギターを弾き始めてもいい。ただの一音でもいい。そこに光があるなら。必要なのはその光だけ。

個人の偉大さは、自己からの解放の度合いによって決まる。

性欲なんて頭を狂わせるだけだし、時には人生さえ狂わせてしまう。無ければいいのにと思う。肉体で繋がることは、とても遠いこと。言葉とか音楽で繋がる方がよっぽどいいよ。いっぱい食べて、体力を付けて、その体力は創作とか想像に使った方がいい。支配的だったり、戦闘的な感情の為に身体を使うんじゃなくて。

自分を守ろうとすると、自分を守れない。

自己から距離を置くこと。寧ろ自分なんて捨ててしまえ。身に付けてきたと思い込んでいる全てを、捨ててしまうんだ。

人と少し話せるようになった、と思い始めてから、寧ろあまり人と話さなくなった。話しているときの自分が、後になってすごく嫌になる。

恥ずかしい思い出が自分を支配する前に逃げている。

何も残さず消えることが至福。ゼロになることが。

空っぽになれると思うと、まるで未来を生きてるみたい。
全ての人、誰にだって、好きな人にも嫌いな人にも、悪い人にも、会ったことの無い人にも、本当に誰にだって、笑みを送れそう。

あの世には何も持っていけないし、この世には何も残せない。僕にはこの世の光だけで十分だ。それはとてもきれいで、永遠を感じるから。

あらゆる意味を排すること。感じるままに感じること。

神なんて要らない。



悲しみは膨らんでいく。人間であることは悲しい。好きな人は他の人を好きになり、青春はいつ来るんだろう?、と思っている内に青春は終わっている。自分の生存で精一杯なのに、ただ生きているだけなのに、いい人だと言われたり、大人しいとか礼儀正しいとか言われたり、それ以上に理解出来ない人間だと言われ、悪意を持っているとか、狡いとか言われたりする。

美しさよりも、人間の弱さを。

熱っぽいのは嫌いだ。悲しみと悲しみが、もしかしたら触れられる距離。そしてそれは永遠の距離。それでも人に触れたいと思うこと。多分、その気持ちだけが、僕に人間の形を保たせている。人は悪人でも善人でもない。僕もそうだ。
君たちの意見なんて知りたくない。君たちの心が知りたい。気持ちの脆弱さや、強がりや、どうしようもない思いについて知りたい。

気持ちに触れたくて、どこまでも手を伸ばす。

宇宙は、私たちが思っているのより、ずっとずっと広いもの。

どうやってそこに行けばいいのか。静けさが欲しい。

ここにあるのは物質、物質、物質。ところで物質が何か、僕には分からない。何も断言出来ないことに不安になる。

何も知らない方がいい。空っぽの僕でいたい。

快感は全てをものともしない。僕は快感がとても好きだ。1日に1時間くらい、世界の全てを忘れられるくらいの快感の中にいられたら、それだけで生きていくことはあまり困難ではなくなる。苦痛や不安が無くなる訳ではないし、不死身になる訳でもないけれど。もし死ぬとしても、明るく死ねる。
快感って、頭の中のどこにあるんだろう? 書きたいとか、作りたいという気持ちだけじゃやっていけない。苦しいことがあっても、その過程が大体に於いて楽しいものでないなら。そして、完成の喜びが苦しみを掻き消すのでなくては。

多分、書きたいことがあるから書けるのではない。書きたい気持ちだけでは書けない。僕は以前、昔々、死ぬほど好きなことが二つあった。書くことと音楽を聴くことだ。死ぬほどというか、まるで明るく死ねるみたいに気持ち良くて好きだった。

今年の初め頃から、僕は急速に健康になってきていると感じる。脳内麻薬って、脳の何処に保存されているんだろう? いつでもどばどば出ればいいのに、と思う。エンドルフィンが出ている感覚が好きだ。全てがとろとろとしている感覚。何故かここ数ヶ月、ぼーっとしていたら、いつの間にか身体がベッドや床や椅子に溶けていって、すごく気持ちいいときがある。疲れも不安も感じない。音楽に浸るのが気持ちいい。言葉で遊んでいるだけで楽しい。少し前まで、気持ちよくなれるなんて思ってもいなかった音楽にも、大抵はそれが音楽であるというだけで、今はするりと溶けていける。例えばボブ・ディランの弾き語りとか。でもやっぱり、そこそこ気持ちいい音楽と、ものすごく気持ちいい音楽には違いがあって、一番気持ちいいのはギターロックで、それからエレクトロニカ。そしてジャズ。クラシックは気持ちいいというより懐かしい気持ちになることが多い。

怒るときは、怒っていることが正当だと思ってしまう。正当、という感覚はとても危険だ。正当、という感覚の元、明らかな悪だって行えてしまえるからだ。例え自分にとって正しいと思えることを行う場合でも、冷静に行うこと。怒りは恒常的に、自分の中の静けさを掻き乱し続けるから。

全てが裏返ってしまう領域、僕が僕じゃないのに、最高の僕でいられる場所。良いも悪いもなく、強いて言えば全てが良い場所。そしてまた、誰からも否定されてしまうかもしれない場所。
求めよ、さらば与えられん。でも、いつ? 求めている間、僕はここを動いてはならない。与えられるはずのものを、受けとることが出来ないから。与えられるのは死後かもしれない。それでも。

デスク。錠剤。

ひとり、冷たい空気の中にいるのが好き。  ただの一音が泉に落ちる雫のように。心に光りますよう。

自分を、空っぽに近付けていく。ガラクタみたいな家に住みたい。未来の廃墟。祝福。

パソコンとかデータとかネットが、僕は大好きだ。それ無しでは生きていけないかもしれないくらい。でも本当はそれが無くても生きていけるなら、その方がずっと心の平和を得られると知ってる。だとしても、僕は今はテクノロジーによって得られるスピード感を愛してる。けれどたまにはテクノロジーから離れたい。行き来したいんだ。孤独とカラフルな速度の双方を。



光。色。影。

宇宙の残量。

地球上の酸素の残量。

動物。動物としての私。/身体。

カーテンが揺れている。

ただ、身体があるだけでいい。いくら老いても。衰えても。こんなのただのアンテナのようなものに過ぎないから。……とても、シンプルな身体が欲しいと思っていた。例えば、性器なんて無駄だ。生殖活動なんてしたくないし、セックスより気持ちいいことはいくらでもあるから。髪の毛はあってもいい。髪型を変えたり、染めたりするのは面白いから。でも普段は髪の毛なんて邪魔なので、スキンヘッドぎりぎりの長さに整えていたい。……身体を感じないときが一番気持ちいい。身体的な快楽には限界があるけれど、身体から解き放たれた心の拡がりには果てが無いから。……身体に戻って来られないのもまた辛い。僕は身体を出入りする。……現実感の中での生々しい苦痛は、長く長く続く非現実感に比べれば、実のところは楽だ。幸福だとさえ言える。現実的とされるもの、例えば生活や社会というものは、思い込みとお約束の上に成り立った架空のものだ。だから本気で相手にしても、掴み所が無い。けれどそこには繋がりがある。私はそっと、繋がりに手を置く。私は繋がりに手を翳す。そしてまだ見ぬ誰かを思う。届きますよう。何故なら私は去って行くものだから。

人に良く思われたって嬉しくない。自分が無理をしている場合は特に。

耳って本当に素晴らしい器官だ。音楽が聴けなくなったら、僕は多分生きていけない。

音楽が良いものだと断言出来るのかは分からない。副作用の無いドラッグのようなもので、音楽に浸ることの快感を知ったら、違法なドラッグなんか欲しくなくなる。こんなに気持ちよくて、面白くて、楽しいものが全く規制されていないのが不思議なくらい。多くのミュージシャンがアルコール中毒や薬物中毒を克服出来るのは、多分、薬より音楽の方が楽しいからだと思う。

ほんの100年ほど前までは、レコードすら普及していなくて、人々は、基本的に音楽無しで生きていた。だから別に音楽なんて無くても全然生きられるのだけど、音楽には明らかに中毒性があって、一度レコードで音楽を聴くことの快感を覚えてしまったら、もうレコードプレーヤーを捨てることが出来なくなる。スピーカーやヘッドホンやアンプやマイクの魅力に抗うことが出来ない。僕にとって、音楽に勝るのは静謐だけだ。自然の音や、街や生活の音も、音楽だと意識すれば、悪くはないけれど、楽器の音や歌ほどには惹かれない。静謐は滅多に得られない。特に今僕が住んでいる環境は、静けさからはほど遠い。だからスピーカーやヘッドホンで身を守っている。

音楽に嵌まる以前は、読書が出来て、考えられて、空想出来れば満足だった。外で遊ぶのは好きじゃなかったし、特にこれと言って趣味も無く、勉強にのめり込むでもなく、絵も映画も詩もテレビも好きじゃなく、小説を読んで、空想することだけが至福だった。音楽が素晴らしいものだと知ったのは10歳3ヶ月の頃だ。音楽無しでは生きられない体質になってしまったのは、ビートルズが存在したせい。

でも今は、僕にとって世界最高のバンドはヴェルヴェット・アンダーグラウンドだ。

ここ11年間ほど、音楽が全く楽しくなかった。毎日死にたいと思っていた。3年近く前から、鬱の症状が良くなり始めたのだけど、音楽が楽しくなり始めたのは、今年(2022年)に入ってからだし、音楽が本当に面白くなってきたのは、多分ここ1週間くらいのことだ。でも、もっともっと音楽は楽しかったはず。これからが本当に楽しみ。

宇宙。思い込みの先の先。

僕は、僕自身でいることに全力を尽くそうと思う。僕はもう、僕自身以外の、誰にもなりたくない。そして自然で、力まずに。素朴に。



街中に。街中に僕が浮いている。この瞬間。この瞬間さえあればいい。

うまく行かないことばかりだ。誰の中にも「その場所」はある。自己の消失するぎりぎりの場所。そしてそこでこそ真の自己であれる場所。不透明で表面的な個性なんて、全部借り物だ。だから、消失なんて、本当は恐れなくていい。けれど生活って、異常に強固で、僕はそこにがっしりとねっとりと囚われてしまう。まるで僕は生活の中で苛々して、その苛々だけが僕であるみたいだ。

目に見える物は、とても曖昧だ。僕は大抵、意味のあるものしか見ていない。意味の無いものはシャットアウトしている。自己が消失したとき、世界に意味があるとか無いとかいう価値基準は消える。

陶酔の中では、細部の音楽と、小ささや弱さの音たちが聞こえる。普段の時間、僕はそこに真実を見いだすことが出来ない。いいえ。意味の無いことは良いことだ。意味が無意味であっても、無意味が意味であっても、関係なく、僕は僕に感じられる全てを感じる。

書くのに努力が要るとき、言葉は過去の寄せ集めに過ぎない。過去は石造りで、僕はただ記憶を並べ替えることでしか遊ぶことが出来ない。僕は事実を解明しようとするけれど、事実は死んでいて、死んだものは筋の通った一連の記述に過ぎない。聖書がひとつの世界観であるように、僕の世界は、僕の世界観で出来ていて、僕は僕の世界観をどんどん強固にすることに必死だ。左脳は世界観を組み立てる。僕は、僕が本当はとても自由だということを忘れがちだ。不自由を好み、愛するほどに。

僕は赤が大好きだ。僕は全てのギターの音色が好きだ。悪い音には悪い音なりの良いところがある。