メモ(主に言葉について)

全ては静寂から始まる。そして全てはまた、静寂へと帰っていく。終わっていく。消えていく。それにしても、時代が変わっていくことって、とても悲しいし、憂鬱だ。

言葉と音楽に、止め処ない不思議さを感じる。

何故この僕は、この僕の損得なんて考えているのだろう?

全ては消滅している。

美しいだけじゃ足りないんだ。自分のプライベートな部分に刺さらなければ。

テレキャスターは素晴らしいギターだ。時々他のギターが気になることはあるけれど、基本的に僕はテレキャスターを弾き続けるのだろうな、と思う。

テレキャスターはレトロな音がする。すごく新しい音楽にも使われることも多くて、粒立ちがとても綺麗で、澄んだ音がするけれど、同時にほんの少し、くすんだような響きもあって、それが絶妙な魅力となっている。本当にクリアで、ジャキジャキした響きが欲しいなら、リッケンバッカーを選んだ方がいいと思う。テレキャスターはよく、「歯切れのいい音」と言われるけれど、歯切れの良さなら、ダンエレクトロの方がいいんじゃないかと思う。ダンエレクトロは、新品だと6万円、状態のいい中古でも3万円で買えるギターだけど、暴れるようなコードバッキングには、チープな響きが寧ろ合っている。

「よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀はいたく立たず。」という言葉が好きだ。けれどこの言葉の意味を実感として知るのは、とても大変だと思う。徒然草の有名な言葉なので、ネット上でもいろんな解釈が為されていて、それぞれの納得の仕方があって面白いと思う。概ね、「道具に頼るな」という意味に取られている印象だ。でも僕は、「道具の方に合わせろ」という意味に捉えている。何もかも自分の思い通りに作れるなんて思ってはならない。道具というものは、何であっても、思い通りにスパスパ切れる刀じゃないんだと思う。例えば、言葉を道具として考えると、そんな何もかも鋭く説明出来たりしない。言葉は万能の道具じゃない。言葉を、よく切れる刀みたいに思っても、言葉は全然思惑通りに動いてはくれない。言葉は、不便な鈍い刀だ。言葉という刀を学び、言葉についていろんな可能性を模索している内に、段々不便な、言葉という物を自由に扱えるようになってくる。言葉は感情や考えを、率直に吐露出来たりしない。言葉は思い通りには全然行かない。感情なら誰しもが持っていると思う。書きたいこともあると思う。でも、書きたいことをそのまま書くことはまず出来ない。僕は感情が先走っていたと思う。言葉で一生懸命、感情を説明しようとしていた。

結局のところ、作品とは形に過ぎない。それは彫刻でも言葉でも同じ。ただの形。感情を込めて彫りまくっても、それは形にはならない。感情任せだと、形に行き詰まる。形に集中すると、寧ろ段々、自分の感情が明確になっていく。無限だと思っている自分の感情より、道具や表現手段の有限性の方が、より無限だからだ。

この時代のこの時間、この場所に生きる、僕という存在、身体。ここに生きている意識。

僕はQWERTY配列にも大分影響を受けている。手書きでも、多分Dvorak配列でも、書けなくはない。きっと文体は大きく変わるだろうけれど。手書きだと完全に違う文体になってしまう。僕は何より、指で書いている。段々、言葉を意味で書くことを止めてきている。頭で考えることを言葉に翻訳して書くということから離れてきている。キーボードが代わっただけでも文体は変わる。今書いているキーボードは買ってから7ヶ月になるので、かなり慣れてきた。親指シフトだとどうなんだろう? 日本語の一音が一打鍵に対応しているので、より、意味よりも音に忠実に書けるかもしれない。グールドは自分のピアノに拘っていたので、いつも使っている壊れたピアノをレコーディングに使用することさえあった。ピアノは頭で弾くものじゃない。書くことも演奏と同じだと思う。

作家には音楽好きがとても多い。音楽をあまり聴かないらしい作家でも、多和田葉子さんなんかは、とても演奏家に近い感覚で書いていると思う。ここ20年ほどで、日本の小説の文体が大きく変わったとすれば、それはパソコンの普及に拠るところがとても大きいと思う。ライトノベルは手書きでは、書くのが難しいと思う。

言葉があくまで言葉に過ぎないことを念頭に置かずに、言葉に意味を込めようとしても、言葉は思い通りには書けない。ピアノの音に意味を込められないのと同様。演奏するように書くこと。語るのは言葉であって、言葉に込められた思いではない。

万年筆でさりさり書くことも快感だ。ペン先がとても細くて、少し引っ掛かりのある万年筆を使っている。手書きだと、ひとつひとつの単語を愛しく思う気持ちを忘れずにいられる。言葉は言葉として独立して生きていると思う。生きているものに意味を押し付けるなんて自然じゃない。言葉をただその生命のままに綴ること。自分の考えを言葉に当て嵌めるのではなく、言葉が泳ごうとするままに書くこと。その方が、意図して書こうとしたよりも、書きたいことを正確に書ける。

QWERTY配列が好きだ。ギターの音の配列も、最初は不便だけど、これじゃなきゃ弾けなくなってくる。変則チューニングにすることで、さらに音楽は拡がるけれど。僕はQWERTY配列で、十分、自分が書きたいことが書けると知っている。だから他の配列は必要ない。もし、書いていて満足したことが一度も無かったなら、僕はQWERTY配列を信用出来なかったと思う。

僕は多分、ちょっと癖のある道具が好きだ。語学の天才だった井筒俊彦さんは、抵抗を感じる言葉が好きだと言っていた。抵抗というのはネガティブな意味ではなく、ただ一通り学習しただけでは理解出来ない、その言語の癖のようなものだと思う。井筒さんは三十カ国語以上の言葉を習得していたと言われていて、アラビア語をたった1ヶ月勉強しただけでコーランを読破したという、伝説めいた逸話もある。「1、2ヶ月で大体の言語は分かるのですが……」とさらっと言っている。しかもメインの仕事は語学ではなく、井筒さんは何より哲学者だ。彼によれば、文明を興した国の言葉には抵抗があるらしい。具体的にはギリシャ語、アラビア語、中国語など。いろんな国の言葉と同列に並べた上で、日本語は非常に面白いとも言っていて、もしイスラム哲学をライフワークにしなかったなら、『古今和歌集』と『新古今和歌集』の研究をしたかったと、井筒さんは言っている。彼が言語に大きな興味を持ったひとつのきっかけが、10代の頃に西脇順三郎の詩を読んだことらしい。

言語がただの辞書的な意味の羅列ではなく、それ自体が命を持っていると思うと、とてもわくわくする。外国語を習得したいと思う。それに「言霊」までは分からないけれど、日本語は文章も単語も、とても魅力的だと思えるようにはなってきた。

言葉は僕の頭よりずっと広い。しばらく前まで、言葉を感情の吐露の道具のように考えていた。人の書いた言葉が皆、その人の主張に思えて、本をあまり読めなかった。西脇順三郎の詩集も、よく分からなかった。僕は言葉を言葉として見ていなかった。言葉は、道具でもある。でも、なかなか手に負えない道具だ。言葉には主張なんて無い。言葉が好きになったとき、『西脇順三郎詩集』がとても面白くなった。

感情はすごく大事だ。最も大事だと思う。いくらお金があっても、お金だけじゃ贅沢は出来ない。感じなければ意味が無い。今生きている自分を感じられたら、それだけで生きている価値があると思う。けれど、言葉を書くときには、感情で書くのではなく、言葉自体を楽しむことが大事だと思う。その方が感情をいっぱい込められる。