最近書いたメモ

僕の心の中には病んだ場所がある。自然な、常識的な気持ちに戻って来られないときは、薬でも飲んで、音楽を聴いて、詩を読んで、だらだらしているより他ない。音楽も詩も楽しめないときは、だらだらしていても苛々してしまうので、結局は薬ばかり飲んでしまうことになる。今のところ、病院の薬や市販の薬は、よく効いてくれている。煙草は、苛々して立て続けに吸うと、気持ち悪さでいっぱいになるばかりで、いいところが殆ど無いけれど、時間を置いて、一本一本ゆっくり吸う煙草は、僕はいいものだと思う。

僕は普通の会話が出来る、常識的な世界が好きだ。友人たちと、楽しく、何にも思い煩うことなく話が出来る世界が好き。世界、というと大袈裟だけど、個人的には、僕が病む、ということは、僕の世界全体が病むことだし、僕が自由だと感じるときには、世界がとても自由で、楽しい場所に思える。

僕は、静かな、常識的な世界に住んでいたい。けれど同時に、僕は自分の内面にとても興味がある。精神の病気や孤独、などを無いことにはしたくない。けれど、内面をあまり見詰めすぎてもいけない。帰る場所、つまり常識的な世界があって、危ないと思ったらいつでもそこに戻って来られる準備が無いと、内面を探求するつもりが、逆に自分の中の混沌に飲み込まれてしまう。有益なカウンセリングや催眠療法だって、日がな一日続けていたら、おかしなことになってしまうだろう。

……僕が所謂スピリチュアルに異和感を持つのは、ひとつの原理で何もかもを説明しようとする傾向があることと、ある原理を主張する人が、あまりに自説に固執していて、自由な心を失っているように感じられるところだ。スピリチュアルを信奉する人は、決まり文句のように「論理や科学では説明出来ない力がある」と言い「信じる人にだけ見る(感じる)ことが出来る」と言う。それについて反駁する気は別に無いけれど、その言葉には、所謂超自然的な世界が、普通の生活よりも大事である、という響きがあるように感じられる。僕にとっては超自然的な力があろうが無かろうが、どちらでもいい。超自然な力を信じ、そのことばかり主張していたら、まず間違いなく、友達を失うだろう。そして同じ力を信じる人たちとだけつるむようになるだろう。僕には、友人と普通に話すことの出来る日常的な世界よりも、さらに大切な世界があるとは思えない。科学は、実際に僕たちの生活を便利に楽しくしてくれるので、僕はそこに夢を感じるし、論理的であることは、迷信や思い込みに囚われずにいる為にも、とても大切なことだと思う。


世界って何だろう? 世界が世界のままあるって、どういうことだろう? 何もかもが見えるし、何もかもが聞こえる。そして僕には感情がある。と言うより、世界は感情で満たされている。更に言えば、世界は感情で出来ているみたいだ。

生きてみないと分からないことって多い。100歳まで生きられるかも知れない、とこの頃思う。詩は、寂しさを思い出させてくれる。人は、本来寂しい存在だと思う。寂しさを感じられる、とてもプライベートな心は、とても大事だと思う。寂しさは、自らの深淵への入り口だ。理屈では心は動かない。自分の心であっても、理屈では開くことが出来ない。自らの混沌と狂気を通過した人だけが、本当の自分に到達出来ると思う。でも、ただ闇雲に、深淵に飛び込んではならない。深淵や混沌をある程度抽象化して、見通しを良くしてくれるツールが、世の中にはたくさんある。例えば、いい小説や詩を読むことで、僕は混沌と狂気を垣間見ることが出来る。深淵を旅して、より深くに潜るために、言葉と音楽は、とても大切だ。一文字一文字、一音一音が、内面の深いところで起こる出来事を象徴している。よく読んで、よく聴くと、言葉や音は、自分の内面とぴったりリンクしていると感じる。よくよく付き合わないと、何ひとつ理解出来ない。絵画は、僕はまだぴんと来ないのだけど、心の深いところで出会えると感じる写真集が2冊ある。


鳥が鳴いている。今日は、真冬とは思えないほど暖かい。鳥は、太古の昔から鳴いていて、今も多分、太古の意識のまま、鳴いているのだろう。そういう気がする。きっと鳥たちは、寂しいから鳴いている。

僕は、ひとりきりでギターを弾いていたい。フェンダー社の、赤い、テレキャスターというエレキギターを持っている。素晴らしいギターだ。今、真っ赤なアコースティックギターが欲しい。YouTubeで聴く限り、そのギターは、少し鳴りが悪い気がする。けれども何とも、心に染み入る音がする。10万円近くするので、買うのは少し躊躇しているのだけど、限定カラーだと思うので、来年の春くらいには買えたらいいな。

今これを書くために叩いているキーボードは、とても孤独な音がする。指先に抵抗のあるものが好きだ。心地いい。このキーボードは東プレという、日本の優れた会社の製品だ。昔ながらの、技術力一本で勝負する、とても信頼の置ける会社。グーグルだとかAmazonだとかが世界の経済を牛耳ったとしても、日本の良質なプロダクトや、職人さんたちにはしぶとく残っていて欲しい。最近の技術の進化は早過ぎる。今は巨大な3Dプリンターで、家さえ作れてしまうらしい。何と48時間で一般的な一軒家が建ってしまうのだとか。手間の掛かる木造建築なんて、余程マニアックな一部の人の、無駄な贅沢ということになってしまうだろう。何せ3Dプリンターなら、一軒家を建てるのに100万円も掛からないらしい。軽自動車より安い。木造建築はどう少なく見積もっても、その10倍以上はコストが掛かるので、多分、釘を使わない木組みや、精密なカンナの腕前なんていう、素晴らしいけど手間の掛かる技術は、あっという間に絶滅危惧種となって、一般的な需要は殆ど無くなってしまうだろう。つまらないな、と思う。そりゃもちろん、未来の技術を思うとわくわくする。けれど、進歩は、本当は遅い方がいいのだ。何でも速いのがいい時代は世知辛くて仕方ない。結局は、資本が多い企業が勝ち続け、その圧倒的な経済力で、全世界をのっぺりと規格化していく気がする。それで確かに生活は格段に便利になるだろうし、快楽も得やすくなるだろうけれど、個人としての本当の満足は、外から得られるものではないし、人間の性格自体が、かなり均一化されていくのではないか、と僕は思う。そういう時代に、本当に満足して生きられるのは、内向的な人だけだと思うし、人々が求めるのは、プログラミングの速い人材とかじゃなくて、寧ろ、メンタル面で人に満足を与えることが出来たり、自己の探求の手伝いをしてくれる人、例えば詩人や作家、有能なカウンセラーのような人たちじゃないかと思う。

すごくプライベートな自分を忘れたくない。これが自分、と落ち着く場所。例えば、友人Mといるときの僕は、昔から変わらない僕だ。彼のことを思い出すだけでも、僕は本来の自分に戻って来られることが多い。「本来の自分」なんて無い、自分なんてのは結局は、他人に合わせて取り替える仮面(ペルソナ)の集合体で、その仮面の内、どれが本当の自分かなんて誰にも分からないし、どのペルソナを演じていたって、そのどれもが本当の自分に違いないんだ、ということがよく言われている。でも僕は、それは違うと思う。「本当の自分」とは、おそらく一番弱い自分だ。仮面によって心を固く守ってはいない状態、あるいはとても薄く割れやすい仮面しか被っていない状態。素直に寂しさを感じる状態。それから生きている実感があって、急がない状態。自分の好きなものを素直に好きと感じられる状態。分厚い仮面を被って身構えているときには、身構えることに精一杯で、それ以上自分を深く知ることが出来ない。自分が何者なのかも分からない。しかも、異和感を感じながらも、仮面を被り続けていると、それが普通になって、本当は無理しているのに、それが自然な自分の性分なのだと錯覚してしまう。僕にとって「本当の自分」とは、とても内向的な自分だ。誰もが本来内向的だとは思わない。ごく自然に人とコミュニケーション出来る人もいると思う。ただ僕の場合は、一番楽なときには自然に内省的になって、自分の心をもっと深く知りたいと思うし、読書と音楽が最高に好きだ、と思う。書きものをしたり、ギターを弾いたり歌ったりもする。基本的にひとりで過ごすことが、何ものにも代えがたく好きだ。そういうときは、好きなものを、好きだと、何の迷いも無く感じることが出来る。それだけでいいと思う。内向的で、静かで、多分脆い状態でいるとき、僕は自分の無意識と、きちんと繋がっている、と感じる。無理のある仮面を被っていると、意識は後付けのペルソナで押し固められてしまい、自分の心にもっと深い部分があるなんて、想像することも出来ない。ただ忙しいだけだ。内向的になる、と言っても、人間嫌いには、全くならない。人間が好きだと思う。特に特定の何人かの人を、具体的に、本当に好きだと思うし、どんなに腹を立てた人だって許せるときがある。基本的に人と、人の感情が、僕にとって一番興味があって、一番重要なものだ。それからもちろん、自分の感情や精神の深い場所に行きたいと思う。それは現実のどんな冒険よりも、きっとわくわくすることであり、また、とても危険なことだ。多分、南極探検より危険だと思う。心の中は混沌と狂気に満ちているし、あまりに内向的になりすぎると、内面と現実生活の自分とのバランスが取れなくなってしまう感じがして、少しやばいな、と思う。多分、僕の場合は、書くことによって、バランスを保っていると思う。書くことは、自分を統合することでもあるからだ。そして混沌をも抽象化し、ある程度整理して、眼に見える形に変換してくれる。書いていれば、混沌を噛み砕きながら、さらに少しずつ深く潜れる気がする。

……話がずれたけど、とにかく、友人Mといるときは、本当に、自分が自分、という気がする。まだ、他にも僕を僕にしてくれる物が、いくつかある。具体的には『中原中也全詩歌集』とニック・ドレイクの4枚のアルバムは、これが無いと、僕が僕じゃなくなってしまうだろう、と思うくらい重要で、それから最近、見るととても個人的な気持ちになれる写真集が2冊あって、1冊はジョゼフ・コーネルの、主に箱状のオブジェの写真集(『Shadowplay Eterniday』)で、もう1冊はイリナ・イオネスコという写真家が、自分の娘を十数年に渡って撮り続けた『EVA』という白黒の写真集(エヴァは娘の名前)。『EVA』は、買ってから10年近くになるのだけど、最近まで良さがいまいち分からなかった。でも、ずっと、何となく、いつか急に分かる瞬間が来るだろう、という予感があって、つい先日、やっと少し分かった気がした。暗い夢の小宇宙に、すいっと入れたような感じがして、それまでとは全然見え方が変わった。多分だけど、自分にとって心底大事な物は、これからも増えていくだろう。そう思うと、気持ちがとても軽くなる。

どんな報酬よりも、誰かひとりの手の温もりが欲しい。ピアノは孤独を奏でる楽器だ。ギターはそれにも増して寂しい。エレキギターでも、アコースティックギターでも。指先で弾くより、吹奏楽器のように息を使った方が、より率直に自分の感情を表現出来るような気がしていたけれど、ピアノやギターの場合、構造上、一度この世に現れた音の粒が、すぐに世界に溶け、掻き消えていく。雨のよう。その特徴は、吹奏楽器にはもちろん無いし、ヴァイオリンやオルガンにも無い。ピアノやギターの音は寂しいと思う。手や指は、孤独で、個人的で、呼吸よりももっと繊細な器官だと思う。ドラムとベースにも多少興味があって、しばしばベースの音の、フィジカルな気持ち良さに惹かれる。けれど、ベースやドラムは、感情表現と言うよりも、どちらかと言うと体感的な気持ち良さを引き出すための楽器で、気持ち良さは音楽にとって、とても大切な要素だけど、絶対に不可欠だとは思わない。ギターやピアノは憂鬱から歓喜まで、どんな微妙なことでも音に出来るけれど、ドラムで個人的な感情を歌うのは困難だと思う。ベースは、昔は単なるリズム楽器だったけれど、チャールズ・ミンガスジャコ・パストリアスの演奏を聴くと、非常に多彩な楽器だと思う。けれど個人的に、僕はベースの音域よりもギターの音域が、自分が弾く楽器としては好きだし、ベースの太い弦よりも、指先が切れそうなくらい細い、ギターの弦の方が、音に痛みや優しさを込められるような気がする。声も、楽器も、中音域が好きだ。低音域や高音域にも、それぞれ役目がある。でも、僕が表現したいのは中音域だ。

現代のカウンセラーについて言えば、まずカウンセラー自身が、自分をよく知っているか疑問だ。僕は何度かカウンセリングを受けたけれど、決まり切った言葉を、上っ面だけで交換し合う以上の関わりを持てたことがない。河合隼雄さんみたいに、自らの混沌への旅をクライアントに促すことの出来るようなカウンセラーは、ほとんどいないと思う。いたとしても、本当にディープな内面の探求を、カウンセリングごとに行っていたら、カウンセラーとクライアントの双方が、精神の危険な領域に足を踏み入れてしまう危険性がある。何にせよ、カウンセラーの技術や地位が、一般的に相当上がらないと、カウンセリングによって、精神状態を根底から良くする、ということはとても困難だと思う。自分を取り戻すことが、精神の治療にとって、一番大事なことだと僕は思う。自分で自分をすんなり感じられれば、あとは自分で自分を導けるだろうからだ。


心の奥底から離れるほどに、僕は何にも分からなくなる。常識と生活以外、何にも無くなる。僕は心配性になり、薬をいっぱい飲む。僕は表面上のペルソナをいっぱい抱えていて、その表面上の僕を、僕の全てだと思って生きている。そしてそのどれもを嘘だと思っている。嘘でもどうでもいい、と薬は思わせてくれる。

所謂普通の生活が大事だ。当たり前に生きているこの現実が一番大事だ。けれどそれが全てではない。

心の奥深くを探ろうとする際に陥りがちなのは、例えば低俗な音楽を切り捨てなければ、などと神経質になること。でも、それは真面目な態度なのではなく、ただ偏狭になっているだけ。生と死の狭間にいるなんて自分を誤解しているとき、それでも人や街や、現在や未来を愛することが大事なのだと、何が僕に教えてくれたのだろう? 心臓には4万個のニューロンがあるらしい。多分、心臓は、胸がきゅんとする瞬間を、写真のように記憶している。僕は多分、脳ではなく心臓にいる。胸の中に。……心ではなく頭で考えているときほど「心とは……」と言いたくなるのは何故だろう?

心とか、精神とか、本当のところはよく分からないままに、心療内科(熟語の作り方としては「療心内科」が正しいのではないだろうか?)や精神科には、当たり前のように通っている。

そんなの何処で測ったのだろう?、と思うけれど、人間は、視覚からは1秒間に0.5MB程度の情報が得られるそうだ。これは意外に少ない。例えばテレビのハイヴィジョン放送には1秒間に24MB、Blu-rayの映像には1秒間に144MBの情報量があるそうだ。人間は、例えばコップを見ていても、実際そこにあるコップを見ている訳ではない、と言われている。大抵は「コップ」という概念を見ているのであって、いちいちコップに当たる光だとか模様だとか、全てを見ている訳ではなく、要らない情報は全てカットしている。全てを見ていたら0.5MBじゃ全然足りない。ちなみに耳からは1秒間に1KB(0.001MB)の情報が得られるそう。これは視覚情報の500分の1程度。これはちょっと少なすぎやしないか、と思うのだけど、これらの計測が仮に正しかったとしても、人間は録画・録音機器ではないので、脳で解析出来る情報量が仮に非常に少なかったとしても、そこから多くを感じることが出来る。それこそ1冊の本(大体400頁くらいとして)の文字情報の量は2MBらしく、1000冊本を持っていたとして2000MB、僕が一生でぎりぎり3万冊読めるとして、そこから得られる情報量は、単純計算で60000MBだ。つまり僕が死ぬまで読書にものすごく励んだとして、そこから得られるのはBlu-rayの映像7分くらいの情報でしかない。でも、これらの計算は、どう考えてもおかしい。実感に合わない。2時間の映画を見るより、長編小説を1冊読む方がずっと多くを得られる、と感じることが多いからだ。一篇の詩は、情報量としてはほぼゼロに等しいけれど、そこからは無限に多くの何かを汲み取ることが出来る。

僕にとっては、人も風景も、そして物も、メガバイトなんかで表せる、情報なんかじゃない。言葉。単語のひとつひとつも、ただの実用的な情報なんかじゃない。僕はプライベートで、個人的な感覚を、とても大事にしている。

何故、僕はいるのだろう? 何故、人間は存在するのだろう? デカルトは全てを疑ったけれど、神を措定することで、全ては真実だと結論付けた。神が不在だとすると、何を信じればいいだろう? 何も愛せなくて、内側の力を何も感じないときがある。今がまさにそうだ。……自分を取り戻すときには、ある種の匂いが伴うことがある。「自分」を取り戻さなくても、生きてはいける。「自分」をしんみりと感じなくても、とても元気ではいられる。現実的にいられる。でも、それでは全然、生きている感じがしない。

脳には1000億個のニューロン、腸には5億個のニューロン、脊髄には1億個のニューロン、そして心臓には4万個のニューロンがあるそうだ。人間の知性や、認識、言語力などの殆どは脳が司っていると見て間違いないだろうけど、おそらく脳だけ大事にしても、心や感情は発達しないのではないかと思う。何故なら、実感として、感情はお腹にあるし、孤独は心臓にあるし、感動は背骨にあるからだ。

低俗なものからは悪い影響を受けるのでは?、などという心配は、僕には全く杞憂だと思える。高尚だとか低俗だとか、そんな区別は所詮、自分の浅薄な価値観に依拠していて、本当に自由な心にとっては、全ての音楽は繋がっているものであり、また、同じ根源を持つものだからだ。仮に、本当に浅薄な意識で作られ、低俗だったり無感情な心で奏でられた音楽であっても、僕がそれを好きならば、僕はそこから大切なものを得られる。繰り返しになるけれど、仮に深い精神、というものがあるならば、低俗と高尚とか、美醜を区別したりしないと思う。本当に心自由ならば、シンプルに自分の直観だけで、自分が聴くべき音楽を判断出来ると思う。直観って言うのは、好き嫌いのことで、自分自身をよく知れば、自分が聴くべき音楽はすぐ分かるし、安っぽい音楽だって、やはりこの宇宙に流れる美しい波の一部なんだ。何気ないレディメイド(既製品)にだって、それを作った人の意図とは関係無しに、深いメッセージや精神性、瞑想的な側面が含まれていることを、例えばデュシャンは大々的に主張したし、僕はそれは、完璧に正しいと思う。僕はプロダクト(大量生産品、工場生産品)が好きだし、特にプラスチック製品が好きだ。神秘学の人が主張するみたいに、メキシコの伝統的な蝋人形みたいな、有り難く珍しいものからじゃなければ、本当の霊感は得られない、なんて思うのは間違いに思える。身の回りにあるもので十分なのだ。音楽にしても、我慢してクラシックだとか、精神性の高いインド音楽とかチベットの音楽、あるいはお経だとか、宗教心の塊みたいなグレゴリオ聖歌だとかを、無理して聴いていたって、大体は身体が拒否して苛々するだけだと思う。別に、グレゴリオ聖歌インド音楽を否定する訳ではない。ただ、低俗とされがちな、ポップやロックなどと、高尚なクラシックは、どちらが上とかじゃなく、同列に並べて考えるべきだ、と僕は思う。

日記によれば、去年(2020年)の10月25日に、VOXのすごくいいアンプが届いたみたいなのだけど、全然気に入らなくて、届いて数日でお蔵入りにして、すぐに売るつもりでいた。売りに行くのが面倒でぐずぐずしている内に1年以上が経っていたのだけど、数日前、ふと気まぐれでそのVOXのアンプを持ち出してきて、試しに弾いてみたら、どうして売ろうと思ったのか理解出来ないほどいい音がした。仮にこのアンプを使うなら、スピーカーを交換して使おうと思っていたのだけど、最初からCelestionという会社の、かなりいいスピーカーが付いているみたいで、テレキャスターを繋いで弾くと、ぱりっとした、とてもいい音がする。