メモ1(意識と世界)

……現実って何だろう? また段々分からなくなってきた。


詩はとても美しい。脳なんかを超えた、共有の可能性のようなものを感じる。世界が例え現実だろうと非現実だろうと、関係ない。感情の世界が他を圧倒しているからだ。音楽を聴くと、私は消滅する。脳の機能の発揮、例えば、脳が音楽を作る、というけれど、ひとつ疑問に思うことがあって、それは人間(生物)は、進化の過程で音楽を手に入れたのか?、それとも音楽が進化の過程で人間という形態を得たのか?、という多分荒唐無稽な疑問なんだけど、僕は多分後者だと思う。「知性が先にあった」なんていう無機質な言い方をしてもいいけれど、それよりは、音楽や感情が、宇宙の始まりよりずぅっと前に、或いは少なくとも生物(細胞)の誕生以前に、既にあって、感情が形を得るために知恵を絞って(?)、いつしか人類という形態を手に入れたのではないか?、という考え方の方が僕には分かりやすいし、少なくとも面白い。

全てが美しく流れる時間。全てがとろりとして、目に見えるものはあまり意味を成さなくなる。視覚より聴覚が根源的。音楽っていうのは、空気の振動を組み合わせたもので、構造としては(例えばDNAなんかに比べると)、とっても単純だ。簡単に言えば、DNAを作ることは出来ないけれど、音楽はギターさえあれば作れるし弾ける。歌うのだって、上手下手はあっても、難しいことじゃない。単純な音の上下、リズムを組み合わせたものが音楽だ。歌なら、そこには普通和音があって歌詞がある。あとは声質を含めての音色で、音楽は構成されている。でもその全てを組み合わせても、メカニズムとしては細胞とは比べものにならないほど単純だ。いろんな音楽が日々大量に作られているけれど、細胞は、未だ人類には、たったの一個だって作ることが出来ない。でも、現に世界には細胞がある。ものすごく複雑な細胞が先に出来て、その後に副産物的に、単純な音楽が出来た、と考えるのは、まず不自然だ。原初の時代に交響曲やロックがあったという意味ではなく、根源的な、情報としての音楽や感情という概念(概念だからって実在しないとは限らない)が先にあって、ハードウェアとしての、物質としての生物は、謂わばスピーカーのようなものとして産まれたのではないか?、つまり音楽は人間の副産物なのではなく、音楽が先にあって、副産物として人間が産まれた、という考え。それが正しいとは思わないけれど、僕は、そう考えるのが好きだ。例えていうなら、音楽と言うものが存在しない世界において、まずCDやCDプレーヤーというハードウェアが先に(たまたま)生まれて、その後、CDプレーヤーがあったから、音楽が作られた、という考えは極めて不自然だ。もちろん、音楽が先にあって、それを鳴らす目的として、CDプレーヤーが作られた。CDプレーヤーはかなり複雑で、自然発生的にはまず出来ない。それと同じで、生物は多分、自然発生的に、たまたま出来るようなものではないと思う。CDプレーヤーどころじゃない、とんでもない複雑さなのだから。だから、まず、目的があって、生物が作られた、と考える方が自然なんじゃないかと思う。音楽を鳴らす、という目的が先にあって、CDプレーヤーが作られたのと同じように。まあ、その目的は、別に音楽に限らなくても良くて、単に僕の好みだから、音楽を鳴らすために人間が作られた、と言っているだけでもあるけれど。僕としては「自分が音楽を作る」と考えるよりも、「僕を通して、音楽が実体化する」と考える方が、とても自然だと感じるのだ。とは言っても、この主張は、僕が考えたものではなくて、櫻井まゆさんが『満月』という小説で書かれていたくだりを、そのまま引き延ばしたものなのだけど。まゆさんはこの小説を14歳の時に書いた。天才だと思う。

僕の捉え方だと、音楽や感情は、脳内に複雑なネットワークが構築された結果として産まれたのではなく、音楽や感情が進化、あるいは顕在化する過程において、脳が産まれた、ということなのだけど、また同時に、脳が存在しないと音楽が存在しないのも、僕個人にとっては確からしく思える。例えば、脳がいかれていたとき、僕が音楽を全然面白いと思わなかったし、もっとひどいときは、音楽を音楽として認識出来ない、という不思議な体験をした。それは、やっぱり脳や意識というものが音楽を音楽たらしめている、という証拠にもなるし、でも、別の言い方をすれば、再生機器やスピーカーとしての脳が壊れたために、僕にとっては音楽を聴けない、つまりCDプレーヤーが壊れた状態になってしまったけれど、情報としての音楽は依然として存在しているはずだ、と考えることも出来る。脳が壊れていると、もちろん音楽は作れないし、音楽を聴けない。だから音楽は脳の産物なのだ、とは全く言えないと思う。音楽は依然として存在している。それは常に作られるのを待っているし、聴かれるのを待っている。人間がいてもいなくても音楽は存在するけれど、同時に人間がいなければ、音楽が実体化(再生)されることはない、ということなのではないかと思う。人間は多分、音楽を受信して再生する、スピーカーのようなものに過ぎないと思う。感情もそう。それは脳が脳内麻薬とかで産み出すものではなく、どこか脳とは違う場所にあって、もしかしたら偏在していて、それを単に受信するのが脳なのではないか、と僕は思う。というか感じる。まず、「生きたい」とか「楽しみたい」とか、それよりもっと強い「知りたい」という感情を、ネットワークに過ぎない脳にプログラミングすることが出来るのか疑問だ。さらに言えば、世界がフラットに見えて、全てが溶け合って感じられる不思議な感覚。それは僕にはどうしても、進化の過程で副次的に手に入れた感覚だとは思えなくて、どちらかと言うと自分が物や空間や情報と同じだ、とか、全ては実は同じ、境界線なんて無いんだ、という感覚に近くて、その全て、というのは、何もかもがごちゃごちゃとしてある状態でも、何にも無い状態でもなく、全てが、ひとつの感情に統合されたような感じ。比較(あれがいい、これがいい)という概念が消えて、大きさがよく分からなくなり、そしてそういうとき、視覚情報の捉え方が大分変わる。それを別に偉い状態だとか、高次の意識だとかは、全く思わない。多分そういうのは、別にあるのかもしれなくても。僕は別に宇宙と交信したり出来ないし。そういうときには、現実にある物が絵みたいに見えて、逆にイラストとかが現実より現実らしく見える。でも、イラストを、現実的には理解出来ない。例えば、机の上で人形たちが遊んでいるイラストを見るとして、それが机の上だ、ということに気付かないし、人形だ、と認識することが出来ない。けれど、その絵がダイレクトに現実的な感情としてそこにあるような感じがする。いつものフラットではない意識に戻ってきたときに、「あれ? これって人形が机の上で遊んでいる絵じゃん」と気付いて驚いたりする。でも、その時には、いろいろ分かるけれども、絵が生きた感情そのものだとは、もう感じられない。そして、僕は、「これが人形」「これが机」と分けて考えられる能力はおそらく脳の能力だと思うし、AIにもプログラミング可能だと思うけれど、「そこに感情がある」と感じられる能力は、もっと根源的で、それ自体はプログラミング不可能なものなのではないか、と思う。絵や音楽や、ついでに言えば言葉が、ただの無機質な情報の羅列や組み合わせではなく、それこそが生きているということ。そして人間は、もしかしたら生存競争に勝つために産まれてきたのではなく、単に意識し、何かを実体化させ、感じるために産まれてきたのではないか、と飛躍して思う。街を作ったり、経済活動を生み出したり、ということも含めて。人間は一生懸命思考して、言葉や数学や音楽理論や、いろんなものを考え出してきたのは間違いないと思う。でも、例えば、文学が、生存競争に勝つために作られた、とは考えられない。それはやっぱり感情を実体化させるために産まれたのではないだろうかと思う。そして、感情はおそらく、人間の脳の産物ではない。脳もまた感情の産物だということ。いくら正確に音楽を分析出来ても、言葉の意味が分かっても、そこにある感情が感じられなければ意味が無いと思う。だって、面白くないから。絵と音楽と言葉、などなどのどれが一番大事か、という考えは無駄だ。それは単に個人差の問題で、僕は音楽が一番シンプルで、一番感情にダイレクトで、それに心臓の鼓動だって音楽だし…、というこじつけも含めて、音楽支持派だけれど、別に絵画支持派と争う気は全く無いし、結局のところ、形態なんて何でもいいのだと思う。数学でもいいし、言葉でもいい。究極には感情を形に出来ればいい。何の為にそんなことをするのかは分からない。けれど、どんどんどんどん、もっともっと世界をフラットに感じられたとき、もっとずっと、最初からある何かや、僕にとっての存在理由に、僕は近付けるような気がする。

AIが学習の結果、感情を手に入れるかもしれない、ということに関しては、僕は肯定派だ。何故なら、別に感情は人間の専売特許のようなものではないと思うからだ。

言葉も好きだ。何年間か、僕は言葉が大嫌いというか、邪魔なものだと考えていた。単なる分析ツールだと思って。そう思うようになる前は、僕はやはり言葉が大好きで、そこは感情に満ちた場所だと考えていた。すごく極端なことを言えば、例えば「あ」という一文字にしても、それは単なる日本語という構造体の最小単位のひとつでしかないけれど、同時にそこにはもう、感情が充満している、と考えることも出来る。と言うか、多分、原始人は多分「あ」としか言えなかっただろうと思う。けれど「あ」だけでは不便なので、いろいろ言葉を継ぎ足していって、今の複雑な言語が出来たと思うのだけど、複雑になった結果、さらに多くの、大きな感情が表せるようになった、とは思えない。多分「あ」しか知らない原始人が「あ」と言ったとき、そこには全ての感情が込められていたのではないかと思う。現代では「あ」では何も表せない、というか、僕が「あ」と書いても、それが他人にとって持つ情報量はゼロに等しい。身振り手振りとか、声音とかをいろいろ駆使して「あ」と言えば、何かしらの表現にはなるだろうけれど、それは身振り手振りという他の言語の中のひとつの構成要素として「あ」を使っただけなので、別に「あ」そのものが何かを表した訳ではない。現代では、日常言語ではない、何か特別な言葉の用法が、詩だと思われている気がする。「石ころ」という一単語が詩でも別に構わないと僕は思うのだけど、それだけではやっぱり詩とは見なされないし、僕だって「石ころ」だけで感動出来るほど原始的ではない。あくまで僕にとって、なんだけど、言葉の面白いところは、僕が感じている意志や感情を自動的に形にしてくれるところだ。それは単に僕が言葉に慣れている、というだけのことで、それ以上の何ものでも無いのだけれど。いろんなところで感じたことや、考えたことが、全て言葉には集約される。ただ、それは作曲も同じだ。言葉が特に面白いのは、言葉がフラットになれば、現実もフラットになるところだ。言葉と現実は密接にリンクしていて、言葉の扱い方が、そのまま世界の捉え方になる。それは「世界は悪意に満ちている」と書けば世界が悪意に満ちているように感じられる、という対応の仕方ではなくて、「あ」も「い」も「う」も均等に扱ったとき、僕に見える世界、例えば「本」や「机」や「フィギュア」という、ひとつひとつのものたちが、全て均等に見える、というとても気持ちいい感覚を得られる、ということ。言葉によって分析されて抽象化されて、再構築された、重たい観念に満ちた世界を、一度リセットする感覚。それは原始人にとっての、リアリティ溢れる「あ」の使い方ではなくて(いや、もしかしたら同じかもしれない)、限りなく「僕」という主体性を稀薄にした「あ」を、ただ奏でるような感覚。音符の中で、どの音が一番重要だ、というものが無いように、全ての単語を、ただの「あ」と等価なものとして扱うこと。世界は音楽に限りなく近い。空海がたしか「万物の母は言葉であり、究極のところは全て「あ」に始まる」みたいなことを言っていたと思うのだけど(全然違うかもしれない)、それと似ているかもしれないし、違うかも。僕にとっての言葉の楽しさは「石ころが浮かぶ」みたいな、常識に反することを書くことでもなく、また「青い季節」とか「暮れ行く甘さ」みたいな、映像化出来ないことを書くことでもなく、自分自身は単なる脳とか指とかいうハードウェアに成り切って、フラットな意識に受信された何かを、ディスプレイに叩き付ける、ただの作業に没頭すること。「何を書こうか」とか「どう書こうか」と思考するとき、書く楽しさは大幅に減る。村上春樹が言っていたと思うのだけど、書くことはジャズのインプロヴィゼーション(即興演奏)に限りなく近いのかもしれない。そうして書かれたものには、僕の経験やら気分やらが反映されている。僕は聖人ではないから、毒だって含まれている。もちろんそこには、常識に反したことも書かれるだろうし、五感には含まれないものも書かれるだろう。……ただ、こう書いておいて何なのだけど、僕はその境地には到っていない。でも、フラットさを意識して、そして普段から勉強や経験を怠らなければ、いずれ到達出来る場所だと信じてる。



テクノロジーの進化の恩恵を、僕は大分被っていて、パソコンとキーボードの気持ち良さに、僕は大分、満足しているし、もっと言えば依存している。けれど、高性能なデジタルカメラは要らなくて、ハリネズミも好きだったけれど、LOMOHolgaポラロイドカメラが好きで、ピンホールカメラの幻想感も大好きだ。Holgaは持っていたのだけど、カメラ屋で現像を頼んだら、特殊なフィルムだから時間が掛かって、おまけに印刷所の独断で、写りのとても悪い写真はプリントされずに戻ってきて、とても残念だった。プリントされた写真はとても大事に持っていたけれど、鬱で何にも愛着を持てないときに捨ててしまった。今とても欲しいのは、デジタルでありながら、その場で印刷出来るチェキだ。データだけの画像は、心許ないし、何か不安だから。……ただこれは、時代にちょっと逆行したいな、という気持ちを書いただけで、カメラが今すぐどうしても欲しいという訳ではないのだけど。

この世界が仮にデータだとしても、僕はこの世界に愛着を持っていて、手触りのあるものが恋しい。昔僕はルリユールになりたくて、ルリユールというのは、手造りで本を作り、本を手作業で修繕する人のことだ。異世界には別に行きたくないし、そこで人生をやり直したくはない。人生は、この、僕の人生だから。僕とはこの世界に於ける、僕が僕だと認識する世界の拡がりのこと。音楽が好き、というのも含めて僕だから、異世界に行って、ニック・ドレイクの音楽が聴けなくなったら、もしかしたら、少なくとも僕が自然に僕だと言える僕は、そこにはもう、いないかもしれない。デジタルが嫌いな訳じゃない。インターネットという仮想の空間も好きだし、VRだって好きになれるかもしれない。でも、物としてちゃんと存在するCDが好きだし、究極のところレコードで音楽を聴きたい。レコードを鳴らすためのアンプは、大体全てデジタルで、アナログ(真空管)のアンプはとても高い。デジタルのアンプと言っても、音楽はスピーカーというアナログの物質から、空気を伝って、つまりシームレスな波として、僕の意識に届く訳だから、そこまで真空管に拘っている訳じゃない。空間はデジタルだろうか? 光の強度は、ものすごく細かく見ればデジタルなのらしい。つまり、本当は段階的に強くなったり弱くなったりするのだけど、あまりに細かく光度は変化するので、人間の脳には、太陽の光が段々翳っていくのが、がたがたと段階的に暗くなっていくようには見えないだけなのらしい。紙の本を、原子や電子や素粒子の集まりとして見る人はいない。ましてや、隙間だらけどころか、実質は本なんて存在していなくて、ただの紐状のエネルギーの集まりだとか、私たちがそれを本と認識したときだけ、本は本として存在するとか、そんなことは僕にとってどうでもいいことだ。好き、という感情が世界を具現化し、嫌い、はその内消えるし、どうでもいいものは最初から存在しない。僕が僕を好きなとき、僕は存在するし、世界が僕にとって好きなとき、僕の世界は存在する。好き、の拡がりが、僕にとっての全て。

頭の良さ、とは物事を抽象化する能力がある、ということだそうだ。僕はそれを、感情的に理解する。例えば、たくさんの大事な本を分類し、綺麗に本棚に並べ直すこと。また、自分の持ち物や情報を、感情に従って、厳密に取捨選択すること。整理や取捨選択は、まさに物事を抽象化する作業だから、自分の持ち物をあちこちにほったらかしにせずに、自分にとって本当に大事なものを選び、それを大事にする人は、頭がいい、ということになる。社会や集団にとって有用なものを、膨大な情報の中から適格に選び出せる人や、ある漠然とした問題意識を、整理して、要らないところを切り捨てて、シンプルな問題へと変換させることが出来る人は、社会にとって有用な人で、基本的にそういう人のことを、頭がいい、と言う(と思う)。有用さという尺度によって物事を選別するか、感情に従って選別するか、では世界へのアプローチの仕方が異なっているけれど、面白いことに、ひとりの人の感情的な選択が、社会にとってすごく有用であったりする。自分が好きで作った物や作品が、多くの人の役に立ったり、人を喜ばせたり幸せにしたりする。多分、だけど、多くの人は、そんなに便利さを求めていない。シンプルで、そしてこの世に生きるに価する、と感じられるような世界観/ヴィジョンの方が求められていると思う。それが本当の本当に現実か、作り話であるか、ということは関係ない。この世界自体、現実か架空かなんて、誰にも分からないのだから。僕は世界を文学的に理解する。

僕は、ある部分では、自分の古風さに拘って、生きていきたいと思っている。今現在、世界に住んでいる人々の、集団的な心理の傾向、なんて僕にはとても分からないけれど、ともかく僕は、硯に向かって、よしなしごとを和紙に書き付けていた、昔の時代を懐かしく思うし、昔より今の方が優れているとか、今より未来の方が優れている、とは全く思わない。僕にしても、今さら筆で書く時代には戻りたくないし、iPhoneやゲームやネットが好きだし、未来の技術にはどきどきする。VRの世界や、延命技術の飛躍的な進歩を目の当たりに出来たら嬉しいし、そこまで寿命が保たないかもしれないことを、少し残念に思う。サイボーグになりたいし、意識自体がネットワーク化された世界に憧れる。けれど同時に、僕は今の時代や今の空気や今の僕や、紙の本や音楽や、キーボードで書くことを、とても愛しているし、世界共通語とか関係なく英語が好きだし、フランス語が好きで、そして日本語が好きだ。日本の古典文学を自由に読めることも、ギターを弾けることも嬉しい。僕は声、特に歌声が悪いし、叶うならサイボーグ化して、女の子の声で歌えたら最高だけれど、それは半分くらいは諦めた。僕は僕として老いて死ぬことは、別に構わないし、個人的には、いつ死んだって別に構わない。

僕は、他人ではなく僕なのだ、という当たり前のことに、やっと最近気付いてきた。

最近、過去のことを言っても仕方ないな、と思う。僕はすぐに後悔の渦に飲み込まれてしまって、しばしば、もう自分は完全に損なわれてしまった人間だと思う。大切な何かが致命的に失われたか、もしくは不可逆的に壊れてしまった、と思う。確かにあったはずの何か。光や楽しさを、僕はいつか取り落としてしまった。もう何も分からない。過去をどう思い返せばいいのか分からない。無為な年月を過ごしてきた。多分、後悔しない人なんていないにしても、僕はもう、過去において、もう取り返しの付かないくらい損失した、と思っていた。自分自身を無くしてしまった。歳を取ってしまったら尚更、後悔の種は尽きないと思う。引きこもりの僕にだって、それなりの精神的なドラマはあった。その大部分は、影よりも、虚無とカラフルな恐怖で出来ている。誰もがきっと、どうしようもなく傷付いた過去を抱えたままで生きている。それは理解されず、また理解されたり納得されたりすることを、誰もが拒んでいる。過去は自分にだけ刺さる傷。過去の重さや、今の自分のどうしようもなさに自殺する人たち。弱っている人たちに向けて強者は決まって「自業自得だ」と言う。お前が駄目なのも、弱いのも、痛いのも苦しいのも皆、「君が自分で選んだことだよ」と。辛い人が辛いと言うことは疎まれる。辛い人は、自分自身で立ち直ることが奨励される。

じゃあ調子がいい人は、自分の調子を良くするために努力してきたのか、と言えば、全然そうじゃないと思う。傷付くのも、楽しく生きられるのも、運だ。そして、孤独で、死にたい人の方が、ずっと、じっと日々の苦痛に耐え、一秒一秒、呼吸のひとつひとつを、決死の思いで生きている。

今になって、過去を思って燻るのを止めようと思い始めた。それはもう、本当、ただ単純に今が楽しくなり始めたからだ。

人には何故、過去に拘る習慣があるのだろう? 80歳くらいになって、思い出に浸るのは悪くないかもしれない。僕はずっと、自分はもはや老いてしまった、と思い続けてきた。18歳の時は、もう人生の終わりどきだと思ったし、23歳の時には長く生き過ぎたと思ったし、それからは毎日死にたいばかりで、年齢を数えるのもやめてしまった。僕は、少しずつ磨り減って行った訳ではないし、時間をかけてじわじわと回復してきた訳でもない。人は……と、一般論的に言うのだけど、……あっという間に悪くなるし、ふと明るみにいる、回復した自分を発見する。ふと、おかしいと思う。するとその奇妙な、常識的な世界とのずれは、どんどん頻繁に感じられるようになり、累積していく。気付くと、常識的に生きるってどういうことなのか、全然分からなくなる。治るときは逆。ふと、楽しいと思う。そしてこれが本来だ、と思う。本来の自分を取り戻そうと焦りながら、何もかもをまた見失ったりしながら、少しずつ少しずつ、自分がまともだと思える時間が増えていき、その内そっちの自分が普通になってくる。

ここ10年間の僕の過去には、絶望感以外何も無かったから、書くべき過去はほとんど何ひとつ無い。精神の闘病生活には相手がいないので、そこにはドラマは無いし、それに病気の症状についての細かいことは、他に書いたので、今は書く気が無い。僕はもう、自分がいかに苦しかったか、と、書く気がまるで無い。精神の病気を抱えている人には同情する。でも、僕自身が同情を乞うべき時は終わった。僕は、多くの人の、精神病に対しての理解がもう少し深まればいいと思うし、もっときちんとした治療法が確立すればいいと思っている。精神病が、例えば腎不全なんかの病気と同等に扱われたらいい、と思うのだ。産まれ付き心臓が弱い人がいるように、脳に病気を抱えやすい人もいる。誰でも落ち込むことはあるけれど、病気としての鬱は、もっと激しく、命に関わるものだ。精神病は、なってみなければ絶対に、本当には理解出来ない。落ち込みや不安と、病気としての鬱は全然違う。息切れと喘息が全然違うように。「自業自得だ」という言葉は見当違いだし、考え方を変えたからって、病気はどうにもならない。
「生きていればいいことがある」と言う。それは、ある意味では正しい。でも絶望している人にとって、普通に生きることは、針山を裸足で歩くくらい、とても困難なことだ。仮に、針山を百歩歩けば天国に行ける、と約束されていたとしても、痛みと恐怖が薄らぐ訳ではない。しかも鬱には終わりが見えないし、致命傷を負った血まみれの心を、誰ひとり、想像すらしてくれない。それに、死ぬまで鬱は治らないかもしれない。

僕は、大切な何かを、全て喪ってしまったと思っていた。心の中の火、すなわち、情熱や好奇心に直結する熱量。詩的な感覚。何もかも。昔はあった、確かなものが、完全に壊れたか、損なわれた、そして二度と帰っては来ない、と思い込んでいて、喪失の中の自分を生きる以外に、選択肢は何も無い気がしてた。けれどこの頃、案外そうではないのかもしれない、と思える時がある。ドラマみたいに、僕が僕を取り戻す決定的なシーンがあった訳じゃない。もしかしたら、僕の鬱は周期的なものでもあるのかもしれない。それにしても、僕は僕の意思で鬱を治した訳ではないので、やはり運が良かったと言うほか無い。

2年と半年くらい前、2019年の5月頃から、僕は良くなり始めた。

楽しくないと人間は生きられないものだ。憂鬱も時には必要だけれど、憂鬱が募ると、人は死んでしまう。僕はあと数日で34歳になる。34歳というのは、思い出や後悔に浸るには早過ぎると思う。過去を振り返って、自伝や何かを書くのは、80歳になってからでいいと思っている。80歳まで生きられなければ、それもまたいい。要は過去に囚われず、未来を絶望視しないならば、人は現在を永遠に生きられるのだから。

言葉に対する好奇心を失っていた。僕はいろんなものを喪い続けてきたけど、言葉と音楽を、身体(脳?)が全く受け付けなくなってからは、僕の世界には全く逃げ場が無かった。