日記

11月14日(日)、
……一日中寝ていた。

 

11月15日(月)、
夜明け前、『無職転生』の12話から17話までを見る。泣きすぎて頭が痛い。エリスが可愛すぎてとにかく泣けてしまう。頭が痛い。

2時間横になる。そう言えば、昨日はしんどくて、一日中何も食べていなかった。つまり一昨日から何も食べていないのに、頭が痛くてロキソニンを飲んだので、そのせいかどうか、吐き気まで重なって、非常に不快だった。2時間経って、ようやくましになった。感動作はこれだから困る。感動するからって、名作だとは思わないけれど、『無職転生』は間違いなく人にお勧めしたくなる、いい作品だ。一話一話の情報量がとても多いし、毎回大事件が起こる訳ではなく、主人公のルーデウスたちの成長を、とてもゆっくり、丁寧に描いているので、続けて見るのはなかなか骨が折れるけれど、少しずつ少しずつ、仲間同士の絆が深まり、壮大で過酷な世界を生き延びていく彼らを、ずっと応援したくなる。特に、エリスがどんどん魅力的に思えてきて、毎回エリスの台詞で泣いてしまう。エリスがいなければ、旅があまりに単調に思われて、このアニメの魅力は半減すると思う。何て魅力的なキャラ造形なんだろう。エリスが可愛いというだけでも見る価値がある。

 

11月16日(火)、
今ある、ちょっといいハンドソープが無くなりかけているので、またいいハンドソープが欲しい。いいシャンプーもボディソープも、すぐに切れてしまうので儚い。

朝5時。昨日の朝の2時頃から起きている。ちっとも眠くならないし、横になっても考えや、頭の中の映像が止まらない。数日間、現実と呼ばれるものが、本当に現実なのか、確信が持てない。あるように見えるし、触ることも出来るけれど、物質とは一体何なのだろう? ただ、そう感じるだけ、あると思い込んでいるだけではないのか? でも、その迷いは、不思議と僕を自由な気分にする。子供らしい疑問を今も抱えている。ドアを開けると廊下がある。でも今廊下を見ていない僕にとって、廊下は存在していると言えるのだろうか? 意識が世界を作り出しているのではないだろうか? 世界が厳然としてあって、そこに意識を向けている、ということと、意識したものだけがある、ということに違いはあるのか? 子供っぽい疑問だけど、未だに答えはあやふやなままだ。

僕はまだ万全ではないのだろう。でも、こうしちゃいられない、といつも思っている。僕は僕ほど苦しんだ人はそうそういないだろう、と思っている。でも、人一人の苦痛は無限で、それぞれの人がその人に耐えられる限りの最大限の苦しみを乗り越えてきているはず。例え、本当にあまり苦痛を感じたことが無い人がいたとしても、やはり生きていることはその都度その都度、精一杯なことなのだと思う。あまり自分の苦しみに意固地にならないでおこうと思う。拘っている限り、どこにも行けない。
僕の一番大好きな季節である冬が来ようとしている。日本語を、再び、とても好きになりたいと思う。

 

11月17日(水)、
朝、フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』を見る。2時間54分ある映画なので、少し疲れた。マルチェロ・マストロヤンニがまた主人公だった。主人公の名前もまたマルチェロ。アニーク・エーメがほんの少ししか出てなくて残念だった。繊細で内気そうなマルチェロが周りの浮かれ騒ぎの中で、またもや苦悩している話、で、やっぱり浮気をしまくってる。けれど、どの女性も、馬鹿騒ぎが好きだったり、いかにもメロドラマに影響を受けたような演技じみた悲嘆に暮れて、マルチェロに言い寄ったりして、本当の愛なんて何処にも無いみたいだ。この、周りに全然馴染めない感覚は、イタリアの社交界に限った話じゃない。周囲のノリに全く付いていけない疎外感は、多分古今東西、誰しもが感じたことのある感覚だと思う。マルチェロいけ好かない奴だけど、浅薄な世界の中で、よくこんなに強い自制心を保てるものだ、と思う。太宰治だったら、周りに合わせておどけるために、どうしても麻薬が必要だったんです、とか書きそうなところだ。少しひなびたカフェのようなところで、薄汚れていない清楚な少女に出会うところも少し太宰的だ。どう考えてもマルチェロには、静かに執筆出来る環境が必要なんだけど(マルチェロは記者であり、作家でもある)、社交界の馬鹿ばかりみたいな有象無象の世界で、本当の愛を探し求めているみたいだ。そして女性に言い寄り、すぐ運命の人だ、と思い込むのだけど、すぐさま女の安っぽさに幻滅して、いっぱいの人たちの中で、ひとり寂しげな笑いを浮かべる。その微笑が、また女を惹き付けるんだろうな、と思う。マルチェロなら、社交界では満たせない、本当の愛を与えてくれるのではないだろうか、と女性たちが、ちょっと期待したくなるような、寂しげではあるが、真実味のある笑みだ。マルチェロ・マストロヤンニは、本当に、夢見がちでありながら、しかも持ち前の能力から社会には適応していて、けれど純真な心を持ち合わせた中年の男の役が上手い。まあ、単純に男前だから絵になる、ということも大きいけれど。たまたま、別の場所で再会した清楚な少女の声は、喧噪故に聞こえず、結局いつもの煩い世界に、引き摺られるように戻っていくマルチェロの姿が印象的。マルチェロもまた、自分がもう、汚れてしまったことの悲しみを、十分に理解しているような。……と、期せずして少し長く書いてしまったけれど、実のところは、空しさばかりを感じる映画だった。けれどこの映画を見る人は誰しもが、この空しさには覚えがある、と既視感を感じるのではないかと思う。長いし、もう一度は見たくない映画だけれど、見終えた後で残るのは、パーティーやキャバレーでの派手なシーンでは無く、孤独や悲しみ、静けさだ。静けさ、それから信頼の上で成り立った、人との関係への恋慕。そういうものをフェリーニが描きたかったのだとしたら、本当に存分に描けていると思う。近い内にフェリーニの『道』と『青春群像』と『フェリーニのアマルコルド』を見てみるつもり。フェリーニは「映像の魔術師」と言われているらしいのだけど、どうも僕は映像美には疎い。けれど、映像を見ているだけで、うっとりとした快感を得られることはよくある。その積み重ねが、映像に対する感性みたいなものを磨くのだろうか? まあ、そんな感性、僕は別に要らないのだけど。「ああ、美しいな」と感じることは大好きだ。その瞬間を求めて映画を、この頃よく見ている気がする。……そう言えば、すっかり書き忘れていたけれど、『甘い生活』にはニコが出ていた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの一枚目のアルバムで歌っていた、あの(というほど知名度があるかは分からないけれど)ニコだ。僕は、ヤク中になってからの、いつも虚空を見詰めるような目をして、憂鬱そうな低い声で歌うニコしか知らなかったので、劇中での明るく活発な、普通の女の子っぽいニコには、役名がニコじゃなかったら、何の気も払わなかったと思う。ヘロインは、良くも悪くも、人の意識を自らの深淵へと向かわせるのかもしれない。ドラッグに関しては、僕は、こんなことを言うとまずいのかもしれないけれど、どちらかと言うと賛成派だ。何故かと言うと、素面で生きるには、人生は過酷すぎるし、過酷さを精一杯やり過ごしたからと言って、報われる訳じゃないからだ。長生きなんてしたくない、と本気で思っている人は多いと思う。仮にニコがドラッグに手を出さなかったとしたら、キュートな女の子として、それなりに不幸でそれなりに幸せに毎日を生きて、もしかしたら長生きさえしたかもしれないけれど、でも多分『チェルシー・ガールズ』は歌えなかったと思う。それは確かに、ドラッグに幻想を抱いている僕の詭弁でもあるし、また、ドラッグ抜きで才能を発揮出来た方がいいに決まっているんだけど、努力ではどうにもならない生き辛さはあるし、不断の生き辛さゆえに、本当は才能があるのに、それを発揮出来ないで自殺願望に塗れて、苦しみを耐え忍ぶことにばかり長い年月を費やしてしまう人は、とても多いと思う。ドラッグが才能を開花させるとは全く、全然思わない。けれど、生き辛さをあまりに強く感じ過ぎて、本来の力を全然発揮出来ずにいる人は、必ずいると思う。人は、憂鬱な生き物だ。
ドラッグが法律違反なのは当然だけれど、僕には、ヤク中の人を軽蔑したり、心が弱いからだと言ったりすることは出来ない。僕自身は、おそらくドラッグとは一生無縁なままで生きるのではないかと思うけれど、それは僕の心が強いからではなくて、単純に、即物的に、病院の処方薬がよく効いていて、たまたま、言葉や音楽や、頭を使うことが、段々楽しくなってきたからだ。もし、処方薬に何の効果も感じられず、絶望しか無いならば、僕は簡単にドラッグに手を出すだろうし、暗いまま自殺するよりは、ODしてハッピーに死ぬ方が絶対にいいと思うだろう。これからだって、落ち込みがひどくなる可能性は十分にある。ふらりとドラッグの誘惑に負けてしまう危険性は、もしかしたら憂鬱が治りかけてからの方が大きいかもしれない。再び落ち込むことが怖くてならないから。
僕は今は、書くことや音楽を聴いたりすることの方が、ドラッグより絶対に楽しい、と思っている。でも、言葉や音楽に、麻薬よりも麻薬的な面白さを感じるようになってきたのは、本当に最近のことで、それまでの数年間、僕はほぼ、死にたいとしか考えていなかった。何ひとつ楽しくなかった。僕の場合は、その死にたい期間にドラッグをやっていたとしても、根本的には何ひとつ解決しなかったと思う。ドラッグでは精神の病気は治せないから。病気の人には、精神科に通って、自分に合った処方薬を飲み、何年間も休むしか、救われる手立ては無いと思う。脳の病気は本当に辛い。絶望と恐怖と不安、抑鬱の他、何ひとつ無い世界を、文句も言わず、孤独に生き抜かなければならない。合う薬がたまたま見付かるまでは、アルコールに逃げたり、自殺未遂を何度もしたけれど、たまたま僕は生き延びられた。手近にドラッグがあったら、間違いなく、法律なんか関係なく、躊躇いなく、僕はそれを使っただろう。例え病気を悪化させても、死んでも。
脳の病気が完治したとしても、憂鬱はきっと永久に続く。僕の精神が、どれだけ簡単に絶望感や喪失感に陥るか、僕は知っている。体感的には(脳がどうなっているかは知らないけれど)、精神は、唐突に悪くなり、そして非常に緩慢に回復する。回復も、細かく見れば、段階的で、急にすごく良くなって、もう大丈夫だと思ったり、やっぱり駄目だ、と思ったりの繰り返しが続く中で、全体として見れば、良くなる回数や時間の方がやや多いかな?、という感じを一応回復と見なしているけれど、多分、健康と言える状態になっても、その繰り返しは続くと思う。誰にだって気分のサイクルはあると言われている。僕は、もしかしたら一生、処方薬に依存し続けるかもしれない。今飲んでいる薬を信用しているけれど、それだからこそ、薬を減らすのが怖い。
経験的に、僕は、ドラッグを使わなくても、僕が望む限りの最高の幸せに辿り着けると知っているし、僕なりに、僕の創造性を完全に発揮出来る状態に至れることを知っている。でも、その場所にはずっと行けずにいるし、いつも何かしら気になっていて、苛々と不安が消えることはまず無い。今の僕を、とても不完全だと感じる。ヘロインとまでは行かなくても、マリファナを吸えば、もっと書くことにも、日々の勉強にも集中できるかもしれない、と思うことがあって、マリファナが合法の国に移住してみたい、とうずうずすることもある。少し焦っている。そんな誘惑に負けてしまう前に、僕なりに完璧な場所に行ければ、それが一日の内の僅かな時間であろうと、僕はきっと、僕の人生に満足していられるだろうと思う。それはとても贅沢なことだけれど、せっかく生きるのなら、完璧な時間を感じていたい。
僕は、今は、生きることを諦めていない。まだ完璧じゃないけど、言葉が日に日に好きになってきている。音楽もまだまだ好きになれるはず。

最近、暗いことを書いても、大体すぐ削除している。

 

11月18日(木)、
時々、ふと、とてつもなく寂しくなる。

 

11月19(金)、
この頃、眠るのが勿体なくて仕方が無い。

午前中は、どうにも頭が働かなくて、少し落ち込んでいた。午後からは、八割方、この頃のいつもの調子を取り戻す。

クイズやパズルを解くのに、少し飽きてきた。頭を活性化するにはいいんだけど、やはり、僕の興味は言語に戻ってくる。言語を学ぶ方が、面白いし、難しい。それに、音楽の方が楽しい。本を読みまくりたい。言葉を、感じたい。

お金が欲しいと思う。だが、急がないでいよう。11月に入ってから、僕は割と元気で、それまでは、死にたいと思わない日は無かったくらいなのに、今は、生きて、もっと知りたいと思っている。歯を治したいと思うのだけど、今の僕には到底払えないお金が掛かりそうで、怖くて歯医者に行けないでいる。鬱で、すぐにでも死にたいが為に、歯を全く磨かずに、しかもコーラやらウォッカやらが主食だった数年間の間に、上の前歯4本全てと、下の前歯を2本、右の奥歯を1本、根元から失ったし、他にも、欠けてない歯は、おそらく1本も無い。1本の歯を完全に差し歯にするには30万円掛かるそうで、それだけ考えても、途方もない額のお金が掛かるのは間違いない。……それなのに、今の僕は、ほぼ、全然焦っていない。状況は寧ろ悪くなっているはずなのに。目が覚めている、というだけで嬉しい。

2年と半年くらい前から、治る兆しはあった。脳の再建が進み始め、枯渇していた脳内麻薬が、少しずつ分泌されるようになってきた。

日付が替わる少し前、無性に甘いものが食べたくなって、スイートポテトと大福を食べる。無論、食べた後では、もう一度歯を磨く。