日記(人の中で)

10月9日(土)、
僕は変われるんだなあ、と思う。良くも悪くも。この頃、精神の状態が大分良くなってきた。もしかしたらまた、心から楽しい時間を過ごせるようになるかもしれない。

 

10月10日(日)、
少しずつ、少しずつ良くなっていく。少しずつ身軽になっていく。

 

10月11日(月)、
朝から、頭の芯が目覚めていない感じ。ぼんやりしていると、すぐに不安に取り込まれてしまう。心配ごとで頭の中が一杯な気がするけれど、具体的に何を心配しているのか分からない。

子供の頃のように夢見て過ごしていたい。頭を使って。想像して。難しいことに憧れて。僕の今までの長年の記憶は、もやもやと悪い塊になっているけれど、その中には純粋に美しい記憶も含まれている。僕は別に、何かを成し遂げて、人に賛美されたいなんて思わない。最高の瞬間は、自分の中にある。自分の心に出会いたい。僕はまず、精神の病気を治さなければならなかった。有り難いことに、何故か、病気は大分治ってきた。僕自身が意思の力で治した訳じゃない。ごろごろだらだらしている内に、調子が良くなってきた。とても運が良かったのだと思う。まだ、僕の求める場所には行けないけれど、もう絶望はしない。もしかしたらまだもう少し生きられるかもしれないことが、嬉しく感じられるようにさえなってきた。

 

10月12日(火)、
あらゆるものが繋がっている。

人はいつでも変われるのだと、最近いつも思う。でも、変わろうとする意志は、一体何処から出てくるのだろう? 変わりたいと思っているときにはもう、変わっているのではないだろうか?

朝からヴェルヴェット・アンダーグラウンドをスピーカーで聴いている。音楽は美しい。たとえ虚無感に取り憑かれていても、音楽が美しい限りは生きていける。

 

10月13日(水)、
音楽や読書を楽しめる、って有り難いことだ。鬱がひどいときは、音楽を聴いても不安になるばかりで、本を読んでも、少しも頭の中に入ってこなかった。外でもヘッドホンを付けていたら、とても内向的そうだけれど、内面に不安があるときは、ヘッドホンで音楽なんて聴けない。スピーカーではもっと聴けない。音楽をどうしても楽しめないときは、自分のことが嫌になる。僕は本当は、スピーカーで音楽を聴くのが最高に好きだった、ということを実感として思い出してきた。4ヶ月前に、せっかくBOSEのスピーカー(CDプレーヤー)を買ったのに、昨日まで殆ど使っていなかった。音楽が、生きている空間を塗り替えてくれる感覚を、本当に久しぶりに感じている。

BOSEのスピーカーは、しばしば低音に癖があると言われていて、音のバランスは決してフラットではないらしいので、もし僕が今スピーカーを選ぶとしたら、もっと他の、音に出来るだけ味付けをしないものを選ぶと思う。たしかパイオニアに、とても評価の高い、木製のCDプレーヤーがあった。昔、BOSEのCDプレーヤーを使っていたので、同じのを買えばまた音楽を楽しめるんじゃないかと思って、今度もBOSEを選んだ。それでも買ってからずっと、なかなかスピーカーでは音楽に集中できなくて、BOSEのスピーカーも昔とは音が変わったのではないかと訝ったりさえしていた。けれど昨日急にすんなりと、スピーカーから流れ出る音楽をとても心地よく感じて、やっぱりBOSEの音が好きだと思った。昨日からはロックばかり聴いている。BOSEのスピーカーは、主に中音域の、ギターとヴォーカルがとても綺麗に鳴るし、ベースとドラムの低音に深みがあるので、バンドサウンドにはとても合うと思う。

「楽しい」っていう感覚は一体何だろう? 音楽は、音楽単体で美しい訳ではなくて、僕の耳に入り、脳がきちんと音楽を音楽として認識したときに、初めて僕はそれを美しいと感じる。気分が悪いと、音楽は美しくない。でも、脳に出来るのは認識するところまでだ。音楽を感じるのは、心なのだろうけれど、心って、一番分かるようで、一番説明しづらい。誰もが心を持っていると思うけれど、他人の心はなかなか見えない。音楽を聴くと脳内麻薬が出るとしても、脳内麻薬が出ることの心地よさを感じているのは何処なのだろう? 心? 世界?

人生は短い。と言う割には、長く生きてきた。もっとずっと早く死んでいてもおかしくなかった。せっかくなら自殺はせずに生きて、自分の人生の全てを込めた小説を書きたい。

もう迷いたくない。

 

10月14日(木)、
ゆっくり、非常にゆっくり進んでいこう。

 

10月15日(金)、
疲れがあって、頭の中心に薄い膜が張っているような調子が2、3日間続いていた。怠い間、松尾芭蕉の俳句を読んでいた。短歌の方が14文字も長く、いろいろなことを書き表せそうなものなのに、短い俳句の方が胸に迫ってくるものを感じることが多いのは何故だろう? 僕は俳句に関してはまったく無知で、昔、荻原井泉水が書いた、『奥の細道』の解説本を読もうとしたけれど、古文が読めなくて断念した。今読んでいるのは、角川書店が編集した『覚えておきたい芭蕉の名句200』という、軽めの書物で、とても分かりやすく解説されているけれど、もちろん解説よりも、俳句自体がとても素晴らしくて、読み応えがある。俳句は最近まで殆ど好きだと思ったことが無くて、ただ一人、荻原井泉水の自由律俳句だけ、昔、好きになって、今も好きだ。井泉水の名作を網羅した本が出ないのは残念なことだけれど、それも仕方なくて、井泉水には、名句は少ないと思う。ただ、いくつかの句が、一度読んだだけでずっと覚えていられるくらい、はっとするほど美しい。井泉水は、山頭火や尾崎放哉の師匠だったと思うのだけど、弟子の二人の方が、ずっと知名度が高い。今は手許に井泉水の句集が無いので、ネットでちまちま、井泉水の句をたまに読むのだけど、とても透明度の高くて、放哉や山頭火よりも、現代的だと思う。例えば、僕の好きな井泉水の句は、「石、蝶が一羽考えている」「うちの蝶としてとんでいるしばらく」「月光ほろほろ風鈴に戯れ」など。5・7・5の縛りを、最近までとても煩わしく思っていた。今でも定型はあまり好きじゃないけれど、読むときには気にせず言葉をそのまま感じればいい、という程度には考えられるようになった。
古文は、分かりづらくて、いろいろと想像しながらじゃないと読めないところが面白い。芭蕉の俳句は、不意に心の中に風が吹き抜けるような清涼感があって、大抵の詩を読むより、気分がずっと良くなるけれど、やはり当然のことながら、短いところが少し物足りない。一句一句、深く想像するのは楽しいことだけれど。もう少し元気のあるときは、『枕草子』や『徒然草』を読んでいると、イメージに連なりと膨らみがあって、別の時代の別の場所に連れて行かれるような感じがして、いつまでも浸っていられる。言葉を通して、心は繋がっていると感じる。

最近は、何の衒いも無く、日本語が美しいと思えるようになった。

朝。鳥が忙しく鳴いている。僕は睡い。モニク・アースの弾くドビュッシーを流している。心には時々不安がある。遠い気持ちのままでいることは難しい。

昼。どこまでも落下していくような不安。いや、不安とは違う。恐怖、とか、戦慄、と言った方がいい。

夜。僕は大事なことから目を逸らし続けている。僕には行かなければならない場所があるのに。決して今のままじゃ辿り着けない場所。ぼんやりしていては行けない。よく目覚めていること。そしていつでも自分を捨てられる覚悟を持つこと。

別に人が好きじゃなくてもいい。意地悪なのが好きでもいい。でも、意識が思考に偏して、他人が人に見えなくなる状態は、自分にとっても何のよすがも無い状態で、心がどんどん硬くなって、何にも面白くなくなっていく、危ない状態だ。人のことは自然には人に見えない。また、人が人でなければならない必然性みたいなものは無くて、言葉で考えていると、人が人であることなんてすぐに忘れてしまう。単に、自分より他人が好きな方が生きていて楽しい。誰とでも仲良くなりたい方が生きていて楽しい。それは経験論で、何故そうなっているのか説明することは難しい。