日記(とても怠かった)

10月1日(金)、
夜中。虫の声を聴いている。そろそろ窓を開けていたら寒い季節がやってくる。今聞こえるのは、単調な虫の声(風がそのまま鳴っているみたい)、扇風機の音、キーを打つ音、それからやっぱり高速道路の音。

全ては消える。溶けていく。

今まさに死ぬ、というときになって大事なことに気付くのでも、決して遅くはないと思う。

 

10月2日(土)、
鬱の時は、お腹の中に砂利をいっぱいに詰め込まれているような感じがする。その苦しみを吐き出したいけれど、苦しみは、異物ではなく、もはや僕の身体と一体化しているので、どうしても吐き出したいなら、死ぬしかない。骨折と同じで、精神も、一瞬にして折れることがある。そして治癒するのには非常に長い時間が掛かる。一生掛かっても癒えない傷ばかりかもしれない。僕にとって、ラミクタールは唯一効果が実感出来た薬で、劇的に治りはしなかったけれど、飲み始めてから、自分が少しずつ快方に向かっているのは感じられた。

僕は左利きに非常に憧れていて、ギターも本当なら左利きの持ち方(右手で弦を押さえて、左手で弦を弾く)をしたいとずっと思っていた。お箸は15歳から20歳か21歳頃まで頑なに左手で使っていたのだけど、ついに自然に使えるようにはならなかった。右手と殆ど遜色なく使えはするのだけど、無意識に使えるまでには至らなかった。今でも、左利き用のギターを衝動買いしそうになることがある。まだ僕はギターが全然素人なので、今から左利きの持ち方に換えても、上達のペースはそんなに変わらない気がするのだけど、やはり、ペンやお箸を持つ右手の方が、より細かい動きに慣れている。どうせなら既に左手よりアドバンテージのある右手の方を極めようか、と思ったりする。

朝。海の中にいるような気分。でも時々、生活の不安に押し戻される。地上では呼吸が出来ない。相変わらず高速道路の音を聴いていたけれど、両親が起き出して、外から人の声が聞こえ始めると、ひどく不安になる。ヘッドホンを付ける。エイフェックス・ツインを大音量で聴く。

ギターは好きだなあ、と思う。金属の細い弦に、ピックが擦れて磨り減っていくのも好き。この頃ギターを、ほぼピックでしか弾いていない。アコースティックギターを爪で弾くのは大好きだけど、今はアコースティックギターを持っていない。

夜の音。窓を開けていると肌寒い。扇風機も付けていない。本当に誰とも話したくない気分なので、両親が眠ってから夕食をひとりで食べようと思っているのだけど、僕の両親は大体2時頃まで起きている。

感情の上下が激しい日だった。

 

10月3日(日)、
……

 

10月4日(月)、
昨日と今日で、チョコレートとチーズをひとかけらずつしか食べてない。空腹を感じるけれど、食べると思うと吐き気を感じる。それにとても疲れている。

昼。クーリッシュを食べる。

身体の傷と同じで、心の傷も、痛みだけを覚えていて、時に傷跡が疼いたりする。だけど、もう、いつ何処で受けた傷なのか、忘れている。悪夢を見る。随分長い間、いい夢を見ていない。朝は半分、意識が夢の中にいて、今まで嫌なことしか無かったし、これからもそう、という気がしてならない。

夜、クーリッシュを食べる(飲むと言った方が近いかも)。

多分、卑屈になっている。遠い遠い高速道路の音も、静かな夜の風も、みんな悪意の針を持っていて、僕を取り囲んで、「どこにも逃がさない」とメッセージを送ってきているみたいだ。いや、そういう感じがするだけで、ただ疲れて過敏になっているだけだ、と認識してはいる。自分の疲れや苛立ちを、外界のあらゆるものに投影しているだけ。

何にも、欲しいという気がしない。

 

10月5日(火)、
夜中、ゆで卵を三つ食べて、少し人心地が付く。

僕は僕自身としていられればいい。他人と比べて醜いとか美しいとか、賢いとか愚かだとか、そういうことに興味が無い。それでも、そういうことが気になることもあって、窮屈な思いをする。毎日、ほんの少しでもいいから、何にも囚われない時間を得よう。そしてその時間を少しずつ伸ばしていこう。

何も無く、全ては無なのか、と言えば、それは違う気がする。だって感情があるし、朝焼けは美しいし、言葉や音楽に感動する自分がいるから。本当に、例えば哲学的な思考なんかに嵌まっていたら、無意味極まりなく思えるような、いかにも合成された安っぽい香水の匂いに、妙に懐かしい気分になったりする。昔嗅いだことのある匂いで、そして昔と同じく、僕は憂鬱に不安に生きている。けど憂鬱や不安は、確かに僕で、それは神さまとか宇宙とか、真理とか概念とかには関係が無いと思う。朝露に湿った空気の中で、信号機だけが点滅する。まだ車も通らない、早朝の国道なんかを思って、僕はその信号機の明滅の寂しさ故に生きているような気がする。僕は哲学も好きだけど、やっぱり詩や小説は、それ以上に大切に思っているし、ひとりぼっちで聴く音楽が大好きだ。ヘッドホンの向こう側では、やっぱりニック・ドレイクがひとりぼっちでギターを弾いて歌っていたり、グールドが、時を超えた孤独の中で、ピアノを弾いていたりする。「世界とは何か」「全ては無だ」という言葉は、高尚なようで、実感が伴っていない。

 

10月6日(水)、
痛みや苦しみを表現したくない。現世が十分に辛いところだと、僕は分かってる。恐怖を分かち合いたくない。苦しんだ分、報いを受けるとは思わない。苦しむだけ損だとも思わない。きっと僕には透明な時が来て、世界をまるごと愛せるときが来るだろう。卑屈や、割に合わない不幸を抱えたまま、傷付いたままで、僕は生きていくしかない。普段は、後悔や、羞恥心の中で生きている。けれどそんなこと、どうだってよくなる心境も、僕の中にはある。

 

10月7日(木)、
音楽と一体化したい。

夜、10月に入ってから、気持ちの波が激しく、そわそわしたり、何も心が動かなくなったりして、殆どの時間、疲れを感じる。

 

10月8日(金)、
脳の機能があるとすれば、一番大事なのは情熱だ。いくら計算が速くてもあまり意味が無い。

10月に入ってから、とても疲れていたので、あまりギターを弾いていなかった。時々、妙に感動的になって、ギターを伴奏に歌ったりはしていた。でも、僕は涙が溢れてくるような感動は、あまり好きじゃない。本心から何かを感じるとき、人は感情を表情にする暇も無く、端から見れば寧ろむっつりしているものだからだ。例えば、ドキュメンタリーで、グールドが『ゴルトベルク変奏曲』を弾いている映像を見ると、歴史に残るほど感動的な演奏を繰り広げながら、表情は寧ろ、伝票にサインでも書き入れてでもいるように、実務的なくらいの顔をしていたり、鳥に餌でも撒きながら、少しいいことを思い出しているみたいに、楽観的な鼻歌を歌ったりしている。いずれにしろ、楽しそうではあるけれど、特に深遠そうでも、深刻そうでもないし、感傷とはほど遠い表情だ。『ゴルトベルク変奏曲』を聴きながら号泣している人の姿は想像出来るけれど、グールドは号泣なんて感情はとっくに超えてて、ただ淡々と弾いているみたいだ。それが、人が本当に感動したときの、顔なのだ、と思う。

全てがあるべき場所にちゃんとないと不安だ。しばしばiPodの整理をしていて混乱する。今日は、あまりに入れすぎた曲(20000曲も入ってる)を減らそうと思って、一曲聴いては消して、ってしていたんだけど、その内、消したいのか置いておきたいのか分からなくなってきて、もういっそ一度全部消そうと思った。そして、少数精鋭で聴くのが、一番いい気がする。曲の再生回数を集計してくれるアプリが好きで、もう2年と半年くらい使っていたけれど、一度再生回数を0にリセットするつもりだ。この頃、再び、音楽がとても楽しくなってきたし、今まで聴いてきた音楽よりも、これから聴く音楽に興味がある。集計結果を消してしまうのは勿体ないので、これまで聴いた音楽のランキングを、写真に撮っておいた。僕にしか興味が無いような画像ですけど、上げておきます。もし、何年か経って、まだ生きてたら、見返すのも楽しいだろうから。↓

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……全ての曲を一度消した。ぽつりぽつりとダウンロードしたり、CDから曲を取り入れていこうと思う。

いろいろと考えたいし、人間の中で人間として生きていきたい。それはあまり難しいことじゃない。ただ考え込みすぎると、世界にまるで自分ひとりしかいないように感じられるだけで。

10月に入ってから、疲労感が強く、何もまともなことが出来ない日ばかりが続いている。でも今は、一週間ぶりくらいに、少し目が覚めてきた。頭が働くのは嬉しいこと。明日からは、少しはましに過ごせそうな気がする。