存在すること

理由。 重さが正気にたどり着くとき。
僕は、お金があったら、ポロックよりも、寧ろベーコンの絵を集めたい。
そして、全ての絵をガラス張りにして、暗い、電気の当たる、地下室に並べたい。

僕は、多分ネガティブな要素を原動力にしてしか生きられないのだろう。
自分が嫌いだとか。それも嘘だとか。他人のことは、好き嫌いじゃなく、みんな懐かしい感じがする。とても遠くて。手を繋いでも、僕の手が僕の手じゃないのか、人の手が人の手じゃないのか、うまく分からない。多分前者だと思うけど、僕自身が単に他者であるだけかもしれない。いつか手の感触を思い出すのかもしれない。

いや、やっぱりポロックの絵を集めたい気がする。ポロックもベーコンも、画集で十分な気もする。僕は画集が好きだ。印刷が好き。脳は暗闇の中で、真空の中で、孤独なのだろう。それをうまく忘れたいのだろう。真空の中で、生活を組み立て、それは確かに存在すると感じるけれど、生活よりも本や、絵や、音楽に結び付きを感じるとき、生活内では病気と言われ、生活の外では至って健康でいられる。そして段々生活が恋しくなる。人は伝達する。伝達しなければ何も無い、というのは本当だ。ポロックの絵が無ければ、僕にとってポロックは存在しない。伝達手段は全部借りものだということを忘れてはならない。僕はギターを弾くけれど、もちろんギターは僕が作ったものじゃないし、音楽の原理は人間が作ったものじゃないし、ギター職人は木材を作ったわけではないし、言葉も絵の具も、すべて借りてきたものだ。うまく借りて、孤独に変換して、外に出す。表現をする。何故、そんなことをしなければならないのだろう。光や重力が無ければ、星は星と認識されない。光も重力も発しない星があったとしても、何も無いのと同じだ。すべての空間は『何も無い』で充満している。何らかの現象、質量とか、だけを僕は認識し、「在る」と言う。情報と存在は、僕の中では同一だ。「現実が在る」というのは何の比喩表現だろう? 「脳がプールに浮いている」というのが現実の比喩であるように。

ネットワークの一部になること。それは大きな喜びだ。シナプス一個には何の意味も無いけれど、神経網には意味があって、孤立したシナプスでさえ、何らかの関わり合いで生きている。

何年か前、少なくとも何年か前と思われる昔、友人が「君が『全てがただの映像に見える』と昔言ってて、すごく驚いた」と言ってて、僕はその言葉に驚いた。普通、そんな言葉は流してしまう。あるいは病気だと言う。彼は流さず、病気だとも言わず、ただ何年も覚えていた。そのことで、僕は彼を、とても友人だと思う。

人間は、完璧な自由に耐えられない。僕は耐えられない。自由が無い、にも耐えられない。だから僕は、ギターの「スタンダード」チューニングが決まっていることを煩わしく思うけれど、でもドレミファソラシドには従っていて、チューナーでチューニングを神経質に合わせる。並び替えてるだけだ。並び替えるだけの自由。それが普通で、ある程度普通じゃなければ、やっぱり僕は存在出来ないのだ。ドレミファソラシドに従わず、滅茶苦茶に弾いてたら、ある種の卑怯に思われるか、面食らうか、なかなかだと言われつつ、隔離される。から、という訳じゃない。隔離が怖くて従うのではない。僕は病気が怖いし、ちゃんと滅茶苦茶なのは分かる。気持ちに従って生きている。軸索が、伸びるだけどこまでも伸びていく。DNAさえ失うことは破壊だ。消失はしたいけれど、破壊はしたくない。

消失は嬉しい。脳なんて邪魔なものは無くても現実はあるし、記憶はある。僕は僕が好きだった記憶の強度を高めつつ、それだけの為にでも存在していたい。ギターを破壊するパフォーマンスは汚いと思っていた。けれどそれは木を切ることと違うのか? ギターを作った職人の心を躙ることは破壊にしても質が悪いかもしれない。けれどギターを焼いたり、今すぐ窓から放り投げたりしたい気持ちは、痛いくらい分かる。痛い。それほどの痛い自由と、遺書を書くように生きる強さは分かる。遊び心など知らない。遊びで生きてる訳じゃない。生きることは傷付けることだ。他人を、全てを。自他を破壊しながら生きている。酸素がきちんとあって、呼吸出来るのは今だけのこと。書くことだって無理してて、とても痛いのだ。

泣いたって、分かってくれない。泣いたことだけ分かってくれる。泣いた泣いた、と言われる。病気なんてそんなものだ。病名なんて。泣かない薬をくれるだけ。現実にしがみつこうと努力している。その努力は、価値があるとすれば、価値のあることで、壊れるものを必死に修復している。卵が現実だとして、割れたら何処に行くのだろう? 何処にも行かない。やっぱり生活があって、今度は否定することで生きていく。割れた卵から、殻が産まれる。離別の苦しみがあって、離れたくないから、字を書いたり、音楽が好きな自分を決して手放さない。iPodの中に入った音楽は、いつか誰かが奏でたもので、ロックはやっぱりギターの六本の弦で弾いたのだ。そう思うと嬉しい。それだけは手放さない。信仰している。信仰は存在と同じだ。映像を現実として見るように、僕の好きな人たちは生きていたし、また、生きている。同じことを、何度も何度も書くように、同じ本がずっとあって、書いた誰かは生きていたのだ。書いたことは傷みたいに信じているし、読んだことも傷みたいに覚えている。その傷に滲む血だけが僕だ。

生きることは幸福ではないけど、幸福な存在があることは、それだけで幸福だ。見えることだって、感じることだって。物だって、人だって、ちゃんといる。いくつか好きなら、とても満足して生きられる。


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