日記(怠さの中で)

9月9日(木)、
不安や焦り、それはどこから生まれてくるのだろう? 不安も焦りも不要だ、と理屈では分かっている。でも、考え方でどうにかなる問題じゃない。

この頃やっと、外の世界がちゃんと外に見える。何年もの間、外に行っても、ずっと自分の精神の内側にいて、全てが不安な映像にしか見えなかった。今日は二回目のワクチンを打つために外出したのだけど、驚いたことに、外の景色が鮮やかに見えて、美しいとさえ感じた。けれどそれは何か、地元の美しさとか親しさ、というのとは違って、とても綺麗に印刷されたカタログを見てうっとりするのと似ていた。僕はアウトドア用品や文房具のカタログを見るのが好きだ。ギターの画像を何時間も見ているのも好き。アコースティックギターは見ていて大して面白くないけれど(実物を見て、木目とか、作りの良さとかを見たり、音を鳴らしてみるのは楽しいと思う)、エレキギターはアートとしても最高に美しいと思う。デュシャンがサインした便器(『泉』というタイトルで、何かの企画で20世紀最高の芸術作品に選ばれていた)は要らないけれど、同じくレディメイド(既製品)こそが芸術だと言うのなら、エレキギターこそ、最も美しいと思う。もちろん僕の個人的意見だが。もちろんデュシャンの眼目は、普段誰でも目にしている、例えば便器なんかにも美しさは隠れているので、芸術とは何も崇高な芸術作品を仰ぐことではなく、日常の中で発見出来るもの、つまり見方の問題なのだ、ということだろうと思うけれど。ギターって本当にいろんな個性的な、どれも美しいデザインがあって面白い。音色にももちろんそれぞれのギターで個性があって、その中で僕の好き嫌いがある。ピアノのデザインはどれもこれも似たり寄ったりだし、音色だって、スタインウェイヤマハで、どう違うのか知らない。ベーゼンドルファーのピアノは、マイノリティっぽくて格好いいので、YouTubeiTunesでよく聴いてみていて、大体こんな感じかな、という音のイメージは持っている。エレキギターの画像や、もちろん実物を見たり、小説の描写を読んで、とても美しい、と感じる感じと、スーパーマーケットで色とりどりのぴかぴかしたトマトを見て、美しいな、と思うのと、あまり違わないような気がした。病院で注射を打った帰り、食料品店に行ったけれど、そこはまるできらきらしたカラフルな小惑星や小宇宙のように見えた。ギターの美しさや、一冊の本が小宇宙であるように。トマトも食肉も菜っぱも、ひんやりとディスプレイされていて、見ているだけで美味しいような。ずっと、アレン・ギンズバーグの『カリフォルニアのスーパーマーケット』という詩を思い出していた。その詩を読むのと、スーパーマーケットの中を歩くのと、変わりはない気がした。言葉や音楽は美しい。全てが美しいことの一環として。でも、スーパーマーケットを出るとき、ショッピングカートなどを置く、トイレの出入り口なんかがあるスペースが、冷房の効いた中から急に出てきたのでむっとしていて、自動ドアには蚊が巨大化したような虫が、何となく観念的な感じで止まっていた。駐車場には、アスファルトと踏み石の隙間から草が出て萎れていた。そういう、身体が移動することでの、予測していなかった場面転換が、実際に歩くことにはあって、そういうのを新鮮に感じたのだけど、言葉や音楽にも、場面転換はもちろんある。でも、聞き逃したり、読み飛ばしてしまうことが多い。歩くとそれを否応なしに感じる。そして、一度感じたことを僕の脳は二度と忘れない。もっと本を読みたいな。外国語をやると世界が拡がる、というのは、外国人と話が出来たり、英語の情報が読める、ということだけではなしに、文字通り、本当に世界が拡がるのだと思う。つまり、英語を道具として使える、ということではなく、英語の世界を生きられるから。学ぶことは歩くことと同じなんじゃないだろうか? それを苦行に感じるか、いつも新鮮に楽しく感じられるか。

 

9月10日(金)、
薬の離脱症状なのか、ワクチンのせいなのか、怠さを感じる。自分が苦しいと、誰もが苦しいのだと思えてくる。僕は何もしたくなくて、ただ時間と自分を殺し続けている。しばしば自分に「今すぐ死ねる薬があれば飲むだろうか?」と尋ねてみる。大抵の時は「楽に死ねるなら」と答える。瞬間瞬間の逃れることの出来ない苦痛と稀薄な感情で、今までの僕の歴史は、それでも何故か成り立っていて、何をして生きてきたのか分からない。記憶なんかまるで無いみたいだ。思い出は美化されるなんて、誰が言い始めたのだろう? 病院の薬は、生活と同じで、いろいろ試している内に、何が正解なのか分からなくなってくる。いろいろ薬を換えて、薬が増えて、もしかしたらこんなの、最初から飲まない方がずっといいんじゃないかと思いつつ、病院通いをする前は確かにもっと苦しかった気がして、効いてるのかな、と思ったり、自分がただ馬鹿で鈍感になっただけだと思ったりする。飲むのをやめてみると、焦りで頭がいっぱいになって、首を吊ろうかと思うけれど、遺書くらいは書きたい、とか身辺整理をしてから、という生活的な嫌な観念も湧いてきて、取り敢えずまた薬を飲んでしまう。薬を飲んだからって動きたくはならない。苦痛は鈍くなるけれど、生きている感じも鈍くなる。薬を多量に飲んで眠って、起きると、良くも悪くも空っぽになれるし、死ねるならそれでもいいと思って、とりあえず持っている薬を一度に飲んでしまったりする。薬を一度に多く飲んだり、急に飲むのをやめたりしていると、身体にも頭にも良くないらしいし、依存症にもなりやすいらしいけれど、今現在の苦痛が実際に消えるのなら何だっていいと思ってしまう。

英語の勉強のために聖書を読んでいて、ここに書いてあることをそっくりそのまま信じられたらとても楽だろうな、と思う。信仰によって救われる、というのはある意味本当だと思う。教義が真実だから宗教が存在するのではなく、実際に心を楽にしてくれるから、人はいろんな信仰を持つのだろう。自分ひとりだけ勝手に救われるのなら、別に何を信じても構わない。宗教を信じるのも、哲学や物理学を信じるのも、金を信じるのも、文学や音楽や芸術を信じるのも、熱中すれば快感を得られるという点では同じだし、自分の世界観を規定してくれるところも同じだ。自分には自分の世界があるし、他人には他人の世界があって、それぞれに優劣は無いし、他人に押し付けられるほど大した世界なんて、誰も持っていない。

ギターを弾くのは、いつか役に立つから、とか人前で演奏するまでの練習とか、そんなのじゃなくて今楽しいから弾くのだし、読書も勉強も本当は、別にいつかの未来のために苦しんでするものではない。今勉強すれば、将来役に立つから、ということはよく言われたものだけど、そう言う人たちが全然楽しそうじゃないのはどういうことだろう?

昼前、オイルサーディンにタバスコをかけてもそもそ食べた。オイルサーディンは何種類か食べてみたことがあるけれど、結局一番無難なキングオスカーのを食べている。いわしが油に浸りきって、ジャンクな感じなのが好きだ。ときどき無性にオイルサーディンを食べたくなる。サバの缶詰でも、貝の缶詰でもいけない。あと、イカが食べたくてしょうがないこともある。

怠くて横になっていたら、僕は完全に完璧に間違っているのかもしれない、と急に思う。何がどうとは言えないのだけど。