日記

9月6日(月)(朝)、
日付が替わってからも、身体の怠さと自信の無さが抜けないので、YouTubeで、初めてアリ・アクバル・カーンとラヴィ・シャンカルの演奏を、映像で見た。他にも何人かのサロードシタール奏者の映像を見たけれど、僕にはアリ・アクバル・カーンとラヴィ・シャンカルが格別だと思えた。僕はシタールよりサロードの方が好きだと思っていたし、ラヴィ・シャンカル(シタール奏者)はあまりに有名なので、ほんの少し敬遠していたのだけど、それでも聴いていると、彼の演奏には、深い優しさがあると感じるようになった。それから、旋律や音色がすごく格好いいと思う。ギターで言うところのチョーキングが激しくノイジーでぐっと来るし、乗っているときのラヴィ・シャンカルの音運びは、精神の底の無の境地から止め処なく溢れ出てくる激流のようだ。ジミ・ヘンドリックスのギターを聴いているときにも感じるのだけど、彼らの演奏にはとても迫力があるので、精神が高揚しそうなものなのに、轟音の奔流の中で、何故か僕は深い静けさや安らぎを感じる。多くのロックミュージシャンがラヴィ・シャンカルに強く惹かれた理由がよく分かる気がする。僕はアリ・アクバル・カーンとラヴィ・シャンカルが同じくらい好きだ。

僕はインドの音楽に、非日常的なエキゾチック性は感じない。スピリチュアルな体験も、ヒーリングミュージックとしてのインド音楽も求めていない。ロックを聴くのと同じ感覚だ。昔の、琵琶とか笙とかの、いわゆる邦楽の方が、僕にはずっと縁遠い。いつからインド音楽に惹かれ始めたのかも、何故惹かれたのかも、もううまく思い出せないのだけど、……日記を遡って読んでみたら、そう言えば、僕は音楽がまともに聴けなかった間、今まで聴いたことのなかった音楽なら聴けるかと考えて、いろんな国の民族音楽を聴いてみたことがあった。iTunesでは様々な国々の古典音楽や民族音楽をダウンロードすることが出来て、もちろん日本の平安朝の音楽もあるし、中国の古代の王朝音楽だってある。バリ島の音楽だとか、アフリカの打楽器だけの音楽とか、いろいろ聴いた。今まで主に聴いてきたロックとは、楽器もリズムも違う音楽ばかりなので、あまり馴染むことは出来なかったけれど、聴いていて心地よさを感じる音楽は多かった。でも心地いいとしか思わなかった音楽はすぐに忘れてしまって、その中でインド音楽だけが、しっかりと僕の脳の中の音楽回路に結びついてしまった感じだ。僕の音楽回路は基本、ロックで出来ていて、僕は何を聴いてもロック的に解釈してしまう傾向にあると思う。クラシックも好きだし、ジャズも好きだけど、それはロックの回路に、後から接ぎ木した感じだ。接ぎ木は接ぎ木で、大木になり、親元を離れても生き、やがて独立した山林を形成するだろう。インド音楽は今のところ僕にとって「格好いいロックだなあ」という感じで、例えばどのインド音楽が好きかとか、インド音楽をうまく批評する言葉は持っていない。まだ接ぎ木されて間もない若葉なのだ。生き生きとしてはいるけれど、若葉の上を逍遙することは出来ず、奇麗だなあと思ったりする程度で、けれどその若葉は、僕の神経回路に、とてもうまく馴染んでいて、異和感が無い。いい音楽は、ただあるというだけで、その音楽だけじゃなくて、全ての音楽を好きだと思わせてくれる。インド音楽に浸っていると、耳がフラットになって、他のどんな音楽も、偏見抜きで最初から聴き直せる気がする。シタールサロードは、ギターやピアノと同じく、とても完成された楽器だと思う。その音色には汎用性は多分無くて、何を弾いてもインドっぽくなるけれど、インド音楽は、喜びも、悲しみも、あらゆる感情を奏でることの出来る、素晴らしい音楽だと思う。インド音楽には、僕はまだ全然詳しくないけれど、ロックと違って、シタールサロードでは、多分怒りだけは表現出来ないと思う。怒りの表現も嫌いではないけれど、怒っている音楽は僕はそれほど聴かないので、時には、インド音楽さえあれば音楽はそれでいいのではないかと錯覚してしまうこともある。ロックやクラシックに集中している時にも、同じような錯覚に陥ることがあるのだけど。

 

9月6日(月)(昼)、
昼前、憂鬱でどうにもならないので、6日分の薬を一気に、何の気なしに飲んでしまった。僕にはアル中の才能は無いけれど、ヤク中の才能は多分ある。身体が壊れることを何とも思ってないし、頭がいかれるならいかれるで、それは明日の話だからだ。相変わらずグールドを聴いている。インド音楽からは、まだ僕は、奏者の個人性までは感じ取れない。ピアノは、少なくともシタールサロードよりは、慣れ親しんだ楽器だから、ピアノが語りかけてくる何かを、多少、聴き取れる気がする。何も語ってなくても、というかもっと正確に言うと、僕が奏者の感情を聴き取れないとしても、なおかつ曲も演奏も素晴らしい、という場合もある。そういう演奏の方が、僕にとってはとても多い。音楽の世界だけに限っても、僕に分かるのは、ほんのほんの一部だ。何かが聴き取れるまで、何度でも聴き込みたい音楽もあるし、そうでない音楽もある。僕が、最終的に興味があるのは、個人の心だ。興味がある、というか、そこにしか意味が無いような気さえしていて、最近はまるで教養でも身に付けるみたいに、いろんなジャンルのいろんなアルバムをiTunesで漁っては聴いてみているけれど、本当は僕には、グールドとニック・ドレイクがいれば、それでいいとさえ思うことが多い。死のうと思ったとき、手首にカミソリを差し入れながら、グールドを流していたのは素晴らしかったし、別のときには車の排ガスがゆっくり脳を犯していくのを感じながら、ニック・ドレイクを聴いていた。そのまま死んでおかなくて良かったのだろうか、と時々思う。……薬をたくさん飲むと、時間の経過と苦痛の間には関連が無いのが分かる。時間は、ただ過ぎるだけだ。ただ過ぎていくこと自体は、いいことでも悪いことでもないけれど、多分、本来は心地いいことだと思う。重いものをずっと持ってるから疲れるだけのことで、その重いものとは、多分未来の観念だ。「残り時間」を意識するから、時間の経過を、時間の経過のままに楽しめない。
結局のところ、今やるべきことと、したいことをするだけだ。今したいことを後回しにしていても、いつになっても「今」は来ない。ところで眠くなる前に今、僕がしたくなったことは、ギターを弾くことと歌うこと。そうして本を、息継ぎするように読みたくなった。眠る前に一行でもいいから。僕は、まだ書けない。硬化した言葉の滓が、脳内の言語野の表面をびっしり覆い尽くしているからだ。読書をすれば、その分厚く硬化しつつある言語野が、綺麗に洗い流されて、それからそこに無限の街のようなネットワークが構築されて、僕は言葉の中でとても自由になれる気がする。自由に、泳ぐように、踊るように書けるようになるかも、という期待がある。英語とフランス語にも、多分夢中になれると思うんだ。鬱や不安が不意に僕を支配せぬ限り。あやふやな人間にはなりたくない。僕は僕でいたい。惨めかも知れなくて、碌な思い出も持っていない自分の、そのままの延長として、生きていたい。惨めに感じて、後悔ばかりしてきた過去だけが、僕を僕たらしめているし、それだけが僕の財産だ。僕は僕自身の感情で生きたいし、感じたいし、考えではなく感情を伝えたい。そうして、そのためには、僕にとっての言葉を総ざらいして、カラフルな水のような柔軟性を伴う、とても自由なものに更新していくことが必要だと思っている。考え方や世界観の自由は、言葉の自由さと密接に関係していると思うし、不自由な言葉は、僕を窮屈にして、ほとんど身動き取れなくしてしまう。言葉が硬化していると、世界は狭くなり、自由などあり得ないような気になってくる。僕は人の意見ではなく、人の心に出会いたい。それは原理的には不可能なので、だから多分僕はロマンチストなのだろうと思う。完璧な交流をずっと夢見てる。みんなで、同じ空間の中で熱狂すれば繋がれる、なんていう安易な馴れ合いみたいなものじゃなくて、もっと静かな、影のような繋がり。いつか、誰かと、お互いの静かな表情の中に、「生きていること」の、その温度の共時性を、瞬時、確かめ合えるんじゃないか、という、夢見がちなことをずっと思ってる。その瞬間だけを、永遠に求めているのかもしれない。その誰かは、もういない、もしかしたら最初からいない誰かかもしれない。存在しない誰かを、僕はずっと求め続けているのかもしれない。
僕は、僕のスタンスが決まりつつある。そしてそのスタンスは、僕を融通の利かない人間にしようとしている。それからそれは同時に、完璧な自由を、僕にもたらしてくれようとしている。少なくとも、そう思っているし、そう願っている。

 

9月7日(火)、
気分的に余裕が出来ても、晩ご飯が近付くと心拍数が上がる。両親と一緒に食べる夕食は緊張するし、多分、ひとりだったら絶対に飲まないビールを飲んでしまって、酔うと、食べている間は寛いだ気分になっても、その後、酔いが醒めてくるまでの気分が良くない。

月・水・金は、父の帰りが遅く、大体夜の10時過ぎくらいになるので、僕は大抵、それまでに夕食を済ませて部屋に引き籠もる。お酒は飲まない。火曜日は大体、ステーキなので、冷たいビールがとても魅力的でもある。父は赤ワインを飲んでいる。今はこの家には3人しかいないので、多少の贅沢が出来て、肉も大きくて(ひとり分で400g以上あるときもある)いいのを買ってくる。国産の肉が多い。確かに美味しいので、もりもり食べて、ビールをどんどん飲んでしまう。おまけに今は、弟が海外のビールの詰め合わせを僕にまた贈ってきてくれているので、日本には無いいろんな味を楽しむことも出来る。困ってるのか困ってないのか分からない文章みたいだけど、実際のところは、僕はカロリーメイトがあって、それを部屋でひとりでもそもそ食べていられる方が満足だ。

……やっぱり夕食時にはビールを飲んでしまった。食べ終わったら寝るつもりでがぶがぶ飲んだけど、あまり眠たくならない。

 

9月8日(水)、
僕の場所にはいつも本と音楽があって欲しい。

さユりの新曲(『世界の秘密』)を聴いてる。

それでも僕は生きていこうとする。僕は、十分に死ねないから。単純な物語として終わらせるには、自分の人生があまりに入り組んだものになってしまったから。生きていくためのルールが矛盾を産んで、身動きが取れなくなっていく。現実と自分がずれるのが恐い。今、見えている現実と、自分に接点が無くなりそうな恐怖に、ときどき襲われる。

初心に戻って、書くことの楽しさを取り戻すために、ここ数日、ノートや原稿用紙に万年筆で文章や詩を書いている。多和田葉子さんが原稿用紙に鉛筆で書いたという本(『言葉と歩く日記』)が非常に面白かったのと、最近、たしか村上春樹が、やはり原稿用紙に万年筆で詩を書いている、というのをどこかで読んで、それを真似してみよう、と思ったのも理由のひとつ。ペンで書こうと思うと、いつもと全然勝手が違って、言葉が全然出てこないのだけど、言葉を探しているときの、頭の中がぐるぐるする感じが気持ちいい。脳全体が精一杯動いて、次の言葉を探している、という気がして、実際、一時間も原稿用紙に向かっていると、みっちりストレッチでもしていたかのように、身体が熱くなってくるし、疲れと空腹を覚える。パソコンで書くときは、随分と省エネルギーモードになっていて、書くというよりも、慣れた言葉を並べて、それで書いた気になっている、ということが多かったのではないか、と思う。

今日はギターを6時間くらい弾いた。自分が弾くギターの音が心地よくてならない、と感じたのは、かなり久しぶりのことだ。長い間、毎日一回はギターに触っていたと思うのだけど、ぼんやりした手でギターを手に取っても、少し弾いたところで、自分の音に気持ち悪くなって、すぐにやめてしまう、ということばかりだった。ギターの音には、弾くときの気持ちや、心身の調子が如実に反映される。今日、自分で弾くギターの音が、美味しいくらいに気持ちよかったのは、薬が抜けているせいもあるかもしれない。この間、6日分の薬をまとめて飲んだので、今は薬が無い状態だ。相当な苦しみが襲ってくるかと思ったら、確かに神経が張り詰めているような感じはあっても、自分の意識がしっかりと目覚めている、と感じる時間が増えた。とは言っても、薬があったら、またすぐに飲んでしまうのだろう、と思う。張り詰めた感じは、音楽を聴いたり、ギターを弾いたりすると和らぐし、音楽に全身で集中できる感じがある。けれど、簡単に自殺出来てしまいそうな、ギターを弾き終えたら首でも吊ろうかな、と軽く考えてしまうような、諦観みたいなものが出てきて、その諦観が少し恐いし、まだ死にたくない気持ちもある。薬を飲んで、おっとりとした気持ちの中で、しかも読書や勉強や音楽に集中できたらいいのに。薬との付き合い方は難しい。

ギターは、母からたくさんお金を借りて買ったので、それはきちんと返したいなと思う。