メモ(水槽のように)

僕が僕だという感じがしない。小説を集中して読んだ後などには、しょっちゅうそう感じる。詩は僕の心を鮮明にする。特に18歳のときから、連続して生きている僕の感触を明確にする。その頃のまま、僕には何ひとつ変わらない部分があって、その部分だけが、この宇宙の果てまでも、永遠に変わらない気がする。

涼しい顔して「楽しいね」って言い合って、趣味でギターを弾いて生きていけたらどんなにいいだろう? 誰だってギターは弾ける。本について楽しく会話することも出来るし、音楽について、その風景や色合いや気持ちよさについて、感想を言い合うことも出来る。でも本や音楽は、本当の話し相手がひとりもいない人の為にある気がする。そしてそれは多分、みんなそうなんだと思う。多分全ての人がどうしようもなく「自分」だ。他人になったことがないから、他人が本当に孤独なのかは、分からないけれど。

生ぬるく息をすることを生きることだと勘違いしていた。長年僕は、死にたいことしか考えられずにいて、呼吸することは苦痛を引き延ばすことに過ぎなかった。鬱が治り始めて、あ、少し楽しいな、と思うと、自分が敬虔な、満ち足りた、自分が一番忌避していたタイプの人間に、自分がどんどん近付いているような気がして、家族と段々気まずくならずに話せるようになってきつつある自分が、どんどん、今までより寧ろずっと、死に損ないでしかないような気がしてくる。鬱がひどい間は、自分自身が好きとか嫌いとか、考える暇もなかった。苦痛からの解放があれば、薬でも死でも思想でも、何にでも縋り付きたいと思っていた。変な言葉かもしれないけれど、僕は鬱にならなければ、もっとずっと早く死んでいた気がする。

いつしか僕はいなくなり、僕の好きな世界は消える。でも、僕の中の懐かしい記憶は、地球でも宇宙でもない何処かに残り続けるような気がする。時間なんて関係無く。未来も過去も無い何処かに。鬱状態でいつもお腹の中に空洞が開いたような感じが収まってくると、身体が心地よく怠くなるような懐かしさをよく感じる。嗅覚が戻ってきたからかも知れない。嗅覚と感情はリンクしていて、感情が稀薄だと、においをあまり感じなくなるらしい。とても懐かしいと、とても死にたくなる。懐かしさを忘れてしまったら、僕には何にも残らない気がする。ただ滅び行く生活と、両親や、たまに合う友人や何人かの知人への愛想笑いしか、生きている僕には残らなくて、死んだら僕は物質的な、ただのゴミにしかならない気がする。僕自身が、僕の生きてきた記憶を確かに持ち続けている間だけ、僕は僕として生きられるし、また、僕は僕として死ねる気がする。

誰もかも他人だ。僕もまた他人にとっての他人。甘い、ペパーミント・キャンディの部屋。何処に行っても景色があるんじゃなくて、景色を見ている僕がいるだけだ。何かを見ていても、見えている、という感覚が、昔からずっと稀薄だ。活字や音楽の方が、感情にダイレクトに繋がっているので、外の世界よりもずっと確かに存在しているような気がする。孤独は悲しいけれど、孤独なときだけ、僕は僕の実在を感じる。本はひとりきりでしか読めないし、音楽もまた個人的にしか聴けない。集団的に感じられるものなんて、この世には無い。

きっかり十年間、他人が怖かった。他人のことばかり気にしていた。でも、十年経って、僕はまた、他人が分からなくなった。だってここには僕がいるだけ。他人の思惑も、僕は見たことが無い。僕にとっての正確を期して言えば、十年間、僕は僕にとっての他人だった。僕は僕じゃ無かった。自分を失っていた。自分が何を好きなのか、何を本当に感じているのか、全然分からなかった。「僕」という存在はこの世にいなかった。ここにいたのは他人だった。人生は自由に選べるチョコレートアソートじゃない。人生はペパーミント・キャンディ。選びようがない。舐め尽くせばそれで終わり。後は棒きれが残るだけ。でも、その甘さには、ほんの少しのミントの香りがあって、少しの死の味と、小さな小さな永遠の甘さがある。自分自身の人生を味わい続けることに飽きて(何故なら人生には意味が無いから)、普遍性とか、生きる意味を探すことに熱心になると、人生からは感傷も感情も、甘さも永遠も失われてしまう。人生に飽きないこと。出来れば、個人としての自分の世界に没頭すること。自分自身であり続けること。どんなに醜い感情を所有していても、他者と比較して、自分がどんなに劣っていても。醜く、劣った自分から逃げないこと。自己嫌悪すればいいのだと思う。何もかもを受け入れるよりは、自分がとても嫌いで、その分、とても好きな何かがある方がいいと思う。

今の僕が好むのは物語だ。人間の物語。宇宙なんて物語と比較すれば、どうだっていい。概念がいくら光り輝くものであったとしても、概念より命が知りたい。世界の真理を絶望的に求めるよりも、笑って死ねる方がずっといい。でも、尚もやっぱり真理を知りたい。おそらく奇跡的に、もしかしたら必然的に産まれてきたのに、本当のことを知らないで死ねる訳がない。産まれたからには最高に幸せでありたい。自分自身でありたい。そして、知りたい。何もかもを知りたい。全てを知りたい。自分の全細胞と血と骨と指と、脳と魂と身体を賭して、生きていたい。100%の自分として、生きて、死にたい。僕は僕の脳と、僕の部屋、僕の道具、僕の身体を整えている。完璧な、100%の僕になるために。

私たちは眼を、次の眼に託すけれど、
宇宙には孤独な、旅をする、ひとつの眼があるだけ。

グレン・グールドを聴いていると、30cmの高さの椅子に座りたくなる。

眠って見る夢よりずっと、尖った針の先で描いたような、硬質な現実の中で見る、覚めた夢が好きだ。例えばそれは読書で得られる。音楽で得られるし、書くことで得られる。ギターやピアノを弾いたり歌ったりすることでも得られる。部屋は整然としているのがいい。それぞれの家具や本や、ギターやピアノや美しい物たちが、お互いにこんがらがった関係性無しに仲良くなって、部屋全体がしんとした礼儀正しい沈黙に満ちているのがいい。

ずっと、ずっとずっと深いところに行きたい。僕自身の中にある、そして多分僕自身を超えた、海の底まで。