知りたいこと、感じたいこと

僕の意識は自分自身を傷付けるし、苦しいし、恥ずかしいし、何より混乱して、人をも傷付ける。気付くと訳が分からなくなって、壁の染みを静かにずっと撫でていたりする。生きている。僕は人に好かれようと本気で努力して、あまり好かれもせず、嫌われもしない存在になったと思う。
本当は、美しいことなど、あまり分からない。感動もあまりしない。冷めているかというと、そうでもないと思う。古い日本的な渋い色はあまり分からない。鮮烈な色が好きだ。それともいっそモノクロが。極彩色は嫌いで、けれど極彩色を美しいと思う人もいるわけだから、美しさなんて個人個人の好きずきに過ぎない。僕にとって、この世界は意味も価値もない世界だ。何を纏ったって、何を持っていたって、僕はただの僕だ。人に好かれたいというか、好きになりたいというか、誰とでも仲良くしたい。それは多分不可能なんだと、今まで長く生きてきて気付いたけれど。圧縮される石綿のように胸がぐーっとする感じが好きだ。僕は結局のところ感傷でしか書けないのではないかと思う。多分それでもある程度は書ける。絵も少しは描ける。僕の指先は、進みたい方向を知っている。
けれど、感傷ではギターは弾けない。僕はずっと楽器を弾くことに憧れていて、今はギターが大好きだけれど、最初は単に安いからギターを選んだに過ぎなかった。本当はヴァイオリンか、それ以上にチェロを弾きたかった。ギターを買ってから、始めてギターの音を意識的に聴くようになって、ジョン・レノンルー・リードのギターの格好よさに気付いたし、ジミ・ヘンドリックスのすごさも分かってきたし(それまでは煙たい騒音だった)、何より17歳の夏にホワイト・ストライプスを始めて聴いて、ジャック・ホワイトのギターが血のように美しくて、エレキギターが決定的に好きになった。それから18歳の冬にニック・ドレイクを聴いて、アコースティックギター一本で、もう何もかも十分じゃないかと思った。
歌もまた感情だけでは歌えない。声が良くないと。僕の声は多分悪声なので、自分の声を憎んでいて、変声期以降、キーの高い歌が全く歌えないことにも悩み続けていた。尿を飲むと高い声が出るようになると書いている記事を読んで、今だったら絶対にしないけど、何杯か自分の尿を飲んで、それは今までで世界最高に不味くて吐き気のするものだったけれど、そんなことでも易々と出来るくらい、僕は美しい声で歌いたいと思っていた。僕の声は低い。煙草とお酒のせいか、この頃さらに声の艶っぽさも無くなってきて、ダミ声だ。唯一の救いは、僕がこの世で最も好きなバンドであるヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌は歌えることだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いていると、声の高低なんて、歌の良さには全く関係無いんだ、と思える。

僕が僕でしかないことや、現実が存在することは、本当に不思議だ。けれどそんなこと本当にどうでもよくなるときがあって、ただただ生きていて好きなものに惹かれて、そして誰かの為になりたいという、殆ど切迫した気持ちになるときがある。真理なんてどうでもよくなる。僕の中には2つの核がある。真実を知りたいという核と、人間が好きという核。その二つが行ったり来たりする。その二つは矛盾している? 後者は多分感傷と呼び得ると思う。僕はミュージシャンの中ではニック・ドレイクが一番好きだけど、その理由は感傷的でもあるし、そこに真実が含まれていることも感じるからだと思う。「好き」という気持ち自体はとても感傷的だ。知識に於いて「好き」は存在しない。感傷と真理が入り交じると、より高い、あるいはより深い何かが表れると思ってる。例えば知恵や知識で詩は書けると思うけれど、多分それだけではいい詩にはならない。小説は普通、その大部分が人間への愛情によって書かれているけれど、同時に何にも考え無しでは書けない。ただただ俗っぽくなるばかりだと思う。「高く悟りて俗に帰るべし」という松尾芭蕉の言葉がとても好きだ。悟りきって、悟りに留まるだけの人には小説は書けないし、悟りに留まる人にとっては、小説はまるで不要だ。中原中也の詩も、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、多和田葉子さんも、村上春樹も、悟っていながら人間が好きな人、という感じがする。

何も気にならない、常識的な価値観に悩まない境地に行きたい。真っ白に晒された布みたいに。