小さい散文集

2021/07/16

 永遠の指先。私は机の上の片付けが好きです。要らない物はじゃんじゃん捨てますが、誰が見ても要らない物(例えば20年間溜め続けたタバスコの瓶など)を、後生大事に、四角く、律儀な、まるで経つ時を干した洗濯物のように並べたりします。時は白く、時と場所が重なると色が見える。社会は厚みのある比喩の固まりです。部屋や書架もよく片付けます。''Everything in its right place.''夢よりも、覚めて見る夢が好きです。フロイトを信じません。夢はスュールではありませんか? スュールは現実の、決して訪れない廃墟ではありませんか? それに比べて、読書は毎朝6時ぴったりに鳴く鶏のように誠実です。読書家の細胞にとっての午前6時。全てが一点の曇りも無い光に包まれ、道路は薔薇色に、意識の中の跳躍台は、湿気を程よく吸って、私の踵も、膝も、足首も、もちろん指の関節も、みんながみんな、嬉しい時間。苦くて渋くて透明で、間違いなく空の高い場所で、静かな静かなハリケーンを起こす、麻薬の効能。ぴかぴかの注射器。
 書架は私の海です。美しい瞬間が、黒に見えるほどのカラフルさで、混じり合い、波打っています。……さてと、私は桃のシャーベットを食べるのです。いつかは書庫を持つのが夢です。シナプスを持ち出すまでもなく、心を持ち出すまでもなく、海の中には湖上もあって、湖上の上には森もあります。そこに船を浮かべ、孤独に、冷たくさすらうのが仕事であるなら、私はその仕事を完遂出来るでしょう(か?)。海へもたまにはおいでください。そこでは空気も冷たいし、何より苺のように比喩的な無季が大きく、果てしなく続いています。では、さようなら。いつか私を読んでください。


2021/07/17

 ところで私は読書が好きです。活字のための胃袋が他に用意されているように、見えない血管は常に活字の欠乏に、泥めいて、あるいはこそこそと透明に良くない色をしています。英語やフランス語をむしゃむしゃと読みます。ペーパーバックがジャンキーで好きです。それは乾いたパセリのよう。渋い山草のハーブティーのよう。日本語にはまた違う、熱烈なものがある。三カ国語くらいがちょうどいいと思うのですがどうでしょう? 食膳を三角形に食べるのは良いこととされています。一日に三食、別々の、時に多国籍なものを、私たちは食べます。言葉だけは日本語だけを吸って、吐くようにして、それだけでいくら呼吸を続けても、変化(色合いの化学変化のようなもの)は起こらないのではないでしょうか? 実際、本を読まないと、私たちは言葉の便秘に罹るのです。読んで、常に新鮮な清い風を、お腹の脳の、言葉の溜まり場に通してやらなくては、古い言葉は腐臭を放ちます。良いにおいとは言えません。読むことで得られる良い発酵や発光や、美しく透明な言葉の蒸溜は、読書の多様さと共に、身体全体を通して、全ての細胞の美味しい体液を通して進行と熟成を重ねた後、やっと得られる。それは私たちの快感の結晶にして、絶頂にして、私たちを宇宙の果てまで、何処までも拡げる、行間の光や海のカプセルなのです。とても苦くて、渋く、また眼にも心にも映らないくらい、あまりにも透明な。読書とは薬です。ただこれは私という読書好きの戯言と、おばあさんが川で拾わなかった大きな桃のように、無視してくれてもいい。ナルシシスティックな記述として読み流して頂いても、全然構わない。でも桃を拾うと、大抵幸福ですよ?、と私は微笑する/微笑したい。その微笑が詩なのだとしたら、ひとりの詩人としての私は、垂直時間と水平時間の上空に曖昧に浮かぶ、ただの言語麻薬患者なのかもしれません。でも、間違いなく、そこは美しい。どうか、私の輪郭をなぞって(見て)ください。


2021/07/18

 美しい気分は好きですか? 私は好きです。この惑星は訳もなく明るくて、美しい瞬間に満ちています。シナプスではなく全身の皮膚が冷たく発火する。例えばそれは夢が滴に溶ける場所。あなたは一輪の花をどう見ますか? こんな簡単な問題が哲学の、いろいろな世界の見方の枝分かれの根底にあるなんて私はこの間まで知らなかった。私に言わせればこうです。それぞれの色はそれぞれの全てを内包していて、それは私たちに幾つもの美しい論理を提供する端緒に過ぎないのだと。それぞれは無限に膨らみ、無限に萎む。その無限の段階の内に、彼らは私たちに無限の視点を提供する。生命があるからです。そこにあるのが夢だとは言わないし、また紛れもない現実だとも言わない。真実は私たちに無限の視点を提供するものです。それは打ってみるまでは分からない麻薬の成分のようなもの。でも紛れもなく、私たちに物質としての確かさ、物語としての、綿のようなやわらかさを約束してくれるもの。でも物質とは「触れる」というそれだけのものでもないのです。それは殆ど「書ける」「読める」ということしか、私にとっては意味しない。そしてそれらは私たちの障壁となるべきものではなく、撫でることの愛しさを指先、爪先、肺胞に刻み込んでくれる。心? そんなものを持ち出す必要も無い。ただ綺麗であること。それだけで全てなのだ。それだけで世界の全ては確立している。英語、オレンジ色、ブラック・サバス、そう言うものが、今の私には気に入ります。花火は脳の中では燃えない。それはシリアやボストンや日本の片田舎、夜の全ての場所を震わせています。その色と光によって。線路脇に座っていると時を忘れ、電車の軋音と共に、現実はいつの間にか時間通りに、私たちの現在を四角く、とても平坦に切り取ります。花を見るとはその、線路脇の茫洋やたゆたいや忘我なのではないでしょうか? そして「花をどう見るか」と問うときにはもう、私たちは電車のごとごとという、つまりは人間的お約束事の中にいるのです。何処にも進めはしない。哲学の枯れた木の枯れ枝を噛んでいるような後味。フランス語、音楽、コンピューター、ギターの音にソニック・ユース。そういうものが、私の魂の忘れもののように、私の胸にはとても気に入るのです。