雑記


私にとって、幸せはどこに行ってしまったのだろう? 好きか嫌いか、人生は本当、それだけなんだよ。なのに何故かそれだけでは済まなくて、人生はすぐ複雑に、重苦しくなる。自責の念、自己嫌悪、恥ずかしい思い出、人を傷付けてしまったこと。

安心出来る時間、安心出来る場所が、ほんの少しでもあれば、今出来ることを、ひとつずつ終わらせていくことに、最大限の満足を得られるのに。環境を責めても意味が無い、って分かってる。でも、もしこの家を出ることが出来れば、おそらく私には完全な安息が訪れるだろうと思う。

本来、人は幸せに生きられるように出来ていると思う。産まれ付き不幸な人は、いないと思う。幸福な人は、もっと幸福になる。不幸な人は、もっと不幸になる。何故か世界はそうなっているみたいだ。

深い安らぎを感じられる場所が、ひとつあればいい。誰にだって、ホームポジションがひとつあるべきだ。それは書斎だったり、スタジオだったり、ジムだったりする。そこにいれば自分が自分らしくいられる、何の煩いも感じずにいられる、懐かしくていつも新しい場所。僕にとって、この家は、僕のホームじゃない。自分の部屋にいたって、社会的義務感を背負っているみたいで、社会不適合者の烙印を、背中に押しつけられているみたいで、生きているだけで疲れるし、とても不安だ。

お金を使うことも、薬を飲むことも、僕の本意じゃない。ただ僕は、今、今の僕自身でいたい。それだけでいい。親と一緒に食べる夕食が、どんなに僕を重苦しくさせるか、多分両親は知らない。僕は角砂糖だけを食べていれば、本当にそれでいいのだ。あとはコーラとコーヒーくらいがあればいい。煙草もさして要らない。僕は、両親との生活に怯えている。落ち着ける瞬間がひとときも無い。

僕は無理をしていると思う。無理してかなり躁っぽくなったときもあった。でもその間も、緊張して緊張して、血圧がすごく高くて、素直な言動なんて少しも出来なかった。楽に楽しく生きていられたのは、大学生のとき、一人暮らしをしていたときだけだ。ずっと、いつも緊張ではらはらしている。親の前で、僕は本当に申し訳ない。自信も無い。

物を極力減らして、引っ越したい。お金さえあれば。このままでは僕は駄目になってしまう。僕は本当の幸せを知っている。本当の安息を知っている。だから、今そこに行けないことに絶望感を、いつも多かれ少なかれ感じている。

ここが仮の住まいだと思えば、少しは楽になるかもしれない。

何処にでも物語はある。例えば朝の光の中で鳴く鳥の声。物語だって詩だってあるんだ。意識を深く保てばいい。……それが難しいのだけど。意識には、いろんなあり方がある。僕はずっと、浅い場所で生きている。もちろん意識の深浅というのは、比喩表現に過ぎない。実際に、目に見えるような浅さ、深さは無い。



全ては本当は無いのだという。でもそれは例えば彼が「いない」という否定形があるのではない。全てに理由があるのか? 理由は無い。悩み、不安、恐怖。意識は抑えきれない衝動を作り出す。緊張感を作り出す。人々が情報に過ぎないとしても、人前に出ると思うだけで、お腹を壊してげっそりしてしまう僕は確かにいる。

寒くなってきたので、クーラーは切った。扇風機とエイフェックス・ツインは相変わらず鳴っている。一度発生した音は、一体何処に行ってしまうのだろう? それは一瞬の持続に過ぎないのだろうか?

僕は全てを完璧に整えたい。本棚をぴかぴかに美しくして、服装は必要最低限に、パソコンは、この頃はノートパソコンをディスプレイに繋いで、デスクトップと同じように使っているのだけど、古いパソコンで、動作が遅く、バグが起こることもあるので、タワー型のデスクトップパソコンが欲しい。とても安いので構わないので。本当はiMacが欲しいのだけど、高くてちょっと手が出ない。ノートパソコンはmouseの軽量薄型のパソコンがとても気に入っているけれど、本当のところはMacBook Proが欲しい。べらぼうに高い値段だけれど。

僕にはコレクター気質があると思う。集めるのも悪くない。タバスコの瓶を十数年集め続けている。もう60本はあるのだけど、1年で数本のペースなので、特にタバスコが大好き、という訳ではないと思う。好きだけれど。

眼鏡は間に合わせの3千円の眼鏡を、もう1年と半年以上使い続けているのだけど、本当はすぐにタートオプティカルかオリバーゴールドスミスの眼鏡を買うつもりでいた。今は、白山眼鏡店のWinstonという、晩年のジョン・レノンが付けていたモデルの眼鏡が欲しい。この頃セルロイド眼鏡が好きだ。ジョン・レノンと言えば丸眼鏡のイメージが相当強いけれど。Winstonというのは、ジョン・レノンのミドルネームだ。ジョン・ウィンストン・レノン、がフルネーム。単に、ジョンが付けていたから、というだけではなくて、非常にシックで格好いいと思う。僕に似合うかは分からないのだけど。ただやはりちょっと高いので、もう少しお金に余裕が出来て買おうと思う。

アルバムをマッシブ・アタックに替える。



いつも、自分が何らかの思い込みに嵌まり込んでいる、という感触はある。強い思い込み。それはあるとき、カシャンと取れてしまいそうな気もする。

迷い。何で、迷いなんてものがあるのだろう?

世界(宇宙)の中に私がいて、私の中に脳があって、脳が世界に適応しようとあくせくしている。そういう構図は正しいのだろうか?

何でも、少し遠くから見れば、価値なんて無いし、自分にとって脅威でも何でもない。脳は孤立しようとし、そして世界と分離して、世界と敵対しようとする。でも少し脳を休ませてあげれば、自分と敵対するもの、自分を脅かすものなんて何にも無い、と気付く。

一様に精神には深いところがある。

触れられるから存在する? その根拠は?

ポップな色彩感。それを絶対に忘れてはならない。血の滲むような、痛みの感覚。今、僕の中に血が流れていること。運命的な、現在の、世界の(宇宙の)拡がり。人と人との間の、自然な距離。会話の中で縮まったり拡がったりする人との距離。美しさは、現在にある。現在、今生きている僕の中にあり、今生きている世界にある。抽象的な永遠には、血が流れていない。永遠は、それはもちろん大事だ。けれど、永遠の中に、人の魂は生きられない。

今、僕は、自分の体重を60kgに保っていたい。昔、僕は、太っていたいと思っていた。痩せていることが長年のコンプレックスだったし、痩せていると、疲れやすいからだ。一時期、おそらくジプレキサの影響で体重が70kg以上もあったとき、身体が大きくなると、心も大きくなって、とても気持ち良かった。今、一度60kgに体重を減らしたいと思っているのは、身体に贅肉が付いているのが嫌になったからだ。……まず、体重計を買わねばならない。タニタのいい体重計がAmazonにあったので、買おうかと思っている。体脂肪率などいろいろ測れる体重計は煩雑なので要らない。体重だけを量れるシンプルな体重計が欲しい。本当は、経験的に、僕の適正体重は、63kgか64kgくらいだと知っている。それくらいの体重の時が一番疲れないからだ。一回、55kgまで減らしてみるのもいいかもしれない。太っているのが嫌になったのだ。今僕は多分66kgくらいだけれど、筋肉は多分あまり付いていないので、要らない肉ばかりだ。一度、痩せすぎなくらい、体重を減らしてみたいと思う。

自殺願望があまり無いときは、長生きしたいと思う。祖父が口癖のように、わしは九十まで生きる、と言っていた。83歳でころりと死んでしまったけれど。やっぱり90歳まで生きれば、それなりの感慨は生まれるものだろうか? 90歳になっても、重たいギターを、立って弾けたらいいな。どうせ生きるなら、死ぬまでタフでいたい。性欲の衰えを気にする人が多いのか知らないけど、僕は性欲なんてさして要らない。世の中にはセックスなんかより余程楽しいことがいっぱいあるのに、何ゆえに勃起不全とかを気にするのか、僕にはよく分からない。セックスもオナニーも儚いドラッグだ。

僕は本来、滅茶苦茶な人間なのではないかと思う。薬を飲んで、ただ憂鬱な大人しい、処しやすい人間になっている。薬を飲まないと苦しい。薬を飲んでいると自分が自分らしくない。もちろん、薬を飲まなければ生きられないときもあった。僕は本気で、精神病院に助けを求めていた。でも、僕はもう、元に戻るときなんじゃないだろうか? 病院の薬は、応急処置的には、本当に役に立つ。それは間違い無いと思う。けれど、恒常的に飲み続けるものではない気がする。人格が段々死んでしまう感じがある。

変に思われることが怖い?……それじゃ僕は僕でいられない。

とにかく、何も感じない、怖いばかりの10年だった。いろいろあった。でも、そのいろいろは書けない。言葉。言葉の中で生きていられた僕は、10年間、言葉から排斥されていた。今も十分、言葉の世界に帰ってきたとは言えない。

僕は美しい時間を、それだけを求めている。なのに僕は灰色の、生活という平面に緩く、べったりと縛り付けられている。

自分の自分らしさって何だろう? 普通人と話すと、その後しばらく、自分の意識がぽかんと宙に浮いていて、一体自分が何を好きなのか、何処にいたら落ち着けるのか、分からなくなる。友人Mは、その少ない例外で、彼といるときは、僕は寧ろ、いつもの僕自身でいられる気がする。

私は私。愛着の中心。