メモ(人間関係)

人との会話では、自分が喋りたいことだけを喋ればいい訳じゃない。相手が機嫌の良いときに、暗い話をするのは憚られるし、相手が辛いときに、明るい調子で話し続けるのは気が引ける。別に無理して相手に好かれようという訳でもないのだけど、何故だか、合わせなければいけないような気がしてくる。相手が辛いときに、辛さから救ってあげる言葉が出てくればいいけれど、咄嗟に相手を良くしてあげられるような言葉が出てこない。僕が辛いときは、もちろん相手を僕の辛さに巻き込みたくなんかない。

相手に合わせている内に、自分が何ものなのか、分からなくなってくる。自分の本当の気持ちが、よく分からなくなる。親しい人の調子が悪いときに、僕まで調子が悪くなるのは、優しさでも何でもない。馬鹿げていると思う。そんなことしてたら、僕の自然な気持ちが何処かにいってしまうし、しかも、相手の調子が良くなったのに、僕の方と来たら、相手に合わせて落ち込んだ気持ちと、人に合わせてしまう自分への自己嫌悪が続いていて、まったく、誰にとっても、何の得にもならない。

相手に合わせる、ということが習慣になってしまうと、好かれるどころか、個性の無い人と思われる為か、寧ろ人は離れていく気がする。なのに、僕は合わせることをやめられない。対人関係って疲れる、と思って、孤独の方が楽だと思うようになってしまう。

相手のことが好きじゃないならば、わざわざ合わせたりしない。元々僕は無愛想な人間なのではないかと思う。とても親しいのに、しかもお互い気を使わずにいられる関係性も、もちろんあると思う。お互い好き勝手言っているはずなのに、何故か親密な空気が離れないで、そして、表面的な言動ではない場所で、繋がっているというか、重要な何かが交流している、という感覚。それは、本当に、何よりも得がたい、素敵な感覚だ。そういう関係性を、僕はとても大事にしているし、そんな風に誰かと関係出来るときに感じる、当たり前のようで特別な何かを、いつまでも覚えていたいと思ってる。

僕は同情なんてしたくない。同情出来ることが美徳みたいに言われることが多いけれど、みんながお互いに同情し合ってたら、本当の自分の感情を持っている人が、一人もいなくなってしまう。

空気を読もうなんて考えてたら、みんなみんな、灰色地帯で、何となく合わせ合ってて、空気が読めるとか読めないとか言って、読めない人を排斥して、自分たちにとって居心地のいい空間を作ろうとした結果、みんな自分自身の個性や、感情や、優しさや、本当の気持ちが分からなくなってしまう気がする。自分が好きなものは、文句無しに好きで、嫌いなものは嫌いで、嬉しいときには誰を憚ることなく嬉しくいて、悲しいときには悲しいだけ、悲しみに沈む。本当は僕は、そういう人間でありたい。お互い何となく合わせ合っている関係は、長くは続かない。自分のことも、相手のことも、段々疎ましくなってくる。

僕のとても大切な友人は、20年間変わらず、ずっと大切な友人でいてくれる。僕は、彼がいなかったら、死んでいたか、人間関係に心底絶望していたか、興味を失っていたと思う。人との関係なんかつまらないから、孤独が一番だ、と本気で思っていた気がする。僕は彼を尊敬している。彼の方は僕をどう思っているか知らない。

自分の心がささくれ立っていると、人たちも神経質に生きているように思えて、怯えて、身体中の関節が縮こまってしまう。自分の心が穏やかなときは、何はなくとも、初夏のやわらかな空気の中に、皆住んでいるような感じがする。悪いことなんか、何にも無いような。

僕はすぐに、人間の中で人間として生きている、という感覚を忘れてしまう。全ては究極のところ存在するのか、存在しないのか、とか、何故僕の心や意識があるのか?、とか、抽象的な考えに浸ってしまう。段々、自分がひとりの人間であって、他の人々も皆生きている、という実感が稀薄になってしまう。でも、友人と一緒にいるときは、そういう考えは馬鹿馬鹿しいと思う。彼が存在するか否か、と考えるのは実に妙だからだ。

完璧な自由をずっと求めている。完全な、完璧な時間を。
その時間さえあれば。僕は永遠にだって生きていけるのに。