日記2

6月19日(土)、
誰かに会うと思うと身体がいつもとは違うモードに入る。内側に縮こまっていた神経が突然外界に向けて開かれる感じ。それがとても気持ちいいときもあれば、そわそわして、全然落ち着けないときもある。

今日は昼近くまで眠っていた。起きると友人から電話が来ていたので、かけ直した。そしたらすぐに僕の家に来てくれたのだけど、僕は急いで部屋を片付けて、シャワーを浴びて、掃除機をかけて、ってしてたら本当にぎりぎりだった。

今、僕はパソコンの前に座っていて、友人は布団に横になっている。夜の、とても静かな時間。僕はいっぱい眠っていたので、とても元気だけど、友人はとても寝不足だったそうだ。こういう時間って、とても好きだ。ひとりの時間に包まれているような、けれど神経質にはならずに、温かな水の中で守られているような、不思議な感じ。基本的に僕は誰かがいると、とてもそわそわして、何となくへらへらして、うまくひとりのモードに入れないのだけど、昔から何故か、彼といるときには、読書にも集中できるし、よく眠れる。スピーカーからは穏やかなトム・ヨークの音楽が流れてて、僕の身体にビートが染み込んでくるような気がする。

トム・ヨークのアルバムが終わって、音楽を、大好きな初音ミクのアルバムに替える。セルロイドの眼鏡を掛ける。

多分、僕は人に会わないと駄目になってしまう人間なのだろうと思う。簡単に、何処までも思惟の世界に入ってしまって、宇宙や、存在のことばかり考えてしまう。世界の、そして社会の存在を稀薄にして、自分を守ろうとする。他人のことまで、どんどん遠くなってしまって、自分=世界、という図式を得ようとする。

……多分、本当に一人きりになって、自分の心の奥底を探求する時間も、それはそれで大事なんだと思う。でも、僕は中途半端だ。いつも怯えている。両親に変な人間に思われないように、簡単に自分を偽ってしまうし、家族で夕食を食べるときには、完全にまともな人間に成り切っていて、病人扱いされたり、ドラッグの使用を疑われるような、自閉的な、多分達観したような態度を、くだらない冗談を言ったりして、誤魔化している。実際、僕が昔大学生の時、アパートの部屋で、とても瞑想的な気分でいて、混じりけのない幸福感を感じていたとき、両親には本当に怪訝な目で見られて、まず、ドラッグを疑われた。その時ほど僕が薬と無縁だったときは無かったのに。心配した父が僕を迎えに来て、アパートはすぐに引き払われて、そして、すぐ精神病院に連れて行かれた。僕は段々自分を、ただの社会的落伍者の病人だと思い込み初めて、眠れなくなり、自傷しまくって、入院もした。……今の僕の行動原理は、ただの逃避願望に基づいていて、僕が社会的に駄目なことから、目を反らしたいだけだと思う。真実を本当に求めているわけじゃない。ただ、苦しみから逃れたいだけ。

抽象的な文章ではなく、人と人との間の、微妙な距離感を描いた、静かな小説が書きたい。

この頃、いまだに井筒俊彦さんの『意識と本質』を読んでいた。世界は根本的なところで、有るのか、それとも無なのか、最近やっぱり、そんなことを考えていた。でも今夜は、あまり、世界が有るかとか無いとか、そういうことにあまり興味が持てない。僕のすぐ傍で眠っている友人が、実在するのか、幻想なのか、なんて、考えるだけでもおかしなことだ。仮に、強いて世界が、例えば夢のようなものだと考えてみても、僕は友人のことがとても大切だし、彼に、ずっとずっと生きていて欲しいと思う。彼が僕のことをどう思っているか、それはもちろん直接的には分からないけれど、彼は、この頃、近く僕が自殺しそうで、それを恐れている、と言ってくれる。……多分、だから僕は生きているようなものだ。実際、僕はこの頃、自殺のことをよく考えていて、自分が死ぬことを想像すると(例えば、近くにある高い橋から飛び降りることを、リアルに想像すると)、辛い心が慰むような気がしていた。いっぱいある薬をずらりと机の上に並べて、「今、これを飲めば、多分死ねるんだな」とか。でも、僕が死んだら、友人を、何というのか、もしかしたら、とても傷付けてしまうかもしれない(「傷付ける」なんて言葉は、安易だとは思うけれど)。こういうとき、両親のことはあまり考えなかったし、もしかしたら、僕が死んでも、他の誰にとっても、ちょっと迷惑なだけで、あんまり、どうだっていいことなんじゃないか、と思ってしまうことが多かった。でも、友人にとっては、もしかしたら、僕の死は、そんな、どうでもいいことなんかじゃないのかと、傲慢かも知れないけれど、今この瞬間、僕は思っている。そう思うと、少し死ぬのが怖いし、同時に、すごく歳を取っても、彼と、こうやって話をしたり、一緒にいられたらいいな、と思うと、自殺の想像以上に、僕の心は安らぐ。それに、いつもはあまり考えない、両親のことや、他のいろんな人のことも、いつもよりずっと身近に感じて、申し訳ないような、生きられるだけは生きようか、という気持ちになる。

人間を、抽象的には愛せない。人間全般は好きだけど、個々の人は好きじゃない、という感覚は、僕には分からない。僕は、博愛主義者なんかじゃ、全然ない。でも、知っている人の誰もが好きだ、と本当に感じるときはある。いや、知らない人だって、みんなみんな好きだ。例え、苦手だったり、仲違いしたり、もう全然会いたくない人のことだって。みんな好きな気がする。今、これを読んでくれている、多分、名前も知らない、あなたのことが、本当に好きだ。

誰かのことが本当に好きだと、何でもかんでも、誰のことでも好きになれる気がする。音楽を聴いていると、音楽、そして音楽家が、生きていて、何処かに永遠に存在する気がする。少なくとも、僕は音楽や、人の心の永続性を祈る。それだけでいい、と思う。人類は滅亡するかも知れない。でも、その心は、ずっと、ずっと、残り続ける気がする。みんな死んで、それで終わり、なんて、それが虚しい考えだ、というだけで、十分間違っている気がする。心は本当は、多分、自分に都合のいい考えや、虚無的な考えを持っていない。考え、っていうのは、ただの言葉だ。心が違和感を感じる答えは、やっぱり間違っていると思う。醜い考えはある。でも、醜い心なんて、無いと思う。辛いのは、心が病んでいるからじゃない。自分の心の、静けさに、自分の意識が届かなくなって、辛い意識で頭がいっぱいになってしまって、それで何もかも上手くいかなくなって、自分のことが嫌いになって、でも、そんな時でも、心はやっぱり生きていて、そこは海のような静けさを、ずっと保っている、と今の僕は思う。誰にだって心がある。僕は僕の心に届きたい。もしかしたら、いつか届くかもしれない人の心についても、想像する。想像することは、いつか、思考では届けない何かに、もしかしたら触れられるかもしれない。

海。ここにも、確かに存在する海。そして人たち。僕は生きていけるのだろうか? 今でも、完全に自信があるわけじゃない。でも、今感じる海、空間、傍で眠っている友人。もしかしたら、生きていけるかもしれない。生きていきたい。