詩のようなメモ

1
心の平和が一番大事なのだ。
それからエクスタシーと。
この二つがあれば、
他の物はあってもなくても、
どちらでもいい。

僕は日本の詩の多くは説教くさいと思う。
(外国の詩はあまり知らないけれど)
風潮だろうか?
芭蕉の句の頃から、やっぱり説教くさかった。

漢詩にはそれを感じないから、
アジア人特有の本質、という訳でもないのだろう。
漢詩にはファンタジーを感じる。
ファンタジーは、僕にとって、一番の現実だ。

「写実」なんて言葉が流行りだしたからいけないのだと思う。

中也の詩と賢治の詩、それから朔太郎の詩には、
説教くささを感じない。非常に個人的な人たちだ。


2
万年筆のキャップを開ける音。
万年筆のキャップをペン尻に付ける音。
万年筆のペン先が紙を擦れる音。
ノートの頁を捲る音。
そしてまた、ペン先の走る音。
それから、万年筆のキャップを閉める音。

インクの鈍り具合。
インク瓶の鈍い輝き。
大分少なくなったインクの瓶。
万年筆にまつわる全ての音が、僕は好きだ。

日本語の古さが好きだ。
古さは遠さを運んでくれる。
死が近付くほどに
暖かい布団を思い出す
私はこの世界が嫌いだろうか?


3
私は理系は本当に駄目だ。ほとんど本能的に身体が拒否する。私は、この世界が物質から作られていることを、全く信じていない。化学も物理も経験論に過ぎなくて、つまり今までのデータの集積に過ぎなくて、明日になったら変わるかもしれないし、そもそも明日なんか無いかもしれない。

痛みは、音楽に合う。

人間の進化の歴史。
動物学的な進化の歴史にも、
時系列的な進化の歴史にも、興味が無い。

学問は、学問それ自体が大事なのじゃない。
学問は全て、世界に近付く為の鏡のひとつだ。
世界を知るのに、歴史だとか数学だとかが、直接的に役立つ訳ではない。
簿記なんか、会計ソフトがあるのだから、時代遅れだし、
そもそも僕は社会や経済のことに全く興味が無い。
けれどそれらが、世界を何らかの形で反映しているのだとしたら、
簿記や何かで、世界の影の末端に近付けるかもしれない。

 
4
ホームシックに罹ったときには、
人生のホームシックに罹ったときには、
音楽の故郷に帰る。

ここには、日本には私の故郷が無い。
ジョン・レノンビートルズニック・ドレイク
私の本当の心の故郷だ。

誰も私を知らない。
でも音楽は私を知っている。
そして、詩が私を知っている。
中原中也の元に、いつも帰ってくる。

村上春樹はすごいけれど、心の領域にあるのは、
友達になれるのは、やはり詩だと思う。


5
宇宙を知る方法はいくつもある。
でも方法はひとつあればいい。
けれどひとつだけだと、
そのひとつだけが宇宙に思えて、
本末転倒だ。
例えば、宇宙を知るのに数学は役立つけれど、
数学だけが宇宙だとか、
宇宙は数学で出来ている、などとなると、
宇宙を逆に小さくしてしまう。
宇宙の無限さが分からなくなってしまう。
宇宙には垂直的な、深さもあるけれど、
水平的な、いろいろな視点、もある。
垂直的と言ってもそれは空間的で、
水平もやはり空間的なので、
深さといろいろな視点の両方を知れば、
うまくは言えないけれど、
宇宙を多次元的に表現出来るだろう。
少なくとも4次元以上の領域で。
(ついでに言うと、
 知っていることと、表現出来ることは、
 ほとんど同じだ。
 知っていて黙っている人もいるけれど、
 知っているのに黙っているのは、
 僕にはもやもやして耐えられない。)

宇宙は音楽によっても知れるし、
言葉によっても知れる。
僕は言葉と音楽の両方を知りたい。

またこれは表面的な、表現力の次元の話だけど、
日本語しか知らないと、日本語は行き詰まる。
行き詰まらない人が多数だとしても、
僕は、日本語だけでは駄目だ。
そもそも僕には英語で表現したいという、
強い欲求、
と言うか寧ろ、
偏執的な気持ちがある。
英語が好きだから。
英語はセクシーだ。


6
世界はモーツァルトではない
現実を知るのは苦痛に拠ってだ
だから現実とのお別れは苦痛を伴う


それは、全て、内面からじゃなくてはならない
身体の底からじゃなく
心の底から歌うこと



ディスプレイの光
太陽よりも遠い光


論理と、論理以前の、両方を知りたい。


世界の総重量を知ってる?


少しずつ人の形に崩れていく
レモンの形に
唯物論的に


人が段々知識を会得していく過程で
段々世界の認識を習っていく過程で、

人は遠さを失っていく
人は強さを身に付けていく


7
宇宙を他の角度から見たい。

人の心に触れたい。

痛みと共に。

エレキギター

絵を描くようにギターを弾く。
絵を描くように歌う。
死の直前の声を込めて。
絵を描くように字を書く。

光と色と音楽だけが真実。
言葉だけが真実。
人の心だけが真実。

僕の心、だけが真実。


8
言葉は、どんな言葉であれ、一つ一つ、全てがアートだ。
辞書の意味を遙かに超えた場所に、言葉は物として存在している。
生きた、物として。アートとして。
言葉を物として扱うこと。言葉のアルティザンになること。
それが言葉を書く上で最も大切なことのひとつだ。
詩人や小説家は、説明の為に言葉を使うんじゃない。
確かな質量と質感を持つ言葉を、熟練した手指で、寸分の狂いもなく並べていくこと。
それが詩人や小説家の仕事。

特に詩人は死に近しいアルティザンだ。
詩人になるなんて、剰え詩人を称するなんて、
本当は矛盾しているのではないのか、と思う。
死にたいとき、死を強く意識したときだけ、
人は詩人になれるし、詩が書ける気がする。
だから「職業:詩人」なんて書くのは、「私は常に死と共にいるのです」
と書いているようなもので、本当にそうなら格好いいと思う。

もちろん、死よりもずっと生きることの素晴らしさを謳歌した詩人や、
生き死にや自然よりも、批評眼を重んじる詩人、正義や宗教のある詩人もいる。

言葉の職人として、
アルティザンという名称が、芯から似合う詩人。
そういう詩人も好きだ。
そういう詩人、……文字通りの言葉のアルティザンは、
詩という形式には拘らず、小説も書くだろう。
けれど本物のアルティザンには(仮に小説を書いたとしても)、本来詩しか書けない


名文や、持って回った書き方や、個性的な言い回しをしようとしないこと。


本をさっと読んで、さっと要約出来る人は、詩人や小説家には向いていないし、
文学を楽しむ事とも無縁だろう。
本をがりがり読みながら、幾度も幾度もつっかえて、
分かったと思えるまで、同じ本を百回だって読まなきゃならない。

……

何故なら、私は世界のこちら側にいるのだから。

音楽にたったひとつの原音が存在しないように、
現実にもたったひとつの真実なんて存在しない。