別の日記

5月22日、
化学周期表や聖書に正しいことが書いてるなんて思ってはならない。そのことが、やっとまた分かり始めた。そのことに、不安を感じなくなった。社会が正しいなんて、思ってはならない。10年間、僕は何処かに正しいことが書かれているんじゃないかと思っていた。いろんな人が、正しさを標榜している。いろんな、多分、偉い人が。人は辛いから真実を求めるのだと思う。あくまで人間関係の中で起こる出来事。人が一番恐れること。それは多分、人の中で人として生きられないこと。人が一番煩わしく感じること。それは人の中で人として生きなければならないこと。自分が人だと思えないとき、僕の一番の願いは人になることで、人になれさえすれば、もう他は何も要らないと思う。でもいざ自分が人として「見られ」始めると、人なんかやめられたら、どんなに楽だろう、と思う。人生はコラージュだろうか? それともひと続きの論理的な物語だろうか?


5月23日、
この世界には、二つの側面がある。もう一つの見方がいつもあって、私たちを一面的な世界の悪夢から救ってくれようとしている。僕はピアニストのアンドラーシュ・シフが好きなのだけど、彼が50歳からしばしば入り始めて、おそらく60歳頃に我が物とした、世界の、もう一つの側面。グールドは最初からそこにいた。シフもグールドも本を書いているけれど、本を書いているときの彼らは常識的な世界にいる。ピアノは狡い。熟達すれば、いつでも世界のあちら側に行けるから。言葉で向こう側に行ける人もいる。言葉は主に常識的な生活の世界で用いられるものだけど、常識の外で言葉を扱える人がいる。そういう人は作家とか詩人と呼ばれるけれど、作家や詩人はピアニストよりも、さらに狡いと思う。何故なら生活や常識は言葉で出来ているので、言葉を生活や常識の外で扱うことが出来るなら、生活や常識を、常に外から眺めることが出来るからだ。作家や詩人は何ひとつ書かなくても作家や詩人でいられる。楽器を弾けなくても、絵が描けなくても、音楽家や画家でいられる。何故なら彼らは比較の世界、上手や下手の世界に生きていないからだ。詩人の弾くピアノの一音、詩人の描く一本の線は、生活の外で物される故に、詩の世界の一部を構成している。そして詩の世界は細部が寄り集まったものではなく、つまり詩人は細部を寄り集めて満足を得るのではなく、満足した世界でただ生きているだけなので、常に、一部ではなく全体を表現することしか出来ない。詩人や作家は、言葉で説明しない。言葉を「何か」の為には使わない。彼ら/彼女らは、哲学者の対極にいて、「それ」を「それ」としか見ないし、哲学者のように現実と幻想を区別したり、現実は幻想であるとか、思惟や想像と現実の関係とか、「世界/現実とは何であるか?」ということを問題視しない。


5月24日、
何故か、本を素直に読めるようになった。自分で言うのも妙だけど。最近まで、上手く言えないのだけど、文章をとても批判的に読んでいた気がする。今は、どんな常識外れな記述でも、すんなりと受け入れられるようになった。ずっと、著者より自分の方が物知りであるみたいな、頑なな態度で読んでいた気がする。

言語って、脳の広範囲を使うらしくて、多分僕の脳はあちこちの部分の神経網がこんがらがっていたか、死んでいたかしていたと思うのだけど、今は、かなり復旧しているのを感じる。自由で、音楽や活字を、あるがままに吸収したり、分析したり、書かれたことを想像したり、自分の身に当て嵌めて考えたり、ということが同時に出来るようになってきた。脳の働きがいいと、脳神経を使っているというよりは、神経が構成する道筋の通りが良くなって、寧ろ脳が空っぽになったような気がする。今までは、何処かに障害があって、文章の一単語ごとに躓いていた。特に、詩と小説が読めなかった。論理的に説明されないと、単語と単語の間に繋がりを見いだせなくて、言葉に流れを感じることが出来なくて、ランダムに配置された単語の上で、眼が泳いでいるような状態だった。言葉って、説明や意味を理解することも大事だけれど、流れやリズムを感じられなければ、読んでも面白くない。すんなりすらすら、頭の中で言葉が弾けて、溶けて、言葉なのに、言葉で言い表せない何かを感じられるので無ければ、読んだとは言えない。自分に都合のいい情報を拾い読みすることしか出来なくなっていた。良くて書くことのネタにしようとか、言い回しを真似しようとか、そんなことしか考えられなかった。うまい言い回しの集積が小説なのではない。読んでいて体得すべきなのは、流れとリズムだ。そして、まるで違う人生を生きているような感覚。


5月25日、
生きている。人生はサイクルを描いている。とてもシンプルな窓から地上を見る。書くことが快感になるためには、多分、プルーストがそうしたように、防音室にすっぽりと籠もりきって、書くこと以外の全てをカットしてしまうのがいいのだろう。程よい広さの部屋、閉め切ったカーテン、ぽつんと空っぽの机と、その上にノートパソコンと煙草とコーヒーサーバー、マグ、あるいはコカコーラ、灰皿、幾冊かの本、詩集、薬の瓶とシート、ノートと万年筆、インク瓶、あとは、頭の中の言葉だけ。眼が悪くなってきたので、眼鏡を掛けるのもいい。この頃はセルロイドの眼鏡が好きになってきた。自由を感じる。あと、そう、忘れてならないのは音楽。CDプレーヤーにスピーカー、何枚かのCD、あるいはiPodとヘッドホン。スピーカーで音楽を聴くのがまた好きになってきた。身体の周囲を海にしてくれる。カラフルな、あるいはモノクロな音の海に、身体ごとすっぽり入ることが出来る。椅子の隣にギターがあるのもいい。エレキギターで、アンプがあるのもいい。頭の中には宇宙がある。脳は電気で働く。シナプスがぷちぷちぱちぱち言っている。脳と指先は神経という電線で繋がっていて、オートマティックな幽霊が僕を支配している。

僕は長く生き過ぎた。


5月26日、
しばしば、生き死にについて考える。死ぬんだな、と思うと、非常に気分が楽になる。何かから逃げている訳じゃない。それに、生きるのが辛い訳でも、苦しい訳でもない。というか、辛さや苦しみに代わって、喜びや快感を強く感じるようになってきた。人は、おそらく苦しいときにはなかなか死なないものだ。死ぬのにも元気がいるし。それに、些末な悩みは人を苦しめるけど、実は些末な悩みが人を生かしているとも言える。僕は今、いつ死んでもいいような気持ちで生きている。毎日、今日にでも死ぬんじゃないかと思いながら生きている。自殺をする気は無いけど、それも分からない。僕は、数年間、僕なりには、本当に苦しかったと思うけど、その間にも、もしかしたらもう少しは良くなるんじゃないかという希望をいつも持っていた。しかしこの頃、さっぱりした気持ちになると、僕は人生に何の未練も無いんだと気付いた。


5月27日、
人生は暇つぶしじゃないんだ。僕はそれを知っている。書くことは、書くことを超えている。それだって知っているはず。生きようと思うから批判的になる。批判的な人のことだって、自分が批判的じゃない限り、許せるどころか愛おしく見える。みんな生きようとしている。それがどんなに悲しいことか、僕には分かる気がする。

何故、多くの人が、死なずに生きているのか、分かるような気がしたり、分からなくなったりする。辛いとか、先行きが不安だと言いつつ、それでも死のうとはしない人々を、僕は多く知っている。

僕は、多分、どんどん死に近付いていくだろう。いろんなことに気持ちを重くする必要はないんだ。