メモ

細い、万年筆のペン先で、ケトルをひとつひとつ描いていくように、生きていく。
溺れるように。溶けるように。溢れるように。

苦しいとき、人は案外死なないものかもしれない。今、苦しさから解放されて、僕は死をとても身近に感じている。どうせなら長生きしようか? 兼好は、人は40歳くらいで死ぬのがちょうどいい、と言っていた。人による。僕は91歳のお婆さんとだって親友になれそうな気がする。軽口にはもう飽きた。その裏側に信頼の無い軽口には。お互いの尊敬が、くだらない会話の端々から滲み出てしまうような。少し悲しいような会話がしたい。

生きようとするから苦しい。何もかもに飽きてしまえばいいよ。飽きた後の空白は麗しく涼しいから。


何にも無い部屋に棲みたい。明日死ぬつもりで永遠に生きたい。この夏に死にたい。あるだけの薬を飲んで、あるだけのお酒を飲んで、あるだけのお金を使って。何もかも、何もかも売り払いたい。空っぽの部屋で、身体だけに満悦していたい。この夏に死にたい。何もかも片付けて。売れない物がある? 頭ではお金なんて虚構だと分かっているくせに。心ではまだ生きるつもりで、物に執着する。あと三日で死ぬヒグラシが、しがみ付いた木の永遠を願うようなもの。

何も無い方がいい。何も無いのが本当なのだから。消えていくことは堪らない快感だ。……キーボードを叩きすぎて壊れたら、あるいはギターを弾きすぎて穴が開いたら。死ぬのはそれからでもいいかな、と思ったりする。そんなこと考えてたら一生死ねないし、僕は意識的に自分の物欲を助長しようと思っていて、キーボードはすぐにでも新しいモデルのを買おうかと思っているし、ギターには穴は開かないだろうから、一生掛けてぼろぼろにしていこうと思ってる。……アナログが好きで、世界はアナログだけでいいと思っているけれど、デジタルも好きなのは好きだ。iPodの音源に、僕はかなりのところ満足している。

世界の進化がもっと遅かったらいいな、と思う。僕にはワープロとレコードで十分だ。アメリカ生まれだったら、タイプライターだけを執拗に使うのに。本当に、何も要らないのに。パソコンのキーボードは美しい。でも未だ、僕はmouseのノートパソコンのキーボードとは一体化出来た記憶が無い。時々は東プレのキーボードのタイプライターみたいな打ち味が、とても懐かしくなる。デスクトップのパソコンを買って、東プレのキーボードをメインに使おうかと思うくらいだ。書くため。それだけの為に。……僕は書くことはフィジカルなことだと思っている。脳が書くんじゃない。指が書くんだ。だから冗談や言い訳じゃなく、キーボード選びは、僕にとって文字通りの死活問題で(書けなかったら死にたいから)、キーと指先が有機的に繋がったとき、僕は初めて書くことが出来る。僕は口述筆記は、おそらく出来ないと思う。数十年前のアメリカ人は、タイプライターを打つことそれ自体が快感だったから、あんなに沢山小説を書けたんじゃないだろうか? 少なくともタイプライターが無ければ、ケルアックの小説は存在しなかったかもしれない。書きやすければいいというものでもない。ギターもピアノも、少し弾きにくいくらいの設定が一番いい。指先への抵抗が気持ちよさを産むからだ。指先とキーの間の少しの抵抗が熱を産み、言葉を産む。……別に手書きでも書けるけれど、散文や長文はキーボードで書くのが、とても気持ちいい。

ノートパソコンとも仲良しになりたいな。もしかしたら、このパソコンでは書けないのではないかと不安だ。指先の気持ちよさが希薄だからだ。確かに、速くは書ける。でも、速く書けるからといって、思い通りに書ける訳ではない、と最近やっと分かった。そんなに速く書く必要性は全く無い。速いより何より、気持ちいいのがいい。書くことが何よりの快感で、書くというフィジカルな行為が、つまりキーを叩くことが気持ちいいのでなければ、始まらない。僕は、自分のことを、感情的な人間よりは、感覚的な人間だと思っている。感情が迸るような書き方をしたことは無いけれど、感覚のままに書けば、そこにちゃんと感情が表れるから不思議だ。本当は、僕は、僕が確かに書くことが出来ていた頃と同じノートパソコンが欲しい。僕は道具が替わることによる環境の変化が苦手だ。……それにしても、ケルアックは驚異的に速くタイピング出来たらしいから、それにあやかって、僕も超高速で書ければいいとは思うんだ。……けれども、技術は、表現にとってある程度必要な要素だけれど、必要十分なだけ持っているなら、それ以上は不要だと思う。その、ある程度、必要十分を掴めないから、技術にばかり走ってしまう人も多いのだろうし、僕もそのひとりだった。道具もそうだ。何でもいいわけではないけれど、使えるのに十分なら、それ以上の道具は不要だ。何を以て十分とするかは、人によってハードルが随分違うだろうけれど、僕なりの基準値は、エクスタシー…忘我の境地に行けるだけの技術と道具があればいいと思う。もうこれ以上はあり得ないと思うほどの最高の場所に行けるなら、それ以上の技術や道具は要らない。僕が大好きな、世界的な画家であるポロックも、ベーコンも、デッサンはあまり出来なかったみたいだし、ポロックは道具なんて、市販の塗料と、棒状に固まってしまった、もはや筆としては使えない筆を使っていた。もちろん、ポロックもベーコンも、ある程度、デッサンの技術があったし、道具に全然拘らなかった訳でもないと思う。ポロックは間違いなく、ひとりの人間が辿り着くことの出来る、最も遠く深い場所を旅した人のひとりだ。そこに行くのに十分な道具と技術があればよかった。一度も、自分が行ける最高の地点に辿り着いていない人は不幸だ。一生、道具と技術に迷わなければならない。例えば、僕がギターにあれこれ目移りするのは、一度も、ギターで行くことの出来る、これ以上無い精神の最奥や、死の味に辿り着いたことが無いからだと思う。

言語表現で行ける彼方まで、僕は行った記憶がある。そして、音楽の最高の快感を知っている。もう言葉ではこれ以上先には行けない、と感じたとき、僕が思ったのは、というより痛感したのは、もう少し言語力があれば、もう少し先まで行けるだろう、ということだった。折に触れて思うのだけど、結局のところ毎日の研鑽に勝るものは無い。例え、古語や漢文で書く機会なんて無いとしても、古典や漢文をよく読むことは有用だと思うし、特に大事なのは、いい本も悪い本も、乱読することと、そして見付けた大切な本は、手許に置いて、百回くらい読むことだと思う。十回やそこらで飽きてしまった本は、多分、そこから吸収できるものはもう吸収してしまったのだと思うから、手放していいのだと思う。音楽を聴くことに関しては、僕はiPodと、今のヘッドホンで十分だと、経験的に知っている。けれど、これは単なる趣味の問題として、もっといい音が存在するのなら聴いてみたい、という興味はある。けれど、ハイレゾ音源でしか感動出来ない、という人が仮にいるとすれば、僕はそれは機械のせいではなくて、自分の感覚や感情を忘れて、生理的快感に走ってしまっているせいだと思う。

ここにあるのは10本の指。キーを叩くのは、右手の親指を除いた9本の指。その代わり右手の親指は、ギターを弾くときには一番欠かせない指。右手の爪は伸ばしていて、特に親指の爪は長い。爪が少し伸びると、ノートパソコンのキーが叩きにくくなる。この頃は、書くことに集中したいので、ぎりぎりギターが弾けて、キーを叩くのには支障が無いくらいの、かなり微妙な長さに、毎日爪を切り揃えていた。東プレのキーボードなら、ストロークが非常に深いので、ギターが楽に弾ける程度に爪を長く伸ばしても、何ら問題ないのに。


出来る限りシンプルに生きたいと思う。快感は、とてもシンプルなもの。脳の快感を指先に直結させて、指先の言語的快感をグラフィカルに叩き付けていく。キーボードは僕の武器。いくつもの無限の夜をかき分けて、ここに辿り着いた。苦しいときは、自分でも何をやっているのか分からない。何を言っているのか分からない。その上言動を責められて、ますます僕は立場が弱くなる。気持ちいいとき、風向きがいいとき、僕はまるで幸福が約束された惑星に住んでいるみたいだ。

言葉とは何だろう? 言葉は弾丸だろうか? 言葉はデジタルみたいなのに、ときどきはそれはアナログなグラデーションを伴った波に思える。全ては繋がっている。デジタルも、モノクロも、アナログも。繋がっているから、怖くない。何を捨てても。何を得ても。何を残したまま死んでも、構わない。断線は怖い。ヘッドホンの断線も、人間関係の断線も。時代がBluetoothWi-Fiになって、僕は少しだけ、生きる実感を得にくくなった。世界中が導線で繋がっている、という感じを視認できなくなったからだ。時代は、何でもかんでも、薄く、コンパクトにしていくけれど、小さければそれでいいという時代も、すぐに終わるだろう。タイプライターというよりは、膨大な音源があるのに一度に一音しか出ない、使えないアナログシンセサイザーみたいな、昔の和文タイプはさすがに不便すぎるけれど、現在売られているノートパソコンはあまりに薄くてぺらぺらで、文章家の為に作られているとは思えない。タイプライターみたいな、分厚いキーボードの付いたノートパソコンが欲しい。本当は、英語が書けるなら、本物のタイプライターで執筆したいところなんだ。

僕はもはや恋愛はしないだろう。と言っても恋愛は病気みたいなものだから、またいつ陥るかも分からないけれど。性欲よりもずっと強い欲求がある。書くことと音楽の方が楽しい。生きていること、それだけでも十分なくらいだ。僕が一番自然に生きているとき、どうやら僕は不自然に見られるらしい。近頃はピアノを弾くのも楽しくて、ピアノって本当に自由に不思議なコードが弾けて、思うがままに弾けるようになったら、ピアノ一台で世界を変えられるんじゃないかと思うくらいだ。

何も欲が無ければ、おそらく僕は死んでしまうだろう。何も欲求が無いということは、生きていては良くないことのような気がする。欲しい、欲しい、欲しい、で一生が終わってしまうのが人間なのだろうか? だとしたらそれは少し寂しいことではないだろうか? 僕はもう、何を失っても全然構わない。何だか、無理して生きることを欲求している気がする。BOSEのスピーカーか、またはVictorのスピーカーが欲しいし、Martinのアコースティック・ギターが欲しいし、iMacが欲しいし、いいヘッドホンが欲しい。でも、要らないと言えば要らないんだ。MacBookが欲しいとずっと思っていたけれど、このところ僕はほぼ外出しないし、外出時に高価なMacBookを持ち運ぶのは、壊れそうで憂鬱だ。iMacにピンク色のがあって、それがかなり赤に近い色で、何というか、コーラルという感じ。外出するときには、軽くて壊れにくいmouseのパソコンがある。

それにしても言語力が全然戻って来ない。言語って本当に頭の中にあるのだろうか? 僕は僕が調子よく書けていたとき、頭を使っているという感覚がまるで無かった。ディスプレイを見詰めていると、指が勝手に気持ちよく動いて、どんどん文章が出来上がっていく感じだった。それは、適当なことを書いているんじゃなくて、寧ろその時にこそ、僕の本当の言葉が書けた。その感覚が戻ってこない今、何が書けても、僕とは関係のない文章に思えてしまう。脳がいかれた、というよりは、指の動きがまずくなった、という気がする。だから打鍵の速さに拘ったりもしたけれど、速く打つことと気持ちよく打つことは全然関係無いんだと分かっただけだった。

僕は昔から、書く環境が変わると、途端に書けなくなることが多かった。もしかしたら、ちゃんと万全に書けていたのは、一番最初のパソコンを使っていた頃だけかも知れないんだ。その頃でも、ポメラでは全く書けなかった。今使っているmouseのパソコンだと、かなり速く打てる。でも、思った通りには書けない、というか、無理せず自然に書けている感じがしない。


ときどき、もう死んでしまおうと思う。僕の意識は薄く、薄くて、意識をぺらっと剥がすと、もう寂しさと自殺願望の固まりしか無いんじゃないかと思う。意識下にはいつも絶望があって、意識がどれだけ目映く楽しく光っていたって、死にたさの影を隠しきれない。すぐにお腹に風穴が空いたような気になる。書くことさえ出来るようになったらな、それだけでいいな、とよく思う。

音楽や言葉で、誰かと世界を共有することが出来たら、どんなに気持ちよくて、それはどんなに美しい孤独だろう? 僕たちは一人一人が一粒一粒の雨で、死ぬまで触れ合うこと無く、皆たった一人で落下し続ける。死んだら当然溶け合うだろう。だから死ねばそれでいいんだとも思う。落下する間、人は複雑に、そして退屈に、定型化し続ける。遠くから見ればみんな虹みたいだ。

僕と君との間に根本的な違いは無い。僕は全ての人だし、全ての人は僕だ。とは言っても、極めて常識的な観点から見れば、僕は僕でしかなく、君は君でしかない。僕が死んだら君が悲しむだろうから、僕は死ぬのを躊躇するし、君が死んで、何故だか僕だけが生きていたら、僕は死にたくなるばかりだろう。僕は極めて平坦な地平に住んでいる。僕の中の集落は自然であることをやめてしまった。僕の中にあるのは写真だけ。写真にセンチメンタルになって泣いて、生きていたくないと思う僕がいるだけ。

僕は僕にぴったりな武器が欲しい。日本語にしても英語にしても、単語に僕の血を込められるのでなくては、あまり書いても意味が無い。僕は自分が好きだ。でも別に、僕は僕自身に対して価値を感じていないから、特に名文を書きたくはない。名文と、僕の中身は釣り合わなくて、書けたとしても、僕と僕の言葉の間の乖離を感じるばかりだろう。

ぴったりの武器。それは最も僕に合ったものとは限らない。合わなさも含めた質感の良さ。また、一般に言われている一番いい物が、僕にとっていい物であることは、滅多に無い。今までの買い物で、そのことだけは十分に分かった。文字通り、僕が生きていくための武器。僕は物に拘り過ぎかも知れない。人の身体を傷付けるための、ナイフや銃は欲しくない。自殺用に頭を撃ち抜くための銃は欲しいけど、使用したくは、あまりない。ときどき思う。日本語って借りものだ。何ひとつ、自分で考え出した単語なんて無く、だから、時々、言葉よりも絵の方が、音楽の方がずっと自分を表現できるんじゃないかと、とても子供っぽく、単純に思う。子供だった頃、僕は漫画が一番自由だと思っていた。絵と言葉の両方を使えるから。その内に、言葉だけの純粋性に憧れた。そしてまた、大人に近付く頃には、表現手段の間に優劣は無いのだと思うようになった。書きたいなら書けばいいし、描きたいなら描けばいい。純粋な芸術。一番純粋なのはもちろん音楽だろう。音楽は生活とは切り離されているからだ。

それにしても、独創性というものは殆ど無いんだと、大人になるにつれ分かるようになってきて、それが楽しいような、窮屈なような。時には意図せずアヴァンギャルドなギターや言葉に惹かれたり、定型に大いなる自由を感じたりもした。デュシャンはトイレの便器を芸術だと言い切ったけど、やっぱりそれは狡い気がする。今、僕の机の上にある、ガラスのスライドバー(デレク・トラックスのサインがプリントされている)の方がとても美しいと思うし、レディメイドで、うっとりするほど美しい物っていっぱいある。


中性的な声の人になりたかった。今は自分の声にも、割と慣れてきた。まだ、自分の声が確かに自分だという気はしないけれど。何でも慣れだ。どんな物でも10年も使えば思い出の一部となるのだと最近知った。十年一昔と言うけれど、それは本当で、どんなに嫌々でも10年付き合った物は、自分の中で古典的趣を醸し出してくる。僕はたしか14歳頃に声変わりし始めたから、大体今と同じ声と、もう20年近く付き合っている訳だけど、そうしている間に、微妙に僕の中の理想も変わった。3年くらい前までは、ヨンシーとかトム・ヨークみたいな、つまり中性的で、高音に伸びのある声が良かった。僕はそれとは正反対だ。最近は特にジョン・レノンの声が好きだ。それからボブ・ディランの声。子供の頃からジョン・レノンビートルズが本当に大好きだった割には、僕はジョン・レノンの声を羨ましいと思ったことが無かった。ボブ・ディランジョン・レノンも、そんなに高い声じゃないけど、男らしくもない。……僕は僕の身体でいるしか仕様がない。せいぜいこの身体で完璧に生きていくしかない。いくら嫌いでも、交換は利かないんだから。僕の身体は硬い。本当はすごく柔軟性のある身体がいいと思っていたけれど、モーセ十戒みたいに、世界は、神か何かは知らないけれど、何が何でもこの身体を僕に強制してくる。そして僕は受け入れるか、嫌々誤魔化して生きるか、どちらかしか選択肢が無い。今のところ。取り替えるという選択肢は無い。……贅肉はたくさんは要らない。痩せてるのが嫌で、敢えて太ったこともあった。というか薬の副作用で生まれて初めて太った時は嬉しかった。今は、筋肉は付けたいとは思わないけれど、アンプを運べるくらいの体力は欲しいし、例えば友人は毎日30㎏の荷物を何十個も運んでいる、そういう仕事をしているのだけど、僕はたった12.㎏のアンプを持ち運ぶのに苦労していて、こんなんじゃ技術以前に体力的にギタリストになんてなれない。欲しいアンプが2つあって、ひとつは24㎏で、もうひとつは32㎏ある。歳を取るとアンプの持ち運びが出来なくて、軽いトランジスタアンプを選ぶ人が多いけれど、僕はせめて自分のアンプくらいは、30㎏あっても自分で運びたい。死ぬまでは。じいさんになっても、せめてギターを持って遠距離を移動するくらいの体力はあって欲しい。こんなだけど、昔は馬鹿みたいに体力があった。10㎏くらいのリュックサックを背負って、両手にハードケース入りのギターを持って、電車を何度も乗り継いだりしても別にどうってことはなかった。僕は体力なんか別に要らない。要るとすれば楽器運びに必要な体力だけだ。この頃ではエレキギターを一本、ハードケースに入れて移動するのにも骨が折れて、革製のソフトケースを買ったほどだ。まあ、軽い方がいいのは確かだ。ソフトケース、というかギグバッグとも言うのだけど、とにかくギグバッグが格好悪いとは全然思わないし。気に入ってる。

日本語が嫌いだった。今もそんなに好きじゃない。出来れば英語を書いて過ごしたいし、英文学の方が優れていると思っている。音楽も、英語の方が好きだ。中原中也の詩が読めるのはこの上ない幸福だけれど、他にいいところなんていつだって日本語には無い。自分の書く日本語は、というか自分で日本語を書くのは、割に好きだ。かと言って不遜にも、日本にいい詩や小説が無いなんてことは言えないし、別に日本語が劣った言語だとか、何が優れた言語だとか、思わないけれど、僕はどうも産まれる国を間違ったんじゃないかとたまに思う。これも、しかし慣れで、嫌々ながら日本語と付き合ってきたら、少しは日本語の魅力も感じるようにはなってきた。それに、嫌でも母国語はどうしても整備しなければならない。ホームポジションというか、自宅の庭を、それから部屋を几帳面に片付けて、自分なりに味付けせずには生きていけない。好むと好まざるとに関わらず。考えてみれば外国語として英語と付き合えるのは、強制されて英語を学ばなければならないよりいいかもしれない。日本語が完璧に自然に身に付いていなければ、齟齬が絶対にあって、日本語は謂わばイルカの鰭みたいなもので、英語の海だって、僕は日本語の鰭を原動力にして泳ぐしかなく、それが嫌で嫌で泣きたいほどだったこともあるけれど、今はそれもいいかなと思える程度には日本語が好きだ。好むと好まざると……、、、例えば、パソコンのキーボードのQWERTY配列は、誰もが仕方なく使う配列で、効率が悪いと言われているけれど、慣れると逆に、QWERTYだからこそ書けるようになる。ギターの指板の音の配列だって多分変で、ピアノの方が分かりやすいし、自然に弾けるという意味では、おそらくヴァイオリンやチェロの音配列の方がよく出来てる。

僕は考えられる限り昔から読書が好きだったし、かなり早くから書きものは好きで、小学1年生の頃にはもうすらすら長文が書けて、それから書けないで困ったということが無かったのだけど、ここ数年間全く読み書きが出来なくて、自分でもどうしてなのか考えてみることがある。脳も身体だから、疲れたり、何処か断裂したりすることはある。どちらかと言うと、僕は頭の中で考えてからそれを書くよりは、端的に演奏するように書くタイプだ。ピアニストが、次はドだとかレだとか考えたりしないように、僕はただキーボードを演奏するように書く。不便なQWERTY配列で。でも、何だか長い間、ピアノの前で頭が真っ白になってしまったキース・ジャレットみたいな気分でいた。キース・ジャレットは、何ひとつ曲を用意せずに、ライヴ毎に全く違う即興演奏を何時間にも渡ってするのだけど、それって、楽譜が無い、という意味では、書くことにとても似ている。もう既に考え終わったことについて書くより、自分の中から、次に何が出てくるか分からない方が面白い。ただ、僕は綿密なプロットを組むことが本当に出来ずにいるので、それは改善したい。音楽家だって、何年も掛けて、完璧なアルバムを作ったりする。Radioheadみたいに、数年単位で拘り抜いたアルバムを出すバンドも好きだし、かなりの部分即興性で出来た、キャプテン・ビーフハートの名盤とか、ホワイト・ストライプスの、スタジオでの緊張感のある一発録りのアルバムも大好きだ。

僕の中には、限定された空間の中でこそ自由を感じられる部分と、限定=規定が大嫌いな部分がある。