日記

5月21日(金)、
調子の悪い日だった。食欲も無かった。そわそわして落ち着かない。パイナップルとヨーグルトを少し食べる。

数日間、心ここに無いような、苛立ったような気持ちでいた。昨日までの数日間の日記を読み返すと、まるで頭の中で外国語を何重にも翻訳しているような、自分の生の発言からは程遠いところで書いているような感じがする。

 

5月22日(土)、
朝。友人にメールの返信を書いていた。いつもながら長く書いて、原稿用紙10枚分くらいの量になった。

夜までどうにも落ち着かなくて、環境音楽よりもロックの方が落ち着くので、ジミ・ヘンドリックスジューダス・プリーストAC/DCを聴いていた。

 

5月23日(日)、
……
一日中寝ていた。

 

5月24日(月)、
無理して生きていると、自分のことが嫌になるし、人からも疎まれる。自殺すれば同情くらいはしてくれるかもしれないけど、死んで好かれるよりは、生きてて嫌われる方がいい。苛ついた世界から脱出したい。

 

5月25日(火)、
2日連続で徹夜している。2日起きていて1日眠る生活が続いている。何とか眠ろうとしたのだけど、目が冴えて仕方が無い。

 

5月26日(水)、
気が逸って仕方が無い。一昨日から栄養ゼリー一個しか食べてないので、胃が硬い壁になったように、強張っている。チルアウトでジアゼパムを4錠飲む。昨日はひどく楽しくて、ある程度は活字の世界に浸ることが出来たし、キーを打つ指先がしっかりしていて、指先とキーボードが一体化していたみたいだったのに、今日また、僕とパソコンは、少しよそよそしい関係にある。

僕の中にはずっと絶望がある。どんなに生きても、それが満たされることは無い、と毎日思う。でも、ひょっとしたら、という希望に、いつも縋り付いている。いつか僕は満たされるのだろうか?

 

5月27日(木)、
この頃、友人とヘッドホンの話ばかりしている。お互いかなりマニアックなので、あれこれの型番を挙げては、デザインがどうとか、音はどうなんだろう、とか言い合っているのだけど、実際にいろいろヘッドホンを持っている訳ではないので、夢について語り合っているようなものだ。友人は数ヶ月前にいいヘッドホンを買って、感動したらしい。さらなる高級機種について熱く語っている。
僕は、ヘッドホンはもう11年と数ヶ月、audio-technicaのATH-M50x一筋で、このヘッドホンが、音の基準になっている。僕はこのヘッドホン特有の癖を、多分言い当てることが出来ると思う。中音域が、少し纏まった感じで暖かみがある。今のヘッドホンは2代目で、1代目は5年と半年ほどでケーブルが断線してしまった。1代目のヘッドホンは型番がひとつ古くて(ATH-M50)、ケーブルを交換出来なかったし、おまけにそのケーブルというのが3mのカールケーブルで、持ち歩くには少し不便だった。今使っている2代目も、5年ほどでやはり断線したのだけど、ケーブル交換が出来たので、本当に助かった。ヘッド部分が大分ぼろぼろになって、見栄えは悪いけど、まだまだ使えそうだ。1代目を使っている時は、イヤーパッドの重要性を軽視していて、5年と半年、一度もイヤーパッドを替えなかった。イヤーパッドは、せめて2年に一回くらいは交換した方がいいと思う。如実な音の変化を味わえる。

 

5月28日(金)、
昼、10日に注文していた、ジョゼフ・コーネルの『Shadowplay Eterniday』が届いた。注文していたことを忘れかけていたので、プレゼントみたいで嬉しかった。僕が持っているコーネルの作品集は、チャールズ・シミックが書いて、柴田元幸さんが訳した『コーネルの箱』を含めて、これで4冊目だ。『コーネルの箱』はシミックの詩がメインで、コーネルの作品は、ところどころに小さく印刷されているだけなのだけど、17歳のときに読んだときには、その小さな写真に、すっかり魅了されてしまった。シミック散文詩もかなり素晴らしくて、詩作の面では、もしかしたら僕はシミックから、かなりダイレクトな影響を受けたのではないかと思う。夢と現実の境目を、言葉ではなく、視覚情報によっても表せると、コーネルの作品によって、僕は初めて知った。視覚表現をする芸術家の中では、コーネルが一番好きだ。ポロックやベーコンやタカノ綾さんが一番になるときもあって、みんな僕の人生に欠かせない人たちだけれど、よくある「無人島に持っていくなら」ならば、コーネルの作品集だと思う。タカノ綾さんの『トーキョー スペース ダイアリー』とは、相当迷うと思うけれど、今日届いた『Shadowplay Eterniday』が相当良かったので、……いや、しかし迷うなあ。無人島には2冊持って行こう。ポロックやベーコンには、とても精神状態が悪いときに出会って、彼らの絵は、無感動で無感情になりかけていた僕の脳のある部分を、懐かしい感触でくすぐってくれたような気がした。特にベーコンを見たときには、一瞬かなり興奮して、何かまた書ける気がしたのだけど、美術館のカフェでノートを拡げたときには、もうその懐かしい微風のような感覚は完全に去っていて、その後どれだけベーコンの画集を読み返したか分からないけれど、何をどう感じればベーコンの場所に届くのか、その感触が何年間も全く掴めなかった。ベーコンは、全ての絵をガラス越しに見て欲しかったらしくて、美術館ではたしか全てガラス張りで展示されていたと思う。だから、紙だから駄目なのかな、とノイローゼ気味のことを真剣に考えたりした。頭の状態が良くなってくると、僕はベーコンと同じところにいたんだ、と思い出してきたし、ベーコンが描いている、グロテスクで、悪夢の中で目覚めているような感覚は、僕にとても親しく感じられるようになってきて、今は、見ていて驚くよりも、落ち着く感じがする。

コーネルの作品(殆どの作品は箱形のオブジェ)が好きなので、きちんとした大判の作品集で、心ゆくまでコーネルの世界に浸りたい、とずっと思っていたのだけど、今まで買った二冊には、あまり満足できなかった。一冊は『Master of Dreams』という2002年発行の、ソフトカバーの作品集。この本は、印刷があまり良くない。30年前のファッション誌か料理本のような荒い印刷、良く言えばヴィンテージ感のある印刷で、かつ掲載された写真の半数ほどがモノクロなので、何だか料理屋でサンプルだけを延々眺めているような、物足りなさを感じた。もう一冊は『Wanderlust』という2015年発行の、装丁の美しい本。印刷はとても良かったのだけど、僕が見たかった、おそらくコーネルの代表的な作品とされるものがいくつか抜け落ちているし、何より字ばっかりで、肝心の作品があまり多く載っていない。コーネルの作品というより、コーネルの年代記のような感じがした。今日届いた『Shadowplay Eterniday』は本当に素晴らしいと思う。2003年発行で、もう絶版なのが本当に勿体ない。掲載された作品数が多くて、どの写真もカラーで、印刷が美しい。作品の背景が真っ黒で統一されているのも、コーネルの、ふと違う世界で目覚めた真夜中、のような風景によく合っているし、若干陰影が強めなアングルとライティングは、子供の頃に忍び込んだ廃工場の魅惑の工具や、トタンの隙間からの孤独な夢のような光を思い起こさせる。コーネルの箱は、おもちゃ箱の底に隠された、罪深い楽園だ。個人用の、紙で出来た劇場みたいだし、子供の頃より更に遡った、真空や深海や、脳の底の底に眠った、ゲーム機の広告に出来た皺まで、ガラス越しに、或いはガラスの向こう側で見ているような気がする。大仰だけど。周到に(設計された迷路のように)配置されたガラクタは光を放つ。この本は、その光をうまく捉えていると思う。いつしか止まってしまった遊園地。タカノ綾さんの作品には平成のポップさがあって、やはりそれも僕の忘れがたい少年時代を、僕の顔が映った写真なんかより余程正確に切り取ってくれていて、心臓が銀色に疼くような少し悪の匂いのする、夜の衝動性を思い出させてくれるのだけど、コーネルの箱は、もしかしたらあり得たかも知れない、別の次元の、静かな、静かな、静かな、永遠の願いの込められた、想像上の(それ故に現実よりも生々しい)世界が描かれているような気がする。(夢の方向を正確に指し示しながら回転する方位磁針。)

興奮して、随分形容詞と比喩の多い文章になったけど、コーネルの箱に相応しいのは、断定的な名詞ではなく、眠るような好奇心に満ちた形容詞だと思う。僕は変な文章しか書けないけど。

(しかしコーネルの作品集はあまり売れないのか、すぐに絶版になって、中古でとんでもなく高値で売られていることが多いのが残念だ。僕は本当に運がいいことに、3冊とも定価か、それ以下の値段で買えた。)

 

5月29日(土)、
僕は死にたがりだ。この頃特に。何もかも捨てて、遺言書を書いて、近く死ぬつもりで生きている……ということを友人に、これまた長いメール(原稿用紙15枚分)で書いたら、随分心配をかけてしまったみたいだった。正直言うと、僕は死にたいけれど、気がかりなのは残される幾人かの人のことだ。僕は天国も地獄も全く信じていないけれど、この世界が自分ひとりの世界でないことは信じてる。

音楽と言葉が、また僕の生きる理由になる日が来るなんて思っていなかったよ。いくら、人に生きていて欲しいと言われても、楽しくなければ、気持ちよくなければ生きていけない。それは本当、風向き次第なんだ。苦しいとき、人は離れていく。それでも離れずにいてくれる人がいる。

僕が僕を楽しくして、気持ち良くして、誰が僕を責めるだろう?

 

5月30日(日)、
……

 

5月31日(月)、
夜中、友人にメールを書いていたら、興が乗ってしまって、原稿用紙30枚分も書いてしまった。いくら何でも迷惑な気がする。

昼間、眠くて、書きものをしていても、キーを押す指先が重く感じるほどなのに、横になっても、なかなか眠りにスイッチが切り替わらない。段々、脳内の言語回路が復興されてきた気がするけれど、その代わり、何となく眠るのが勿体ないような気分が続いている。

僕は裸では能力を発揮できない。緻密に作られた道具を、完全に自分の身体の一部にするのでなくては。

また、昨日は徹夜したので、椅子から落ちてしまいそうに眠い。取り敢えず、今日はもう、睡眠薬を飲んで眠ってしまおう。

おやすみなさい。