日記

5月1日(土)、
マーク・リボーの音楽を2、3日よく聴いている。マーク・リボーはトム・ウェイツの超名盤の『レイン・ドッグズ』で非常に特徴的なギターを弾いていることでも有名。もう何度も紹介している気がするのだけど、マーク・リボーの美術館での即興ライヴをYouTubeで見てから、すっかりファンになった。ジミ・ヘンドリックスと並ぶくらい、マーク・リボーは、僕の中では憧れのギターヒーローのひとりだ。フェンダージャガーが欲しくなる。あと、ギブソンの、ロゴが変わる前の古いアコースティック・ギターが格好良すぎる。

そして、実はすごく上手い。バラード調なのに、全然湿っぽくも感傷的でもない演奏。

マーク・リボーのバンド(セラミック・ドッグ)での演奏だと、もっと超絶に上手いのだけど、彼のギターソロの魅力を短く切り取った動画がなかなか無かった。

5月に入ってから、予定通り、けっこう元気になった。2ヶ月間、睡眠薬とアルコールで酩酊していたけれど、数日前から、それはやめた。どうしても鬱になるときってある。それはきっと誰でも致し方ないことなんじゃないかな。

 

5月2日(日)、
未明。頭の中が「死のう死のう死のう死のう……」でいっぱいになってて止まらないので、横になってたら、気分がしんとして、死んでたまるか、と思う。長年、人生に行き詰まりを感じないことなんてなかった。地球上の何処まで逃げても、僕は逃げられない。毎朝、最悪の世界に目覚める。
けれど、まだ、感じることは出来る。心の中はとても複雑で、そこは僕が何処までも旅することの出来る唯一の場所。音楽と言葉が美しい限り、僕は生きていける。

朝。生きることは感じることだと思う。好奇心や情熱が無くなったとき、僕の魂は死んだのも同然だ。

ネットを見ていて、バックスペースキーを押しても前のページに戻らなくなったので、バグかな、と思って調べたら、Firefoxの最新版ではバックスペースキーを押しても戻らない仕様に変わったらしい。少し調べて、バックスペースキーで戻れるように変更した。

 

5月3日(月)、
ひとりでいて、考えていると、必ず厭世主義に陥ってしまう。この世界が発生して、……いや、今僕がいて、宇宙がある理由、それが分からなくて、分からないなら全ては意味はなく、全てを捨ててもいいと、単純に思ってしまう。何の情熱も無い僕に、生きる意味を教えてくれるのは音楽だ。それから文学。そして何より人の存在。大切な人の存在。僕の心が真実ばかりを求めてて、終いには苛々してくるようなとき、浅ましい僕の心を宥めてくれるのは、大好きな人の存在と、音楽と、本。大体に於いて、ひとりで考え込んでいるときは、人が馬鹿に見えて、人が命をかけて大事にしているようなものまで、尚更馬鹿に思えてしまう。例えば、陶磁器に嵌まっている人のことを思って、あんなのただの土くれなのに、美しいとか出来がいいとか言って、あまつさえ感動していたりなんかして、そんなの、全てが存在していることそのものの不思議さに比べたら、つまらないと思ってしまう。母が曜変天目を見たい、と言っていたのだ。あらゆる感動や感銘が表面的なものにしか思えなくて、自分の感受性が鈍っているだけなのに、人のこととか、物のこととか、生きていることが美しいとか言う人に、全然共鳴出来なくて、宇宙や人生や世界のことを漠然と考えて、全然分からなくて、それでも、宇宙レベルでものを考えている自分を、ちょっと偉いと思っていたりする。自分がすごくリアリストで、人より、根本的なことをよく考えて、孤独を託って憔悴している自分を、半分くらい正しいと思っている。残りの半分は、何もかもが無意味にしか思えない自分を、完璧に間違ってると思っている。何もかも面白くないことに焦る。人生の意味って、幸せになることだろうか? それとも真実を知ることだろうか? 両方だと思う。両方を同時に感じるときってある。情熱とか、強すぎる感情とかで、訳が分からなくなっているくらいがちょうど良くて、でも感情の出処がよく分からないし、感情から長いこと離れている内に、感情を無意味だと思うようになって、他人にも、自分にも、あまり興味が無くなって、死にたいような死にたくないような、多分けっこう危うい脆い時間が流れる。

「ものの哀れ」という言葉があるけれども、無感動なときには理解出来ない言葉だ。「要するに何かを見て感動することなんだろう?」と小馬鹿にしたくなるような言葉。でもこの言葉の意味は、僕なりには、今生きている他でもないこの自分を強く感じる、ただ今が今であることを感じる、と言うのが、第一義的な意味なんじゃないかな、と思う。「哀れ=あわれ」はイコール「ああ、我」のことだとも言われているけれど、それはともかく、「ああ、生きてるってのは、今まさに生きているってことだ」と不意に感じたとき、僕にはもう、生きる意味とか宇宙とかどうでもよくて、それは遠いことで、もう、それだけでいいような気がする。全て分かったような気さえする。大仰なものを見て感動することは、やはり浅薄だと思う。「あわれ」=「ああ、我」というのは、我を忘れて熱狂したり興奮することじゃないから。

人は、儚いから祈るのだろうと思う。束の間の永遠を求めて。地球にはその初めから音楽だけがあった。音楽の進化だけが進化だ。けれどもっと深いところもある。いや深浅なんて無いのかもね。僕は音楽のある領域に生きる。本があって、大好きな人が今生きている領域に生きる。そう思うとよく眠れる。僕は音楽と文学のある領域に生きる。人の中で人として生きる。それで、どこまでも行けると知っているから。

僕は基本を身に付けるのがとても苦手だ。音楽理論読譜を学びたいし、絵も、デッサンが出来ればいいと、昔から思いはするのだけど、何か引っかかりがあって、つまり多分、基本を信じていなくて、どんなことに於いても、全部自己流というか、分からないままでぶつかって、押し通してしまう。

音楽のアルバムって、偉大な贈りものだ。

やっぱり、音楽にとって、リズムって、本当に大きな要素だ。僕は音楽を聴き始めてから20年以上、リズムをないがしろにしていた。歌やメロディやアレンジはすごく注意して聴いていたけれど、ベースとドラム、そして音楽全体のリズム感を、ほぼ気にもしていなかった。僕がギターを弾いたり、歌ったりするとき、いつも何かが足りないと思っていたけれど、それは多分、リズムに対する意識だと思う。綺麗に鳴らし、音を外さず歌うことばかり考えていた。ビート感、スウィング、グルーヴという言葉は知っていたけれど、あまりそれらについて考えたことが無かった。僕がギターソロを弾いてみると、何だか単調になってしまうのは、きっと音選びがまずいのだと思っていたけれど、今思えば、音に全然、僕の鼓動が籠もっていなかったのだ。
やはりメトロノームを買おうと思うのだけど、いい感じのメトロノームを見付けたので、買おうと思った矢先、いきなり値段が1000円も上がってしまった。すぐに値下がりする可能性もあるのだけど、出来るだけ早く欲しいので、それに、値上がりしたと言っても、Amazonで買うと、他の店と比べて、破格なくらい安いので、迷っている。

自堕落に暮らすのは一端終わりにしたい。2ヶ月間以上、ほとんど何もしていなかった。音楽が無きゃ生きていけない、と思っていたのに、このところ何も、ほとんど聴いていなかった。5月に入ってから、少し元気になってきて、また、インド音楽iPodから消そう…と、一度消したけど、また入れた。特にサロードの音は、ギターと同じくらい好きなときがある。アコースティック・ギターが冷たく、重厚になったような音。それから、インドのスライドギターも聴いてみている。

 

5月4日(火)、
自由な気分になりたい。宇宙に生きている僕。たったひとりの僕。

温かい、優しい気分でいたい。好奇心と情熱が、いつも溢れている状態でいたい。

今日も何とか、お酒を飲まないでいたい。

うーん、意志を固く持ったつもりなのに、お酒を飲んでしまった。

 

5月5日(水)、
非常に調子の悪い日だった。

自分がどんなに変であっても、変な自分を自分自身で否定してしまわないこと。他人に変だと思われることは怖い。変じゃなく振る舞おうとすることで、人は平均化されていく。人は本来滅茶苦茶なんだ。滅茶苦茶で、とても愛しいもの。

 

5月6日(木)、
音楽の塊になりたい。言葉の塊になりたい。流れていきたい。

僕は僕だ。「僕は僕だ」というひと言が分からないときが多すぎる。拘りを無くしてしまったら、僕は終わりだ。僕は僕以外の誰でもいい誰かになってしまう。

アルバム一枚の美しい世界。

鬱の間、誰にも好かれなかった。いくら人が好きでも、自分が嫌いなとき、人には疎まれる。自分の言動が全て自分を裏切っている気がする。

昼前、注文していたWittnerのメトロノームが届いた。一昨日、また1000円安くなっていたので、注文していたのだ。ポケットに簡単に入るサイズで、可愛い。色はマホガニーにした(多分、本物のマホガニーではなくて、もっと安い木をマホガニー色に塗ってあるだけだと思うのだけど、塗りが丁寧で、美しい。他に黒と、白木のカラーがある)。普通の、四角錐(三角形)の形のメトロノームにしようか少し迷ったのだけど、場所を取るし、そんなに大きい音が鳴らなくてもいいし、何よりベルの音は不要だと思ったので、小型の方を選んだ。多分、教室なんかで使うには音量が足りないと思うんだけど、部屋でひとりで使うのにはちょうどいい音だ。音色も心地よい。ドイツ製だけあって、作りの良さが感じられるし、多分すぐには壊れたりしないだろうと思う。ときどきネジを巻いてやらないといけないのも、アナログで可愛い。アナログって好き。本当に落ち着く音がする。それでいてギターの音に簡単に埋もれてしまわない、よく通る音だ。僕の宝ものが、またひとつ増えた。

 

5月11日(火)、
4日分の日記が消えてしまった。チェス・レコーズやブルースのことについて書いた文章が消えたのは少し勿体ない。僕は割と元気でいる。

僕の内面と、僕の表現(外面)には齟齬がある。だから、表現には自覚的になることが大事だと思う(ただ思い付きを並べ立てることや、考えがだだ漏れなことと、自己に正直であることは関係ない)。表現は全て嘘だ。でも嘘の中に、嘘じゃない、僕の内面を込められるよう、表現力を高めていくこと。個性の表現は、内面から自然発生するものではなく、外界から得られたものを、内面で消化して、内面の感情に従って、自分なりに選択・再構築することだ。熟達していない技術や知識からは、出鱈目しか生まれない。生活だって、不断の自己表現だ。常に創造的であろうと努力すること。訳の分からない自分の内面の発露を怖れないこと。自堕落にはならないこと。自分の好き嫌いさえ分からないときは、何もせずに寝てる方がまし。そして自分の演技に、自分が呑まれてしまわないこと(僕は簡単に泣くことができる。泣くことで、自己愛と感傷に、簡単に溺れることが出来る)。壊れやすい、生の卵のような自分の内面を、絶対に守り続けること。

あまりにも単純なんだけど、この間やっと、大切な友人にメールを送って、今(午前3時)その返信が帰ってきたので、急に現実感を取り戻して、そうか、生きているって、こういうことなんだ、って思い出した。

僕は不安を感じてばかりで、もう何処にも行けないのではないかと思って、楽しいときでも、心の中には、いつも死にたい気持ちがある。毎朝、起きたときには、ほぼ絶望している。死ぬのを後回しにしている内に、ただ時間だけが過ぎていく。

別に今すぐに死ぬつもりは無いのだけど、今日は、別にいつ死んでもいいような気持ちでいる。自分は遅かれ早かれ死ぬのだと思ったときや、自分が死と共に生きている感覚があるときは、生きることがとてもシンプルに感じられる。何も知る必要なんて無いし、ただ、今を生きて、少しずつ手近なところから良くしていって、毎日を過ごせればそれでいいと思う。自分が自分であると感じられる時間が好きだ。あれこれ迷っているときには、生きることを先送りにしていて、今ここにいる自分が一体誰なのだか分からないような感じがする。人のことを好きだと感じていられる時間も好きだ。真っ直ぐに生きて、きちんと身辺整理をして、丁寧に遺言書を書いて、すとんと死ねれば、どんなにいいだろうと思う。先のことは分からないけれど、今は、死ぬことに、何の躊躇も感じない。……昨日まではずっとぐずぐず重苦しく生きていたけれど。今は、ともかく、束の間かもしれないけれど、気持ちが軽い。

主体性、僕が僕であること、を失いたくないと思うけれど、表現された僕は僕からはほど遠く感じられる。嘘を書いている気がする。本当のことを書けたり、言えたりした、と思ったときほど、怪訝な顔をされるということが、今までにたくさんあった。とは言え、自然に、力むこと無く表現出来ることは、僕にとって、一番嬉しいことだ。

 

5月12日(水)、
未明、鬱が完全に去ったように感じられる。落ち込んでいた毎日とは正反対に、小躍りしたいような感じになって、力を発散しなければ頭の中がばらばらになってしまいそう。頓服薬を飲んで落ち着く。

最近は、自分ではあまり何もしていなかったのだけど、音楽は大体いつも聴いていて、本もけっこう読んでいた。今日は特に音楽が美しく感じられる。今生きているだけでいいんだ、と思える感じだ。いつまで待っても、いつも「今」しか無いので、結局は「今」幸せになるしかない。今、喜びを感じるなら、きっと未来の望みも叶うと思う。過去の幸せは取り戻せないし、また、今を犠牲にしても、きっと望み通りの未来は来ない。音楽が何の喜びももたらしてくれなかった年月は過ぎて、今また、音楽が僕の生きる意味になりつつあるし、音楽を聴いていて、幸せを感じると、それに連れて言葉もまた、今まで長いこと、僕が感じることが出来なかった、多くの物事を語りかけてくれるようになってきた。改めて音楽と言葉にのめり込める日々が来てくれるのではないかと、今、ロックを聴きながら、多分、僕は少しハイになっている。

 

5月13日(木)、
今日もかなり酔った。

僕は今、とても個人的でありたい。長年、自分が何なのか、一体自分が何を好きなのか、何をしたいのか、全然分からず、訳も分からず、当てずっぽうに考え、教養なんかが大事なんじゃないかと頓馬なことを考えたりしてきた。最近までそうだった。僕は宇宙や世界のことばかり考えていたけれど、それは、自分がひとりの人間であることに直面するよりも、楽だったからでもあると思う。薄々、人間の中で人間として生きている自分のことも自覚していて、特に最近は、自分が人間であることと、世界がただただ存在することの間に、整合性が取れずにいた。でも結局は、僕は自分が人間であることが好きだ。自分が自分であることを突き詰めていく内に、自分が生きている意味も、世界が存在することの意味も分かるのだと、ここ数日ほどは、そう思う。

 

5月14日(金)、
ロックを聴いているときは、ロックがあれば、それだけでいい気がしてしまう。UKロックが僕の細胞に染み付いているし、10歳の頃から毎日毎日ロックに浸り続けていたので、僕の脳の神経網はロックに適合するように、ロックに自動的に快感を感じるようにチューンナップされていて(何故10歳まで、僕は音楽に興味が無かったのだろう?! 10歳からなんて遅すぎる! 10年間が勿体ない。でもそれまでは僕は読書少年だったんだ)、本来は僕はロックが無ければ生きられないはずなのに、10年間くらい、僕の頭の中の、ロックを自動的に快感に変換する回路はいかれていた。多分、10歳から23歳までの間、僕くらい音楽をたくさん聴いた人は、ほとんどいないと思う。だって、13年間、ほぼ起きている間中音楽を聴いていたのだから。それから多分、10歳から15歳頃の間、僕くらいビートルズをたくさん聴いた少年または少女も珍しいと思う。他にもレッド・ツェッペリンとか、有名なバンド/ミュージシャンの音楽も、ちらほら、聴いてはいたけれど。16歳頃からは、いろんな音楽に興味が出てきたし、幅広い音楽を聴こうと意識し始めて、たくさんの、僕にとって無くてはならない音楽に出会った。中でも、特に、ニック・ドレイクに出会わなかったら、おそらく僕は、今の僕とは違う人間になっていたと思う。ホワイト・ストライプスにも出会ったし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドにも出会った。音楽は僕の一部と言うより、僕を僕たらしめている、全てだった。それなのに、23歳の半ば頃から、音楽がとても遠く感じられるようになって、乗れなくなって、僕と音楽の関係がよそよそしく、ちぐはぐになって、何にも感じないどころか、音楽が怖いときさえあって、10年間ほどつまり、僕は生きているとは、まるで言えない状態でいた。今、音楽を聴けなくなってから、ちょうど10年だ。生き甲斐だったUKロックを、異物だと感じ、身体が拒否していると感じることは、絶望の理由に十分だった。でも、僕の頭の中の「ロック(を快感に変換する)回路」は復活し始めていて、僕の細胞はまた、ロックを栄養として取り入れられるようになってきた。アメリカのロックも、もちろん好き。僕の身体の細胞の7割くらいはUKロックで出来ていて、残りの2割はアメリカのロック(特にThe Velvet Underground)で出来ていて、残りの1割はその他いろいろな音楽が混ざり合って出来ていて、僕の細胞に彩りを添えている。ロック一辺倒になると、何か違うような気もしてくる。インド音楽もあるし、もちろんジャズやクラシックもある。それぞれが違う世界を僕に見せてくれる。何もイギリスやアメリカ(のロック)だけが世界じゃないんだ、とそんな当たり前のことに、たまに気付く。世界は、どんな場所だって美しい。音の波に乗れたとき、僕は何処だって行ける気がする。サーフィンってきっと気持ちいいのだろう。音の波に乗れたとき、僕はこれ以上気持ちいい世界が他にあるなんて、考えられないほどだから、きっと海の波に乗ることもまた、これ以上無い快感で、一度波に乗れたならばサーファーはもう、サーフィンをやめることなんて考えられないのだろう。
何だか100%、ロック(+α)だけで僕の存在が出来上がっているみたいな勢いで書いてしまったけれど、本当は、文学も同じくらい大切なんだ。それにエレクトロニカ(特にAphex Twin)の存在だって、とても大きい。人の存在も、大きすぎるくらい大きいし、絶望していた年月だって、きっと今の僕の存在に欠かせない要素だ。でも、僕の細胞の構成要素や栄養面で言えば、やっぱり音楽が100%かなあ。文学が無ければ、やはり生きられない。でも、それは細胞と言うよりは、心に属する問題のように思える。文学が無ければ、心は確実に死んでしまう。頭の中には「文学回路」(言葉を自動的に快感に変換する回路)も出来ていて、そこは長らくスポイルされて、廃墟と化していたけれど、今また鋭意復興が進んでいる。「文学回路」は今はほぼ日本語だけに適合している。英語回路は構築中。フランス語回路はまだ、設計図のラフスケッチさえ出来ていなくて、基礎工事さえ保留中。成長・変化していけるって、本当に素晴らしいことだよね。言葉もまた、波に乗ること。読むこと、書くこと合わせて。それから、人の存在が無ければ、僕は完全に精神のバランスを崩してしまう。僕の回路や神経網は、真空管のように熱い。けれど、生きていくことの柔らかさ、嬉しさ、喜び、楽観性、その他もろもろは、自己完結した回路からは生まれない。大好きな人がいるから、世界が全て、淡く同時にくっきりと、美しく見える。この世界を、生きていたいと思う。一緒に年老いて、一緒に、大好きな人と、夢見るように素晴らしい、静かな世界に、いつか辿り着きたいと思う。
僕はまだまだ若いので、僕の構成要素のパーセンテージは変わっていくだろう。文学に熱中している最中に書いたなら、文学によって僕の身体のほとんどが形成されているみたいに書くかもしれない。今、この瞬間、僕は音楽の中に生きていて、その勢いで書いてる。とにかく、音楽が好き。今、音楽があって、それだけでいいと思える時間が、とても好き。音楽の中。音楽の波に乗ることの出来る時間。それは殆ど、人間の生きている有限の時間を超えてる。

この先、何が出来ても、何が出来なくてもいい。そんなの、今考えたって仕方ない。今は今出来ることを考えるだけ。明日を思い悩むことではなく、今出来ることの積み重ねが未来なのだから。過去を思い悩むこともない。それは自己嫌悪もあるけどね。過去がどんなに素晴らしくても、どんなに苦々しくても、過去の時間は、一秒前だって、戻っては来ない。駄目なら駄目で仕様がない。でも、少なくとも今この瞬間僕は、駄目じゃない。良い存在でも悪い存在でもない。ただ生きているだけ。ただ、世界が、音楽のようにあるだけ。

インド音楽に慣れてくると、シタールの音も、以前より好きになってきた。サロードの音だけが特別に好きで、インド音楽自体は、それほど好きじゃないのではないかと思っていたけれど、朝、久しぶりにラヴィ・シャンカールのアルバムを聴いてみると、サロードの音とは違った魅力を感じて、これからはシタールもよく聴くようになるかもしれないと思った。ラヴィ・シャンカールは、インド音楽に傾倒していたジョージ・ハリスンの、シタールの師匠としても有名(ちなみにノラ・ジョーンズの父親としても少し有名)。ジョン・レノンもおそらくインド音楽に一時期嵌まっていて、ビートルズの『Tomorrow Never Knows』は、ずーっとシタールっぽい同じ音程の音が入っていて、コードチェンジをしても歌えるけど、終始Cコードのみで歌っても全然違和感の無い曲だ。僕が知っているインド音楽は、最初にスケール(ラガ)をひとつ決めて、決まったコード進行、もしくはたったひとつのコード(バックでは同じ音程の和音が延々と鳴り続けているだけなので、あまりコード感が無い)でサロードシタールを20分も30分も即興で弾き続けるスタイルが多いのだけど、それってロックやジャズのモード奏法と同じだし、デュエイン・オールマンやグレイトフル・デッドは、エレキギターで同じことをしている。ジョン・マクラフリンデレク・トラックスも、インド音楽が大好きらしくて、ジョン・マクラフリンは実際、インド音楽のユニットを組んでアルバムを何枚か出しているし(かなり評価も高い)、デレク・トラックスは、その名も『サロード』という題名の曲で、自らサロードを弾いているほどだ。ジョニー・グリーンウッドも、インドのミュージシャン達と共同制作したアルバムを出しているし、ロック・ミュージシャンはインド音楽に惹かれることが多いみたいだ。特に、やはりギタリストが、ギターに似た楽器であるサロードシタールの生み出す、不思議な旋律や奏法に惹かれるんじゃないかなあ、と思う。サロードシタールは、ロックの延長上で聴いても、格好いいと思う。

昼過ぎ、ものすごく憂鬱になってくる。

午後の間中、グレイトフル・デッドを聴いていた。

夜遅く。またインドの音楽を聴いている。サロードの音ばかりが好きだと思っていたけれど、やはりシタールの音も、なかなか捨てがたい。Wikiにはサロードの音の方が内向的で暗い音色、と書かれていて、確かに暗く冷たい音ではあるかもしれないけれど、サロードの音は金属的でよく通るし、音量もとても大きいので、かなり、ロックのギターに近いイメージで聴ける。シタールの音は、確かに暖かみはあるけれど、とてもノイジーで、少し潰れたような音色で、あまり通らない音だし、音量が小さいので、どちらかと言うとシタールの方が内向的な感じがする。どちらの方が好きか分からなくなってきた。
サロードにはフレットが無く、シタール(フレットがある)に比べて、とても演奏が難しいからか、僕が知っている限りでは、サロード奏者よりシタールを弾く人の方がずっと多い。シタールが好きになると、聴きたいインド音楽の幅がずっと拡がる。
ヴィシュア・モハン・バットという、インドのスライドギターの名手がいて、彼の演奏は、旋律や節回しはインド音楽だけれど、音はギターなので、僕にはとても親しみやすい。有名なギタリストのライ・クーダーと共演しているアルバムがあって、インドの伝統音楽ではなく、どうもイギリスやアメリカのポピュラー音楽を演奏しているみたいなんだけど、もしヴィシュア・モハン・バットさんがイギリスなどで活動していたら、世界的に著名なギタリストのひとりになっていたのではないかと思う。

この頃、1年間くらいかな、定期的にインド音楽が聴きたくなる。インド音楽を聴き始めたきっかけは、多分、1年か、もう少し前に、ピアニストのアンドラーシュ・シフの本を読んでいて、その中で、インド音楽の奥深さについて触れていた箇所があったからだと思う。UKロックとUSロック、それからクラシックやジャズ、テクノくらいしか、僕はずっと聴いてこなかったのだけど、アンドラーシュ・シフが言うのだから、と、まずはやっぱり世界的に、多分一番有名なインド音楽家のラヴィ・シャンカールのアルバムを聴いてみて、でも「インドだなあ」という印象しか受けなかった。ビートルズのいくつかのインドっぽい曲から抱いていたイメージそのまま、という感じ。インドと言えば「びよーん」とした音のするシタールしか知らなかった。けれど、やはりサロードの音、特にアリ・アクバル・カーンサロードの演奏を聴いてから、かなりインドの音楽に対するイメージが変わった。すごく格好いいと思った。

基本的には、僕は特にUKロックが好きだし、シタールサロードも、おそらく自分では弾かないし(いや、サロードは弾くかもしれない)、やっぱりギターが好きで、ギターを弾きたいのだけど、インドの音楽を聴いていると、インドの演奏家って、40歳くらいだとまだまだ若造で、80歳くらいでやっと円熟期、という印象があって、27クラブとか、夭逝がもてはやされる(?)ような、若さと初期衝動ばかりのロックの世界に比べると、インド音楽の世界って、随分ゆったりした、本来、音楽にとってあるべき世界なんじゃないかなあ、という気がする。どのアルバムも、喜びに満ちていて、早死にだとか、ドラッグだとか、精神疾患だとか、そんなの、音楽とは何の関係も無いのだと思う。

喜びと、快感と、永遠の中で生きていきたい。