日記

4月8日(木)、
朝、ひどく悪い気分だった。怯え、不安、恐怖。全て毒だ。でも僕はその毒を、時にどうしようもなく培養してしまうのを抑えられない。内側から神経が腐っていく。腐敗が僕の皮膚を突き破りそうな感覚。椅子にも座っていられない。眠剤を飲んで、布団の中で耐えている。その内眠りに就いて、嫌な夢を見て、朝は呆然とする。吐き気、下痢。朝起きたときが一番疲れている。また薬を飲んで、脳の中に少し残った健全な神経を叩き起こす。また内側から腐っていく感覚。

 

4月9日(金)、
ふと、何かを思い出しかける。

時を重ねて、胸中でばらばらになってしまった、この僕。

 

4月10日(土)、
何故、僕は「この僕」なのだろう? 何故、僕はこの時代に産まれ、この意識が「この僕」に宿っているのだろう? 他の誰でもなく。
……

 

4月12日(月)、
うまくやれないことの悲しみは本当だけど、うまくやれてしまうことの悲しみもあるのかもしれない。そつなく暮らして死んでいく。それなら悲しみに打ちひしがれて自殺する方がいい。大きな声を出して堂々と生きていけるのは、羨ましいことだけど、人前では干上がったような掠れ声しか出なくなる自分の弱さが、美しく思えて、ときどき愛おしくなる。

今までいろいろな薬を飲んできたけれど、ラミクタールという躁鬱の薬が、一番劇的に効いていて、多分、この薬が無かったら、すぐに僕は死んでしまうだろうと思う。この薬が効いていると、喉のつかえが取れる気がするし、血圧は下がるし、お腹もあんまり壊さない。随分と生きるのが楽になる。今すぐ死ななきゃどうしようもないような、切迫した希死念慮があまり起こらなくなる。いいことばかりだけど、ひとりきりでいて、ひっそりした感覚になりにくい。ラミクタールを飲む前は数年間リチウムを飲んでいたけど、リチウムは僕には全然合わなかった。手は震えるし、憂鬱は少しも収まらなかった。僕は「僕が僕」だという感覚から、長年遠ざかっていて、何を書いても、何処かから借りてきた言葉を並べているだけの気しかしない。心を忘れてしまったみたい。ケロイド状になった、心の表面。

 

4月13日(火)、
まるで自然みたいにいられるくらいなら、思いっ切り不自然な方がいい。ふてぶてしく当たり前の人間みたいに振る舞い続けることで、僕は一体どれだけの人を傷付けるだろう?

この頃カップ麺ばかり食べているので、ぼんやりしているのはそのせいかもしれないけど、栄養学を僕は信じていない。何を食べても同じ味になるくらいタバスコをかけている。タバスコは十数年、大好きで、ここ数年は、美味しいものを食べたいなんて思っていたけれど、何を食べてもタバスコの味がすることの安心感は、思い出してみると悪くない。

気持ち。傷口。
まばらに生える影。

 

4月14日(水)、
怠い。昨日の昼、カップ焼きそばを食べて、今日は豆腐を茹でて食べた。豆腐にはタバスコは合わなそうなので、醤油で食べた。

馬鹿にされない人間になりたかった。今でも完璧な人間になりたい。出ない声や、たどたどしいギターが、嫌でならない。でも、そのことに本当に思い悩んでいた10年前よりは、ある程度の歌は歌えるようになったし、ギターのリズムも掴みやすくなってきた。でも、そのことが逆に嫌になってきた。自信なんて無い。でも自信の無さも含めて、僕は僕として、総合的に完成されていくのかな、って思う。屹立するんじゃなくて、何か、歪んだ物体として。好きなものは断然好き、嫌いなものは嫌いだと感じられる状態でいたい。それさえあればいい。自己嫌悪も含めて、僕は僕のひ弱な身体に完結していく。音楽になりたい。言葉になりたい。自然でいたい。自然でいる、ということは、自分の不自然さを受け入れる、ということだ。

愛することで、愛を忘れてしまう。愛を継続するために嘘を吐かなければならないからだ。何もかも、純粋なままではいられない。妄想の方がずっと純粋だ。現実は妄想とは違うから、僕は創作をしたい。理想を描きたい。(頭が働けば。)現実なんて呼び習わされているものは、現実じゃないかもしれないじゃないか。現実をまざまざと切り取った場面を描くより、創作が現実を侵食していく方がいい。それだけの強度を、言葉に。

 

4月15日(木)、
朝、冷凍のパスタを食べる。午前中、全然元気が無かったのだけど、午後、力いっぱい歌っていたら、少し元気が出てきた。歌の力は大きい。

全然何も考えられない。自分が自分という気がしない。

 

4月16日(金)、
色の洪水。

ぼんやりと書いたメモ。
(詩とは、自分が自分であることを手放さないこと、それだけなのではないかと、この頃考える。誰にも本当には合わせられないし、心を通わせ合うことも、本当は出来ない。人は孤独だ。詩は何も、特別なものではないと思う。忘れてはならない感情を忘れないこと。孤独を生きている自分に飽きないこと。それが、僕の考える詩の心で、詩は哲学や批評にも通じるところがあると思うけれど、世界について書くとして、あくまで今の自分の心から見た世界についてだけしか書けない。それは詩だけじゃなくて、全ての創作、個人が描けることの全てだと思う。個人的感情の行き着くところが、自分にとっての世界の限界だ。それでいいのだと思う。個人の心や感情は、考えて分かる世界よりも、ずっとずっと広い。外界よりも内面に、世界があると思う。自分なりの見方が、人には新鮮だということもあり得るし、自分ひとりだけの大事な感覚だと思っていたことが、案外普遍的だったりする。何も書かなくても、作らなくても、大事な感情を忘れずにいることは出来るのに、それでも書かずにはいられないとしたら、それは人があまりに孤独だからだと思う。あまり寂しくない人が、寂寥感を気取っても、書き割り以上の深さは生まれない。苦しみや不安からは何も生まれない。透明な孤独が、少なくとも創作にとっては重要だと思う。人によって違うと思うのだけど、僕は詩は現実だと思っていて、小説はどちらかと言うと理想だと思う。詩は寂しいときに「寂しい」と書き、小説は寂しいときに、この世界の何処かに存在する慰めを求めて書くものだと思う。この世で生きていることの傷口や弱さや痛々しさが愛しい。僕は自己卑下によってもふてぶてしくなる自分が嫌だ。)
(本当は、特別な世界の見方なんて無いのだと思う。当たり前に見えている世界を、全く違う視点から見ることは出来るけれど、それは普段、悪い意味で自己を閉じ込めている意識や不安とは、別の角度から世界を見るということ。本当は何も悪いことなんて無く、世界を悪くしているのは自分の意識の作用に過ぎない、という自覚に拠るもの。)

自分が自分という感じ。自分をうまく表現したい、という気持ちがいまだに強くて、内面と外面の自分に齟齬を感じているのに、人は僕の外面だけを見て、僕を判断するしかないので、僕はいつも自分が嘘を吐いてばかりのような気がする。ここにいる自分。「この僕」を失いたくない。そして、失われるはずがない。うまく、そつなく人前で振る舞えた、と感じる程に、その後で暗い気分になる。それは僕じゃないから。でも、人に良く思われたいのも本当で、段々、自分に嘘を吐くことにも慣れてくる。内面の自分を感じていたいのに、外面ばかり気にしている自分に、良くも悪くも慣れてきてしまう。「人に嫌われてもいい」と、自分の外面に無頓着になるのも、何か違う。どんなに自分の言動に感情を込めようと努力しても、その努力は報われない。言動って、結局は今まで外から借りてきたものだし、日本語だって、ただ慣れてるというだけで、それは僕の感情そのものじゃない。自暴自棄に暴れ回るのも自分じゃない。

自分の人生に拘りがあるほどに、人生は寂しい。

内面と外面の一致は、多分あり得ると思うんだ。自分の心の海の中を、ふつふつと湧いてくる言葉がある。それをさっと掬い取ることも出来る。言葉そのものが自分の感情となるといい。

表現は一番フェイクでありリアル。生きることだって表現で、それは今まで自分が慣れてきたことの集積だ。でも、そうじゃない場合もある。自分が演技をしていることに自覚的で、そして自分の演技を常に自覚している場合。

内面に内容があるほどの人が努力しないことは考えにくい。いつか僕は、何もうまく出来ないことにもがいていたんじゃないのか? もがくだけの力も失ってしまったのか?

自分自身の演技に、自分が誤魔化されてしまう。情感たっぷりに演技すれば、簡単に泣くことだって出来る。でもその涙は僕じゃない。

自分の感情が溢れて仕方がないときほど、何もうまくいかなくて、うまく喋れなくて、人には怪訝な顔をされるものだと思う。けれど、後になってみれば、思い出されるのは、自分の感情を抑えきれなかった人のことばかりだと思う。

かと言って、感情に溺れるだけでは努力不足だ。海中でもがくのではなく、うまく泳げるよう努力するのでなければ。孤独だ、と叫んだって仕方ない。みんな孤独なのだから。誰かの孤独と触れ合える瞬間を信じること。寂しくても自暴自棄にならず、日々向上していくこと。

それにしても「良く思われたい」っていう気持ちは何なのだろう? 僕は良く思われたい。その気持ちは、何なのだろう?