3月に書いたメモ(2)

僕は一生結婚しないだろう。親になるのはいいかもしれない。やわらかい身体でやわらかい身体に触れ合うこと。でも僕の身体はとても硬くて、だからいつもふわふわとしたパジャマみたいな服を着ていたい。

奇数は男性的で、女性は偶数的だ。とすれば中性はどんな数だろう? 1だろうか? 0だろうか? それとも小数点付きや、無理数虚数だろうか? 作家を女性作家/男性作家と分けるのは気に食わない。みんな中性になってしまえばいいのだ。生硬で堅硬で精巧な文章が好きだ。自分で自分の色を見付けること。ひらがなを多用する女性作家は、やわらかさを意識していて、意図的に女らしくあろうとしているみたいで苦手だ。

やわらかさと鋭さ、赤・白・黒の原色系の言葉が好き、と言うか、その三色で音を作りたいし、言葉を書きたい。

自然な自分なんていない。

性別なんて無くなれ、と思いつつ、男性的/女性的、という概念が無くなってしまうのはつまらない。あくまで、自分は男性だ、とか女性だから、という固定観念に縛られるのが良くないのであって、性別自体があることは、良くも悪くもない。漢文は硬すぎるし、平仮名だ(ら)けの文章もまた、柔らか過ぎる。1100年前に『古今和歌集』が出るまで、公式な文章や、少し改まった文書は、漢文で書かれるのが倣いだった。古今集から30年ほど後に出た『土佐日記』でも、仮名混じり文は女が使うものという意識がまだ根強く残っていたらしく、著者(男)は、わざわざ女に扮して書いている。仮名交じり文を世間に広めた、という意味では、『古今和歌集』と『土佐日記』は画期的だったと思う。よく『万葉集』(平仮名が無かったので漢字(万葉仮名)だけを使って書かれた)は「ますらおぶり(男らしい)」と言われ、『古今和歌集』、『新古今和歌集』は「たおやめぶり(女らしい)」と言われる。「ますらおぶり」という言葉が使われるのは、大体「古今集以来の女々しい風潮を改めて、万葉の時代の男らしい文学を復興しなければならない」という文脈に於いて、という印象があるけれど、本居宣長なんかは「たおやめぶり」はあって然るべきだと言い、生涯の研究を『古事記』(全て漢字)と、仮名交じり文学である『源氏物語』の両方に、隔てなく捧げている。僕は「ますらおぶり」も「たおやめぶり」も好き、と言うか、その区別がいまいち分からない。漢詩が好きで、毎日のように『漢詩名句事典』を捲っているけれど、漢詩の作者はほぼ(有名どころは多分全て)男だけれど、だからと言って「男らしい」と思ったことはない。いわゆる男らしさ、という概念が、今の日本と、昔の中国では多分大分違うので、今の僕が読んでも、そこに男らしさを感じないだけかもしれないけれど。漢詩は壮大だ。ちょっと非科学的でさえあるけれど、本当に気分が悪いとき、薬を飲むより、漢詩を読む方が、ずっと胸のつかえが下りて、冷や汗がすっと引いて、不思議なくらい楽になれることがある。ただ、有限個数しかない漢字を5個やら7個ずつやら並べただけのもの、しかも元は中国語なのを無理矢理、返り点などを打って、日本語に仕立てたもの、が、何故こんなに美しいのか分からない。薬は脳に直接、物質的に作用するので、効くのは分かる気がするけれど、詩なんて本当、ただの情報で、それは質量を持たない、雲のようなものなのに、確かに僕の気分を変えるし、僕はそれを美しいと思う。感動するし、感じるし、安寧を感じたり、静けさや、深さや、喜びを感じる。音楽からもそれを感じるけれど、音楽にしたって、やはり物質的なものではなく、単なる空気の振動に過ぎないのに、何故か僕はそれに感動する。書くことの、完璧な、多分どんなドラッグよりも強い快感も、ときどき思い出しかけている。ともかく、今の僕は、日本語を読むことの喜びに、再び出逢おうとしている。漢字と仮名の混じり文は、本当に美しいと思う。英語やフランス語の字面も好きだし、26字のアルファベットを、僕は本当に愛しているけれど、やはり、日本語の文面の美しさには敵わない。これは、僕が日本人(日本びいき)だから、というのではなく、どこの国に住んでても、僕はやっぱり日本語を美しいと思っていたと思う。日本語は自由だし、表現の幅が拡いと思う。漢字も平仮名も、完璧に美しいと思うし、カタカナもなかなか、面白い。僕は自分では書を書かないけれど(筆が消耗品だと知って、興味が無くなった)、名筆と言われる書を眺めるのは好きで、自分でも、万年筆でなら、いい字を書いてみたい、と思う。西洋にもカリグラフィやタイポグラフィがあって、とても惹かれるし、自分でもやってみたいと思うけれど(ジョブズの美意識はカリグラフィによって磨かれたらしいし)、カリグラフィはどちらかと言うと技芸に属していて、対して書道は、まさに芸術だと思う。日本の書は、西洋の最高の絵にも匹敵する芸術だと思う。楷書も美しく、興味がある。YouTubeで、たまに、中国人と思われる人が、ボールペンなんかで美しい字を書いている動画があるけれど、それに対して、英語など外国語のコメントが数多く寄せられている。余程の漢字の専門書でもない限り載っていない、普段使いの漢字は、多く見積もって1万字くらいだろうけれど、それにしても膨大な数で、その1万の、ことごとくが美しい、って、何て奇跡なんだろう、と思う。そしてひらがなの美しさときたら、平安時代文人たちの美意識や美感が、本当に頭抜けていた、ということで、ありがたいことだな、と思う。もしひらがなが醜かったら、僕は日本語を、何の躊躇いもなく、あっさり捨てただろうな、と思う。漢字やひらがなや、アルファベットの美しさを思うとき、歴史って面白いと思う。よく、歴史とは戦争の歴史だ、と言われるけれど、時間をかけて美しいものが精製されてきた歴史だとも思う。中原中也だってニック・ドレイクだって、全部自分で創造したのではなくて、それまで長い歴史の中で培われてきた知識や道具を使って、そこに個性を込めて創作した。誰ひとりとして、0から物は作れない。だから、勉強や技術は、絶対に必要だ。勉強することや、技術を習練することだけを目的とすると本末転倒だけれど、練習や勉強を楽しんでやって、そこで吸収出来た物の上にしか、新しく物は作れない。

文体は、身に付けたキャラだ。洋服のようなもの。洋服が自然になるまで、自分にとってのセンスを磨き続けなければならない。敏感でなければならない。洋服が自然に自分の一部になり(人は裸では生きられない)、身に付けた洋服が、まるで自分の皮膚の一部と感じられるまで。そのとき人は、言葉をお仕着せや借り物ではなく、まるで自分の皮膚と同じように、自分の言葉で書くことが出来るだろう。書くことも着ることも、等しく文明だ。文明というのは、拡張された自然。本当に、字義通りの意味で「自然な自分」がいるとすれば、それは本能だけで裸で、欲求に忠実に獣のように生きることだろう。もう少し「自然な自分」の意味を拡張すれば、それは、常識を守りつつ、自分が自然に惹かれるものだけを好き、嫌いなものは嫌い、という態度を貫き通すことではなかろうか? 自分に嘘を吐かないこと。でも、ただごろごろして待っていて、好悪の感情がぱっと湧いてくるわけは無いし、洋服を注意深く、また自分の直観に拠って選ぶように、「好きになる」という行為であっても、それは自然発生的な感情ではないと思う。好きになるには、間断なく、もっともっと好きになり続ける為の努力をしなければ。服と同じ。服なんて何でもいい(つまり、言葉なんて何でもいい)という態度は論外だけれど、ただちょっと好きで着た服にはすぐ飽きる。注意深く、時には神経質に吟味するのでなくては、そうでなくては直観も衰える。言葉も同じ。何となく言葉を使ったり、ちょっと気の利いたことを言おうとしたり、好きだと言う本が実のところあんまり好きじゃなかったり、直観やパッションだけに頼って書こうと思っている内に、直観もパッションも萎えるばかりになってしまったり。僕は「神経質さ」を、人間の持つ、とても大切な美徳だと思っている。人間的な弱さを含めての、その人の総体なのだ。自分を捨てればいい、という心情は、ただの自堕落に繋がりやすい。洋服を着ない。言葉も話さない、というのならそれでもいい。たまには本当に、自分の感情や意識を確かに超えた、「悟り」の境地に行くのもいい。というか「悟る」ことは人間にとっての必然だと思う。問題は、悟りから生活に帰ってきたときに、まるで裸のように自由に、生活としての現実を過ごせるかどうかだ。完璧に自分に合った服を着て、自分に合った文体を手に入れること。それには、時間をかけた、繊細な、神経質な努力を必要とする。自分というキャラ(繰り返すけれど、それは洋服がそうであるように、自然なものではない)を綿密に作り、弱さは弱さとして受け入れ、個人的には、自分の物には完璧に拘り、そして自然に好きなものや人を、意識的に、いつまでも好きだと感じられるように、意志的に努力しなければならないと思う。想像し続けること。それは楽しい作業だ。でも神経質に過ぎたり、人から言われたいろんな要素を自分の個性にどんどん組み入れていくと、自分は自分ではなく、他者の言葉や、他人の価値観を組み合わせ、継ぎ接ぎにしたキメラのようになってしまう。流行しているファッションを、何の疑問も持たずに受け入れるように、自分のものだと思っている自分の考えも、単なる時代的な思想背景を疑いもせずに取り入れただけのものかもしれない。そしていつの時代も、価値観というものには、個人が含まれていなくて、人を内側から惨めな気分にしてしまう。あくまで拘ることだ。自分で選ぶこと。「好き」を発端にして、自分の「好き」を無くさぬよう、努力していかなくてはならない。

たまに精神的に鬱屈していて結ぼれているとき、憂鬱が続くとき、定期的にインド音楽が聴きたくなる。毎日は聴きたいとは思わないのだけど、何故か聴きたい日が来る。もう聴かないだろうと思って、アリ・アクバル・カーンのアルバムを、何度iPodから消して、また入れ直したか分からない。サロードの音が好きだ。インド音楽が好きというよりは。サロードは冷たくて弦の太いアコースティック・ギターのような音がする。シャーナイという小さめのトランペットというのか、チャルメラのような楽器も好きだと思ったけれど、音が濃厚すぎて、1時間も聴いていられない。ヴァイオリンの独奏曲を1時間も聴いていられないのと同じ道理だ。エレキギターはひんやりした音から、燃えたぎるような音まで出せて素敵だ。テレキャスターは温度が低めで、若干暗い音がする(でもテレキャスターって、本当に万能で、甘い音でジャズも弾けるし、アコースティック感のある、澄んだ音も出せるし、相当にヘビーな音も出せるし、弾き方や、ちょっとした調整や、アンプやエフェクターの使いようで、かなりノイジーな音も出る。実際に、テレキャスターを使っている有名なジャズ・ギタリストが何人もいるし、レッド・ツェッペリンの一番ハードな初期の音はテレキャスターだし、テレキャスターって、木の甘さから、金属の冷たさやざらつきまで、素材の持つ音を満遍なく発揮出来ているギターだと思う。ブルースやオールドスクールなロックに合う、枯れた音も得意だし、かと思えば最新のポップにも、透明感のあるテレキャスターの音がよく使われている。……と書いていたらテレキャスターを無性に弾きたくなったので、しばらく弾いてた。僕は一応、VOXのいいアンプを持ってはいるのだけど、音が大きすぎて殆ど使っていない。いつか真空管と、気が向けばスピーカーも交換してみて、使ってみようかと思っているのだけど。Bugera(ブゲラ)の可愛いアンプを使ってる。真空管とスピーカーを取り替えていて、アルニコ磁石を使ったジェンセンのスピーカーに換えたのはかなり良かったのだけど、JJ Electoronicの真空管は、少し音の温度が低めな気がする。エレクトロ・ハーモニクス真空管の方が、もう少しだけ温度が高くてジャンクな音がしていた気がする。今の音こそが最高にいいと感じることも多いのだけど。)テレキャスターサロードと音の性格が似ているかもしれない。アルバート・コリンズの弾くテレキャスターの音は氷のように冷たくて鋭い、と言われていて、『アイス・ピッキング』というアルバムを出しているくらいだ。そのアルバムのジャケットでは、テレキャスターを、切り出した氷に繋いでいて、氷の中で真空管が光っている。まさにそんな音だ。