ノート

(……)
たしかに、心の底では、みんな同じなのかもしれない。もう少し浅いところに、静かな自分らしさがある。浅いところに、本当は神秘があるのかもしれない。だって、本当に普遍的な真実は、宇宙に満遍なく、当たり前に存在していて、真実と神が近しいなら、きっと、人間のつまらない個性こそが一番、神さまにとっても計り知れないものだろうから。海は美しいけどキュートじゃない。人間の身体は、ところどころで体温が違っていて、甘酸っぱいほどにキュートだ。不幸や苦しみは無くなって欲しいと同時に、無くなってしまったら寂しいような気持ちもする。それじゃまるで不幸を肯定しているみたいだけど、そうじゃなくて、不幸もまた、宇宙の星たちの中で、特に不思議な光として残るだろうし、不幸や苦しみこそが、いずれは最も希少な温度として、次の宇宙を産み出す唯一の力となるかもしれない。宇宙なんて本当は無い方がいいとしても、人間は存続を願う。存続こそが唯一の不幸の種なのだとしても、無くなって欲しくないものの存続を願う気持ちは、理不尽なくらい正しくて、もしかしたら、この宇宙で一番大きな力は、人たちの、祈りなのかもしれない。理不尽さ。愛すべきもの。神さまにはきっと理解出来ないもの。理不尽さが無ければ、きっと宇宙は死んでしまう。無が真実だというのは本当だと思う。でも、有って欲しいという気持ち。それは神にだって否定出来ない。訳の分からない愛おしさ、悲しさ。真理も何もかも内包して、しかもそれを超えるのは、結局は感情だけなんだ。理知や正しさに比べて、感情が間違っているなら、僕はずっと間違っていたい。

これから先、僕は今までの人生で一番、言葉に対して何かを感じられるようになるかも知れない。感受性が強くなる、というと大仰な感じがするのだけど、でも感受性、と言ってもいいかも知れない。長年、憂鬱で伏せっていたけれど、憂鬱を知った、というだけでも儲け物(?)かも知れない。音楽も、いろんな音楽が分かるようになってきた。分かる、というのは、聴いててすごく楽しい、という意味に於いてなんだけど。歳を取るのはいいことかも知れない。本当は、もう今頃には、長年使い込んだいい手をしているはずだったんだけど、何年もまともに指を使わなかったせいで、僕の手と指は、ふにゃふにゃしている。

15年前に谷川俊太郎の『詩集』と『谷川俊太郎詩集』と『谷川俊太郎詩集 続』という、どれも思潮社から出ている、辞書みたいに分厚い(『谷川俊太郎詩集 続』が一番分厚くて、900頁以上ある)本を買っていて、『詩集』は三度、全文を書き写したくらい好きで、もうぼろぼろの、僕が特に熟読した本のひとつなんだけど、あとの2冊は殆ど読んでなくて、ちっとも、いいと思ったことが無かった。それが、今読むと面白い。気になる本は、例え読まなくても本棚に並べておくのは、いいことかも知れない。

ただ、書く力は、全く戻ってこない。このまま、一生書けないのではないかと思うと、時々、死にたくなる。詩も書けない。散文も書けない。小説も書けない。

とてもとても個人的に生きたい。僕が僕であることを忘れたくない。病気になる前の自分を取り戻したい。疲れて、何もかもがどうでもよくなってしまいがちだ。生きることに、もう大分前から飽き飽きしているかも知れない。寂しい老人みたいに、早くお迎えが来ないかなんて思っている。僕は寂しい老人だ。優しい、貧しい、静かな気持ちになりたい。

知っている音楽だけを脳細胞に刻み込みたい。古い細胞は死んで、新しい細胞は音楽だけになる。

頭の中の7つの色。

本来の、多分、本来の、僕の厭らしい部分が戻ってきている。カラフルな音が、本当は、好き、なのかもしれない。言語的な人になることに、すごく憧れていた。モノクロの方がクールだと思っていた。実際思うのは、モノクロの方が普遍的だと思う。というのは、色には個人的な好き嫌いがあるけれど、つまり、僕の好きな色合いを、とても変だと思う人も、、、苦手だと思う人もいるけれど、例えば、赤・白・黒のモノトーンの組み合わせは、多分、好き嫌いには関係ないし、本当にずっと残り続けるのは、やっぱり色彩豊かなものじゃなくて、色合いの地味な、静かなものだと思うから。例えば、水には色がなく、それだから、誰でもそこに自分の色を投影することが出来るし、色は、網膜にはとても心地いいけれど、心の底の底の方は、モノクロであると、僕にはある程度、確信がある。自分の好きな色合い、自分の色を出すことを、かなり躊躇している。変だと思われるのが、病的と言っていいと思えるくらい、怖い。数に色を感じると思ったことは無いけれど、言葉と音楽には色と感触がある。モノクロが好きなのも本当のことだ。あまりに色に満ちている音楽や言葉は苦手で、……自分が作るものは、モノクロか、あるいはモノクロを基調にして淡い色が付いているか、あるいはくっきりとした、たまに尖った感じの、赤と白と黒で出来ていればいいな、と思う。完全なモノクロは、僕の心臓を殺してしまうかもしれない。赤は、プラスチックみたいな赤が好きで、金属的だったりラテックスみたいな赤は苦手だ。プラスチックの柔らかさが好き。僕は僕のテレキャスターの赤は好きで、ラッキーストライクの赤も好き。でも、テレキャスターの音は、有名なギターの中では、多分、一番モノクロだ。特に低音弦の灰色の氷のような音。テレキャスターがずっと人気であり続けているのは、ピックアップの切り換えや、弾き方やエフェクターによって、本来の音に、微妙な、嫌な癖の無い色合いを乗せることが出来るからだと思う。低音部から高音部にかけて、暗い水色から暖色に変化していくのも素敵だし、低音部は硬く、中音は膨らみがあって、高音には鋭さがある。ギターの中で、多分一番売れているストラトキャスターは、多彩な音が出せると思うけれど、音の感触は均一だ。エフェクターやアンプの設定次第ではどんな音でも出せるけれど、自分が出したい音を明確に意識していないと、無難にいい音しか出ない、実はとても難しいギターだと思う。テレキャスターは、デザインも、硬質さと丸みが可愛らしく融合していて、人工的で、それに比べるとストラトキャスターはまるで白い、太ったイカみたいに見える。

日本語の字面は大好きだ。英文の硬質さも好きだし、フランス語の、少し華美なところも好き。日本語の発音はずっと苦手だ。英語の音にすごく憧れてる。アニメなんかを見ていると、日本語の発音もすごく多彩でいいな、と思うけれど。会話で使われる英語は、少しぶっきらぼうに聞こえるけれど、英語の歌は個人的に、本当に完成された芸術だと思う。書き言葉としては日本語は最高だ。最近は、読書も出来るようになってきて、今月は特に日本の古典と英語の詩を読んでいる。

(……)
あまりに長い時間起きているので、目を瞑ると自分が何処にいるのか分からなくなる。今月の初日から、家の外壁の塗装やら、屋根の上の修善やらの業者の人が来ていて、朝から夕方まで、屋根の上で、ほとんど悪意を感じるくらいのけたたましい音で、ドリルで穴を空けていたり、何か金属をカンカン叩いていたり、それもずっと、和気藹々と大声で喋ったり怒ったりしながらなので、やかましいことこの上ない。窓のすぐ外に足場を作っていて、そこで何が言ったり、大きな声で笑ったり、ぶつぶつ言ったりしているのが、まるで部屋の中で喋っているように近く聞こえるし、どうしても話の内容が耳に入ってしまうので、気になるし、身の置き所もない感じで、気持ちが段々弱ってくると、二階の一室で引き籠もっている僕のことを、工事の人たちが何か不審に思っているんじゃないかと思ったりして、気の休まるときがない。ヘッドホンを付けていると、それでもかなり楽だけど、僕は昼間に眠る生活を続けていたので、日中眠くって仕方ないし、夜は習慣で目が覚めてしまって、睡眠がうまく取れずにいる。おまけに昨日は、網戸の補修をするからと言って、僕の部屋の網戸をふたつとも持って帰ってしまった。僕は煙草を吸うので、換気のためでもあるんだけど、どうも閉め切った部屋が苦手なので、真冬でも大抵、少し窓を開けている。網戸が無いと不便で、今は煙草を吸うときにだけ、開けて、すぐに閉めてる。どちらにしても、昼間の間は、窓を閉め切っていなきゃならないので、それも閉塞感があってつらい。……それでも、先月までの僕だったら、疲れ切って死にそうになっていただろうけれど、今少し元気なので、外の音に負けじとエレキギターを弾いたり、歌ったりして、たまに気を晴らしている。