メモ(断片)

「今ここ」に縛られているときと、「今ここ」に解き放たれているときがあって、「あ、関係ないんだ」と、急に気付くときがある。「今ここ」、僕がいる「今ここ」以外は、僕にとって関係ないんだと気付く。関係あると思っているのは、僕の止まらない思考だけで、僕が怖れている、不特定多数の人たちは、ここにはいない。友人たちや知人、僕に近しい、大切な人たちは、今、この夜の、遠いどこかで、きっと眠っている。ここにいる僕は、人知れず咲いている花や木と変わらない。僕は人間、動物、人形として、ここにいる。

書くのは苦しいことだろうか? 時に、それは苦しい。でも、考えてみればいい。全ては瞬き続ける粒で出来ている。あると思った瞬間、それは無い。全ては音楽。光る、音の粒。僕に出来ることは、普段、一所懸命、決めた勉強をやり続けること。技術を身に付けること。部屋を整理し、身体全体ひとつで生きること。

普段の苦しみや不安には意味があるのだと思う。不安や苦しみこそ得難いものなのだから。
全ては沈黙の中にいる。人間だけが喧噪の中にいる。
人形には感覚器官が無い。多分感情も無いだろう。それ故に人形の内面は何処までも静かで、豊かだろう。
たまには人形になってみること。あるいは石や花にでも。

ただ、石になったら、人になること。「高く悟りて、俗に帰るべし」だ。石になることが悟ることかは知らないけれど、

心を綺麗に整理せねば、と思う。いや、寧ろ、身体や物を整理しなくてはと思う。左から、右に、区画的に、綺麗に、整理する。

私は『新古今和歌集』が好きだ。それはとても記号的だからだ。今眼前にあるものや、生の感動のようなものを描いたものではない。万葉集は苦手だ。生々しいから。人が生きていて、生々しく感動するなんて、それが本気で、本心であるだけに嘘くさい。生(なま)の感動を、私は毛嫌いしているかもしれない。でも万葉集を記号として読むとけっこう面白かったりする。『古今和歌集』はどうか分からない。買った注釈書が少し良くなかったかもしれない。月は月、山はあくまで山であって、今眼前にある月ではなく、抽象的な、記号としての月を書いた感じ。それが私の体感にとても合っている。

一単語が他の一単語に溶け出していく。個物というものが本当は存在しないからこそ、私は個物が好きだ。全ての存在は溶け合っている。その中で私は個物を見いだして、それを愛す。

天国も、地獄も、本当は存在しない。ただ、指先に触れる、キーがあるだけ。全ての技術は無に帰する。無になることが出来れば、それ以上に技術は要らない。技術は常に磨いていなければならない。それだけはいつも肝に銘じていることだ。


焚き火の音がしている。いえ、それは私の頭の中で鳴っているのだろうか? 誰もいない場所で、何かを聴くというのは、不思議なことだ。聞こえているものが、まるで聞こえていないものの中間にあるみたいに思える。聴覚や視覚は、どんなに賑やかに感じられても、本当は物と同じくらい静かなのではなかろうか? 少なくとも脳の中に音は無い。

薬を飲まずに、僕は待っていた。あらゆる描写、言葉を収集することに、僕は時を費やしていた。僕は英語が出来ない。フランス語も出来ない。日本語だって怪しいものだ。でも、辞書を使ってそれらを読み解き、僕の脳に一行ごとにインプットしていくことは出来る。

僕の疑問はこうだ。仮に僕の精神に深いところがあるとすれば、そこには言葉はあるのか? 音楽はあるのか? それとも心の深層から浮かび上がる言葉? 泡のように音の粒が弾ける。(ぱち、ぱち)、私の世界を裏返してあなたに被せたい。

痛む心とか不安は何だろう? そんなもの、本当はどこにあるのだろう? 無いと言うこともまた出来ない。私はいつも私から逃げたい。それは嘘で、生きていく価値が無いのは、私ではなくて、私の人生の方だ。

パイプの音、コーヒーメーカーの音、(掃除機の音は嫌い)、洗濯機と乾燥機の音、電車の音、高速道路を車が走る音、遠いアフリカの音、お金の音、…音ってシンプルなのに鮮やかだ。

私は、ひとり、ここにいる。

何の不安も無くなって、僕の全力を出せればいい。僕の能力は分裂的で、数学的。

水の音がする。それも錯覚だろうか?

デスクと椅子
、ラップトップ
、パイプのベッド
、立ち並ぶ書庫
iPod&ヘッドホン&スピーカー
、CDプレーヤーとCD棚、、、アンプ、
、レコードプレーヤーとレコード棚
、ギター、ギターアンプ、、、ピアノ。少し大きめの絵が描きたい。

右から、左まで、世界を揃えていく。