メモ(小説についてなど)

よく人間には意識の階層がある、と言われているけれど、僕は自分の中に、大きく分けて、俗の意識と、内面的な(その一番底は無の)意識のふたつがある、と感じている。意識の底には、全くの無が拡がっている、ということが、段々本当らしく思えるようになってきた。(そこでも私は、ファズの効いたギターが鳴っていて欲しい。私はそういう人間だ。)意識の内側にいると、俗世間や、そこでの混戦した、嘔吐物みたいな悩みが、みんな錯覚みたいに感じられてくる。世俗を切り捨ててはいけない。夜の無人の遊園施設で踊るみたいに。内面(無の領域)と、世俗の両方に跨がった表現(創作)が出来ればいいと、いつも思う。音楽で私が好きなのは、ロック、エレクトロニカ、あとはジャズやクラシック、ブルース。リズム。そこには、情景と、人間の息吹とストーリーがある。そこにポップさが無ければ片手落ちだ。

僕は世俗の意識にいい加減疲れ果てて、隠遁する気でいた期間もあったのだけど、内面だけに興味を持っている間は、(その間、病気がひどくて)身体や脳が情報を受け付けない、ということもあったけど、本を読んだり、音楽を聴いたりして、一体自分に何の足しになるのだろう、と考えてもいて、今思えば、その間は、まるで自分が高尚な人間ででもあるみたいに思ってた。個人的に、ポップな音楽が聴けなくなったり、詩や小説が読めなくなると僕は危ない。内面的な救済だけを考えているとき、下手に悟りめいたものを得てしまったら、人を殺すことは、人を救うことだ、という、明らかに間違ったレトリックにもすっぽり嵌まってしまったのではないかと思う。少なくともそれを否定出来なかった。自分の内面に直接関係のありそうな本だけを読んで、瞑想状態に入るためにディープな音楽を聴いて。そうしてあくまで僕の場合は、間違いなく危険な方向に進んでしまってたと思う。

僕は小説が書きたい。でも僕は経験したことしか書けない。僕は本当に経験に乏しい。今は言葉を目一杯好きになって、分裂した数学みたいに英語とフランス語を学んで。昼の街を歩いて。夜の街を歩いて。イギリスに行って。小説はそれから書くのでもいいかもしれないと思う。

小説は「思い」だけでは書けない。「高く悟りて、俗に帰るべし」という言葉が好きで、よく書いているので、そこからの牽強付会気味だけど、小説には「軽み」が無くてはならないと思う。「軽み」は俗の中にいすぎても出来ない。「軽み」はもちろん「軽んじる」ということとは関係が無くて、……例えばそれは、現代というとても情報量の多い時代に、情報を避けたり、ネガティブに受け取るのではなく、情報の全てを前向きに受け容れて、その中を軽く泳ぐような感覚に連なると思う。感じる。現代性について、自分の立場から、あれこれ文句を言ったり、世俗の中で苦しんでいる自分(それはいつだって確かにいるものだけど)について書くのではなく、現代の現代性、世俗のこと、人たち、それらの全てが眩しいという感覚が、いつだって心の中には、確かにあると思う。刹那的に過ぎていく時間。それを完全に好意的に捉えることが出来ると思う。もちろん、小説は詩と違って、悪い人間、卑俗の固まりのような人間も出てくる。卑俗な人間は全く登場させない、という方法もあるのだけど、それでは世間について、全く偏った視点からしか描けない。悪や、苦痛、目を背けたいことについて書くこと(それは最悪なことに必ず、存在するのだから)。それはとても難しいことで、今の僕にとっての大きな課題だ。
……あと当然、技術力の問題もある。インプットが絶対的に足りない。頭の中で文字や言葉や物語が自然発生するくらいまで、情報を滅茶苦茶に取り入れなくては。

極端に言えば、人への愛情の為にだけ僕は生きているし、人からの愛情の為にだけ僕は生きている、という気さえする。人の中で死にたい。誰にも分かられなくても。

宇宙があって、宇宙の真理があって、でもそこにこの「僕」は含まれないし、「君」もまた含まれない。けれどそんな真理は、本当の真理ではない。心の宇宙にはもちろん、僕も君も含まれている。静かに、眠るように、夢見るように。

奇麗な声を出すのではなく、身体全体から声を出すこと。全身の細胞から。僕の世界全体から。

美しい言葉ではなく、僕の全てを込めた言葉が書きたい。

何にしろ、英語の習得は必須だ。英語に心を込められるようになりたい。日本語でもまだそれは難しいことだけれど。

いろいろなものを、手で撫でるのが好き。

卑俗の極みと、完全なる無の両方を知りたい。地獄と天国の両方を見たい。

何もしたくないとき、というのは、心が動かないんじゃなくて、寧ろ心が疲れているんだと思う。心は活動したがっている。