身体感覚のこと

イヤーパッドを換えてリズムセクションが聞こえやすくなったから、リズムの重要性を考えるようになった、と言うよりは、僕自身の音楽に対する意識が少し変わった気がする。メロディや音色に感動したり、和音を美しく思ったり、頭で考えて、何て不思議なコード進行だろう、と関心することはあったけれど、つまり感情や思考では聴いていて、音楽からいろんな風景や色を感じたり、ミュージシャンが(もう死んだ人であっても)本当に生きている、と感じることも多かったけど、唯一、身体では聴いていなかった。音楽を身体で感じることが、絶対に必要か、と言えば、別にそうでもない気がするのだけど、身体感覚を援用した方が、音楽と、より親しくなれることが多いと思う。例えば楽譜だけを読んで感動する時には、身体感覚は使わなくていいと思うんだけど、演奏を聴くときには、感情や思考だけで黙々と聴くより、骨や心臓や全身で聴く方がずっと気持ち良くて楽しくて、ときには一緒に歌ったり、身体を揺らしたり踊りながらだと、音楽とずっと仲良くなれることが多いと思う。別に身体を動かさなくても、身体全体で音楽を聴くイメージがあると、頭のてっぺんから、脳の灰白質シナプス扁桃体や、喉や血管や肺やお腹や、爪先の毛細血管に到るまで、そして全身の神経の全てが、音楽に満たされていく感じがして、麻薬よりずっと無重力で快感だと思う。快感って、脳にだけある訳じゃないから。それに、ただ単純に快感なだけでも構わないと言えば構わないのだけど、音楽に完璧に満たされて、音楽と一体化出来た方が、音楽のとても深い場所に行けると思うし、作曲家にもミュージシャンにも、もっと近付けると思う。
聴くときにはともかくとして、演奏は明らかに身体的であらざるを得ない。楽譜を書いたり、ラップトップで音楽を作る方が、あまり身体を意識しない分、精神的と言えるだろうか? でも、芸術家の仕事って、それだけじゃないにしても、やっぱりエクスタシー(の受信と送信)だと思うし、エクスタシーって、脳の働きではないと思う。どちらかと言うと、生きている全身の細胞とかの働きなんじゃないかと思う。身体全体の、神経や、流れる血や、骨や皮膚や、それらの全てが一体となって、例え実際に動かすのは指先だけであっても、そこから流れ出すものは、全身の声だと思う。あるいは空っぽの脳に受信された何か。そのままでは形にならない何かが、身体を通して、身体を満たして、声を得る。個性とは会得された身体。例え、普遍的な着想を得ても、それを形にするのは、個別の身体だから、個性があるのであって、そして人にとって一番楽しいことは、自分の、何から何までを賭した、自らの個性の発揮なんじゃないかと思う。ごちゃごちゃ考えることはきっと、誰にとっても苦痛だし、ぼんやりすることも多分苦痛だ。普遍的な考えを得たと思っても、違和感や不安が去らないなら、それは普遍的な考えではない。心や身体のどこかが、その考えに違和感を抱いているからだ。違和感を無理に抑えようとすると苦しいし、自分自身の分裂をさらに深めてしまう。自分自身の内部が分裂していることは、内戦を抱えているようなもので、それを無視したまま、がんばって創作したとしても、決して満足出来ないし、個性と言うよりは、個人の恨みみたいなものしか表現出来ないと思う。完全に満たされること、自分の心と身体の底から、心と体の全てを込めて表現すること。頭で考えられたものは、個性とは関係がない。何故なら、そこには自分自身の声が含まれないからだ。
(急に元気が無くなってしまって、これ以上書き続けられなくなってしまった。毎日の練習や勉強や読書がとても大事だ、ということを続けて書きたかったのだけど。どことなくネガティブな感じの終わり方になってしまった。演奏について、例えばグレン・グールドが大きな声で歌いながらピアノを弾くのを、アンドラーシュ・シフが「ピアノに歌わせるべきであって、ピアニストが歌うべきではない。グールドはタッチのずれを、大きな歌声で誤魔化している」と批判していたのだけど、僕はどちらかと言うと、歌いながら弾きたいグールドの気持ちに惹かれる、ということも書きたかった。また、元気が出たら、続きを書くか、別の散文を書くと思います。)