メモ(忘れたくないものたち)

前の文章(『(抑鬱状態で書いたメモ)』)は、かなり孤立した気分で書いたのですが、ロラン・バルトの「言語は皮膚だ」という言葉にかなり影響を受けています。本当の……かは分からないのですが、人と人との、強い繋がりは、孤独…、孤立した心同士に起こるものだ、とずっと思っています。人にはおそらく、繋がりたい欲求があると思うのですが、それが普段の会話や交流の中ではなかなか満たされないために、慢性的な寂しさに陥っている人が、とても多いのではないか、と思っています。意識的にしろ、無意識的にしろ、日常的な意識より深い部分が人にはあって、本当はその場所で繋がれたらいいと、みんなとは言いませんが、多くの人が思っているのではないか、と思います。僕はやはりコミュニケーションに興味があります。まず、自分自身が、他者との比較ではない、フラットな自分を知らなければ、他人との関係も表面的にならざるを得なくて、本当の(?)交流は出来ないのではないか、と思います。伝達することについて、少し書きましたが、本当は僕も、そのことについて、もっとよく考えて書いてみたいと思っています。「伝達」とは、もしかしたら本来あり得ないもので(何故なら個人は個人の枠、自分自身の宇宙を出られないから)、でも、それでも伝えたい、という思いがあるし、何かが相手に、また自分に伝わった、という感触が確かにあるならば、(いえ、それは確かにあるのですが)、それは一体何なのだろう?、どういうことなのだろう?、とよく考えます。あまり考え込みすぎるよりは、実感として繋がりがあるのだから、で終わらせた方がいい話題なのかもしれませんが、単なる連帯感以上の何かを得たい、と思うならば、自分の表現について、そして自らの孤独について、ある程度以上は意志的に考えた方がいいのではないか、と感じます。少なくとも僕は、考えずにはいられません。繋がれる(かもしれない)って、本当に不思議ですよね。単に読んで面白いとか、見ていて綺麗だとか、表面的にぱっと見て分かる才能以上の何かが、例えば歴史に残るものや、自分にとって特別な作品にはありますね。作品に限定しなくても、単に感覚を楽しませてくれる以上の何かを感じるものに出会うことは多いです。自然にまで話を拡げると、今の僕には収拾が付かなくなってしまうのですが、自然にしても、そして宇宙にしても、そこに単なる(目を喜ばせてくれるだけの)美しさ以上の何かを感じるならば、「繋がりたい」「伝達したい」という欲求のようなものが、自然や世界にさえ、その根本にはあるのではないか?、ともしかしたら荒唐無稽なこと、妄想かもしれないことを、僕は考えます。自分には縁が無いと思って捨ててしまった後期のヴィトゲンシュタインの本(ほぼ全てコミュニケーションについて書かれていますね)をもう一度紐解いてみようか、とも考えています。ひとつ、僕は、宇宙を知ること(大袈裟に言えば悟ること)と、人との交流は、全然相反するものではないと思っていて、「高く心を悟りて、俗に帰るべし」という芭蕉の言葉がずっと好きで、本当のことだと思っています。例えば、修行したあげく、(自分たち以外の(多くは市井の)人にたいして)排他的になる宗教などは、何がどうとは、どうしてもうまく言えないのですが、僕はそれは違う、と思っています。という僕も、悟る(というとどうしても大袈裟なのですが)には、世捨て人にならなければ、と思うことが多かったのですが。産まれながらの賢人なら分かりませんが、僕はどうしたって俗人なので、俗っぽさから決定的に離れてしまうと、人を人とも思わなくなるかもしれない、というような危うさを、自分に感じています。人の感情がやっぱり好きです。
少し話は変わるのですが、テクノロジーの進化によって、個人同士の内面的な繋がりは、おそらくとても得やすくなりましたね。こうやって、僕が朝、一人で黙々と書いて、それを読んで貰えるだろうことも、テクノロジーのおかげですし。
人が皆、個人的に自分の精神や幸せを追求し、その中で、内面的な人との繋がりを得ることが出来て、しかも自分と人との比較や、人がどうこう、ということを誰も気にしない世界を夢見ます。
いろいろ書きたいことは、いつもある気がします。伝達することや、コミュニケーションについても、もう少し、改めて書きたいと思います。なかなか頭が纏まらないときも多くて、かなり気まぐれに書いているのですが。
唐突みたいですが、僕は自足の心が欲しいです。そのために、自分を人と比べることをやめたいし、自分の内面は、外部とはほぼ(全然、というのはおそらく無理ですが)関係なく、自分自身で満たしたい、と思っています。かと言って自己完結はしたくない。内面と外面を使い分ける、というのではなく、自分の表面的な思い込みを取り払って、ありのままに外部に接したいです。誰に何を言われようと、自分に何が出来ようと、出来なかろうと、関係なく。今、ただこの場所に生きている自分。ただ単純に生きている僕が、ただ単純に生きている誰かに、何かを届けられたら素敵だと思います。表面的な感情や評価で馴れ合ったり、いがみ合ったりすることには、少し疲れてしまいました。今までは僕は、苦しみや不安を、ありのままの自分と取り違えていた気がします。もちろん生々しく苦しいのは確かなのですが、本当に伝えたいことは別にあると、最近は思います。人の苦しみや喜びを「表面的だ」と言って軽んじることは全然したくないのですが、というか、人のあらゆる感情や仕種などに、僕は一番の眩しさを感じるのですが(みんなその人なりに、精一杯一生懸命だと思います)、そして僕は、人との関わり合いから逃れたいとは全然思わないのですが、出来れば僕は人情的などろどろしたものの最中に、自分自身を投じることは、もうしたくありません。もしかしたら、小説を書くかもしれません。物語は、どんな小説であれ愛おしいし、最近は人の書いた詩も、書いた人なりの心情を感じるようで、現代詩フォーラムでも、例えば、今は投稿された詩を全部読んでいますが、読み進めるたびに、みんな生きてるなあ、というような、もしかしたら少し上から目線で見ているような意識が僕にはあるのかもしれませんが、不思議な感慨に打たれます。
分かってもらおうとすると、分かってもらえないものです。また、あんまり分かられても困りますが。ただ、内面の言葉を、そうっと置くように、差し出すように、言葉を紡げたらな、と思います。
世界が無だというのは本当のことだと思います。でも、無にしても何にしても、何かを愛おしいと思う僕の気持ちは、無ではないし、たとえ無意味であっても、捨ててはならないものだ、と僕は強く感じます。世界の真理なんてあっても無くてもいい、とは、それでも思わなくて、やっぱり内面の底に、真理は必ずあるし、でもそこに辿り着いたとして、世界は何も変わらないだろう、と思います。ただ、全てがあるままにある、ということが分かるだけだと思います。ありのままの気持ちがあって、ありのままの人たちがいて、ありのままの物があるだけでしょう。仮に、僕が、例えば言葉や音楽で表現するとしたら、ありのままのものたちが、ありのままにある、というところで、奏でられたらいい、と思います。そしてそういう、自分が表現したいもの、というのはさて置いて、僕はチープなものや、俗っぽいもの、ポップなものが、何故かとても好きです。キッチュなものが好きだ、ともよく思います。
……僕はあまり哲学的な人間ではないのではないか、とよく思います。どちらかというと、感覚的で、感情的な人間だと思います。僕は昔から肝に銘じていることがあって、どんなに大したことが分かった、と思っても、ニック・ドレイクの音楽と、中原中也の詩を、静かな気持ちで味わえないときには、僕は何か間違っている、大事なことを忘れている、と思うことにしています。「倫理観」を忘れて思惟一辺倒になってしまうと、どんなに論理的に物すことが出来たとしても、中身は空虚です。「倫理観」という言葉は、10年以上、常に僕の頭の隅にあって、その意味が分からなくなってしまったときでも、「倫理観」の大切さを実感した記憶は残っているので、「倫理観」についてよく分からなくなっていた間、常に自分や、自分の書くものには、何か大切なものが欠落している、という意識がありました。
まだまだ書きたいことがあるのですが、少し眠くなってきたので、一端中断します。ともかく、僕はとても回復していて、特に「好き」や「愛しい」の感情が、自分の中にまだ残っていたことは、本当に奇跡のように有り難くて、何にかは分からないけれど、本当に心から感謝しています。生きていることは、いいことだと、最近は思います。