生きていたいと思うこと

この頃よく考える。今努力出来るなら、今すぐ、出来るなら、努力すること。自分が身に付けたこと。それだけが本当に自分の持てるものなのだから。本当は、自分には何も出来ない、と自己嫌悪するより、今自分が出来ることをした方がいい。それは誰もが言っていて、誰もが分かってはいることだと思うのだけど、それを実行するのは、とても難しいことだ。不安の力は、とても強い。自己嫌悪は止まらない。少しくらい何かをやっても、仕方ないと思ってしまう。それに、生きていきたい、という前向きさ自体、持てないことが多くて、僕は焦りながら、何かしなきゃと思いながら、何にも出来ずに、ずるずる生きている。海の向こうに星空が見える。でもその星は、自分にはとてつもなく遠くて、手を伸ばせば伸ばすほど、無力感と空虚感に苛まれてしまう。イソップのキツネの話みたいに、「あそこに届いたって、どうせ大した幸せがある訳じゃないんだ」と、昔は確かに輝いていた星の輝きに、手を伸ばすことさえやめてしまう。光でさえ虚ろに見える。生きて輝いている人たち、彼らだって、結局は死んでしまうのだ、と思う、自分と同じく、みんな死ぬんだ、と、無情感にさえ襲われてしまう。そして僕は詩を書いたりする。暗い、諦めの詩だ。でも同時に、僕はやっぱり求めている。生きている実感に、星の光に、骨の底から感動、、静かな感動に、満たされて、何もかもが理解(?)できてしまったような確かな感覚に、今までの自分の生の全てに意味があった、生きていることには確かな意味があるのだ、と心から感じられる瞬間を。永続する時間を。永続と消失のさなかに自分が今も生きている、という確かな、そしてやっぱり静かな感情を。感じたい、その場所に行きたい。……でも、そんな場所、僕には行けないかもしれない。でも、大袈裟かもしれないけれど、僕はその場所を求めることをやめることが出来ない。誇大妄想的なのだろうか? でもね、何にしろ、それには、きっと、諦めないこと、泣きたくなっても、もう人生なんて捨てたいと思っても。ひとり、深い泥沼に沈んで、息の出来ないときだって。悲しさに塗れて、それどころか感情の火が消えそうになって、誰にとっても自分が塵よりも無価値だ、と思えるときでさえそうだ。諦めないこと。それでも人生は無意味ではないのだと、実感抜きで、単なる言葉面だけでもいいから、自分の中の小さな小さな希望を、信じてあげること。それだけで、生きることが楽になるとは思わない。一歩一歩、ほんの少しでいいから、僕は、進んで行きたいと思う。楽になれるかは分からない。ただ僕は僕の生には価値があると、信じている。諦めながら、自己嫌悪しながら、進めたらいい。辿り付けるかも分からない。でも、もしかしたら、いつか、きっと……。僕は努力したい。たとえ死ぬまで苦しみを抱え続けたとしても、それは、それで構わない。僕は、今、生きていきたいと思っている。それだけだ。