雑記

この世がたった一回きりだということは、きっと本当のことだ。みなが個人的に繋がれたらいいと思う。ひとりひとりに、音と光に満ちたサウンド・ルームがあって。

この世から別れていくことが、僕には悲しい。だって、この世界はいつも、目映いほどに美しいから。

いつか総合小説が書きたいと思う。僕自身の一人称による心情の吐露だけじゃなくて、様々な人の感情が折り重なって、絡み合って、織り上げられる、ひとつの世界。人たちの心の底の暗黒の領域。今生きているこの世界を、感嘆の気持ちで、外から見られるような、視点が欲しい。

声を使いまくりたい。僕は、トム・ヨークのように、テクノに合うような澄んだ、綺麗な高音は出せない。どうせなら、どんどん歌い込んで、嗄れてノイジーな声になって、ボブ・ディラントム・ウェイツみたいに歌いたい。ちょっとだけ、僕の声には中性的なところがあるけれど、声にノイズ成分が多くて、あまりポップじゃない。本当は少女の声がいいな、とずっと思っていたけれど、それはまたサイボーグになってからのこととして、今はこの声と、ずっと付き合って行くしかないんだ、別に、そこまで悪くないじゃないか、と最近は思っている。ずっとずっと自分の声が嫌いで、今も大好き、って訳じゃないんだけど、嫌いだ嫌いだ、と長年言っている内に、何かもう、仕方ないかな、と腐れ縁のような気持ちを感じるようになってきた。ボブ・ディランの声なんて全然羨ましくも何ともなかったのだけど、最近はディランの歌声に魅力を感じている。こんな風に歌えばいいんだ、と思う。もちろん僕はディランとは全然違うけれど。最近はブルースだって、古い古い音楽や文学だって、それはそれできちんとポップな世界と繋がっている、という感じがする。

この世に一度だけ生きられる。自分に関するあらゆるものを選ぶことが出来ずに。生まれ変わりなんて、僕は信じていないかもしれない。ともかく、地上に富は積めないのだ。一回切りしか生きられない。

ニルヴァーナの音楽は、個人と宇宙の対話みたいだと思う。人への愛もあって、でもその愛は張り詰めている。生きるか死ぬかの迫実した対話と恋愛。

どうせ死ぬのだ。という気持ちと、生きて、この世界の全てを知りたい、という気持ちがない混ぜになっている。死んだら全てが終わりだ。いや、文字通り全てが終わりではないのかもしれない。でもきっと、生きている僕は永遠に消えるし、永遠にこの世には帰って来られない。

私は私の声や吐息で語りたいし、私の言葉以上に語るのは、私の指先や手のひらの湿度かもしれない。人との間の、微妙に、決定的にずれた距離。半地下になった窓ガラスを流れる、深い神経症のような雨垂れ。優しい真実には戻れないかもしれない。死んだら真理にはなれるかもしれない。でも人の感情の中には戻れない。私は小説が好きで、詩が好きだ。死んだらきっと、言葉よりも深い場所に行くのか、遠い場所に行くのか、元いた原始で未来の場所に行くのか、何にしろ多分、もう言葉の必要ない場所に行くと思う。でも私は言葉が好きで、人が好きで、今生きている現在のこの世界が好きだ。

物欲もある。地上の富は死後には持って行けないし、天上にはきっと富は積めない。だから生きている時間の束の間の朋友としての、物が欲しい。地上の富、すなわち現金も貯めなくてはならないけれど、いつ死ぬか分からないばかりで、私には貯蓄の才能が無い。今欲しいのは、……いろいろあるけれど、例えば、MartinのOO-15Mというアコースティックギターが欲しいし、白山眼鏡店の、晩年のジョン・レノンが愛用していたモデルの眼鏡が欲しいし、ジャスティン・デイヴィスの、女神のシルバーペンダントが欲しい。ただ息をするように生きればいいんだと思う。人の心の底には、深緑の波紋に囲まれた、夜の領域があって、私は、ただ自分の底に辿り着きたいばっかりに、そして人の感情の底に輝く小さな輝きに手を伸ばしたいばかりに、生きている。何気ない仕種に胸を刺されたい。人間の世界の、宇宙よりも広大な調和と、そこで奏でられる音たちに、じっと耳を澄ましていたい。

大きな川に掛かった橋を、車に乗って抜けていく。橋の向こう側にはレプリカみたいな、わくわくするような、同時に少し不安を感じるような街の光があって、僕はいつまで経っても橋を抜けられない。ここさえ抜ければ、という仄かな望みが、段々重苦しくなってくる。速いスピードで走り抜けているような、停車しているような、どっち付かずの気分だ。

一直線に生きて、死ぬまでのこと。