メモ


この頃僕は、自分のことが本当にどうだっていい。かなり明確に死に惹かれている。僕は多分、けっこう苦労してきたと思うのだけど、それというのもやはり、自分の生にあまりに執着してきたし、何かを取り戻そうと躍起になっていたと思う。生きることは、死ぬまでの、ほんの少しの間の旅のようだ、と思うこともある。と言って、すぐに自殺するつもりもないのだけど。自分を守ることをやめたいと思う。

僕は苦労して生きてきたのだろうか? 今僕はこれまでの自分の苦労を、あまり実感を持って思い出せない。僕にとって本当の転機があるとすれば、それは僕が死を、目前のこととして意識したときだけじゃないかと思う。

僕には、人は結局は皆同じなんだ、という根拠はあまり無い、信念みたいなものがある。表面上は、人々はそれぞれ個性的に生きてはいるけれど、少し心の奥に踏み込んでみれば、誰だって多分、同じなんじゃないか、って。似ている、というのではなく。言葉が意味を成さなくなる領域が、人の大部分を占めていて、そこでは人は皆、文字通り同じなんじゃないか、って。

10代の頃は、僕は救いようもなく絶望していて、言葉と音楽だけが、僕の生(現実)の全てだった。20代の初め頃は、言葉と音楽に加えて、人を好きになった。その頃は、本当に死のうと思っていたので、空虚で憂鬱であっても、ある意味楽だった。そして今、その時の気分に、とても近い状態でいる。言葉が好きで、音楽が好きで、人が好きだ。そして今、僕はいつだって死ねる。

揺らめく水の中で裸でいるように。文面を超えた場所で、人と交流し合えたら、どんなにいいだろう、と思う。お互いに消えゆく存在として。お互いに永遠を願い合えたなら。僕はただただ、生きている存在として、生きていたい。僕は表面的な人間で、気分や考えにむらがあって、適当なことばかり言っている気がするけれど、たまには本当のことを言いたい。

 

1月25日、
遠い気持ち。生きていることは透明で、とても遠い。風の音がする。窓の外をバイクが走りすぎていく。遠くの、霧を抜けてくる、高速道路の音。あれは、どこまで行くのだろう? 空の高いところで鳥が鳴いている。草の匂いもする。風が冷たい。

何かしなきゃ何かしなきゃ、と言っている内に、人生は終わってしまう。

小説はまだまだ書けない気がする。僕は10年間、食べて寝る以外殆ど何もせずに伏せっていた。創造性とは記憶だ、とジェイムズ・ジョイスも言っていた。僕には経験、特に人たちの中で生きた、という経験が、絶望的に少ない。人間をもっと知りたいし、人と人との間の距離感や、気まずさや、神経質さ、優しさ、空気感をもっと知りたい。人間の感情についてもっと知らねば…、もっと知りたいと思う。

 

1月26日、
生きていたい、知りたい、という気持ちが何より重要だ。人生には時間がそれほど無い。僕は、まだ多くの時間、混乱や空虚感の中にいる。

ありきたりな生なんて存在しないし、存在するとしたら、それは本当に得がたいものだ。この身体だって。この心だって。人たちの中にいるという、実感だって。

 

1月27日、
世界は5120億あるとか。無限にあるとか。でも僕が生きている現実はこれ一つで、僕がいなければ、この世界は存在しない。そして同時に、この世界には、どうしても他人がいて、皆がその日その日を生きている。他人って、思考の中では、いるのだかいないのだか分からない。でも、僕の中には、人が好きだという気持ちがあって、人が「実際的に」「現実的に」存在しようが、しなかろうが、結局はどうだっていいことだ。例えば身体がそう。身体が本当に存在しても、幻想であっても、僕には同じことなんだ。人が人形であろうが、ヴァーチャルであろうが、僕にとって人の感情がこの世で一番に興味深いものであることに変わりは無いし、人との優しい、また神経質だったりする、微妙な距離感について書くことが、今、僕が一番にしたいことだ。どんなに美しい創作であっても、そこに人間の存在が無ければ、優しさが無ければ、ただの感覚的な伝達手段にしかならないと思う。人の心の、無意識の宇宙の底に届くものじゃなければ。生きていることの喜びや、芸術の楽しさだけじゃ、届かないんだと思う。苦しみや涙、困惑や後悔や、狼狽や、人と理解し合えないこと、すれ違い。……僕の心情を吐露すること、後悔や孤独、人との間の永遠の距離、ちょっとした仕草や、敬意、人間に対する、ひとりひとりへの最大限の好意。そしてそれ故の寂しさについて。ハイになって描くことじゃない。人に向けて描くこと。奏でること。僕が生きているこの世界と、そして今生きている人々に向けて、今ここに生きている僕の言葉を、神経質で不器用な、人との無限の距離をいつか超えられるかもしれない、細い細い希望に縋って、書くしかない。

それさえ書けたら、死んでもいい。母はよく、健康寿命はあと10年くらいだから、元気な内に美味しいものを美味しいと言って食べるようにしている、という。僕は、そんなものかな、と思う。僕ははっきり言って、今すぐ死んでもいいからだ。でも死ぬ前には遺書を書きたい。詩と小説を書きたい。……だから、つまりはまだ死ねない、ということになるのだけれど、憂鬱で空虚なまま、ときどき消えたくなる。今は、もう、このままで死んでもいい気がする。奇麗な奇麗な、この世からの消滅。

鬱の間の何年間にも、たまに友人に会っていたけれど、僕はどうしても生きた人間として話すことが出来なかった。最近になって、友人に会って思ったのは、僕はすぐに、自分だけが生きていると考えがちだ、ということだ。世界が仮定的であるのも、無だというのも、世界が無限にある、というのも、多分本当のことだろう。同時に、僕はこの世界にいて、奇跡的に与えられた一回きりの生を生きている、というのも本当のことだ。どちらかひとつが正しい、という訳ではない。世界が全て非現実に見えたり、無意味で、まるでヴァーチャルみたいに見えたりするのも、世界が現実として確かに存在するのも、両方同時に、間違ってはいないのだと思う。世界に対する強い好奇心と興味が無いと、僕の心は死ぬ。同時に、人が好きじゃないと、僕は世界の大切な面を全く見失ってしまう。

心。言葉。何だっていいじゃないか、と思う。自由に生きられれば、それで。

慢性的な怠さと、楽しいときにでも必ず心の中に巣くっている虚無感。

何にも要りはしないのです。持てば持つだけ不幸になるのです。だってこの世は仮の住まい。仮であって完全な住まい。すっきりと透き通った世界を生きたい。大切な大切な大切なものだけを、傍に置いて暮らしたい。地味に個人的に生きたい。もはや、最初から何も知らなくていいのです。何かがこれ以上要ると思うから不幸になる。性欲だって、もはや要らない。

 

1月28日、
生きていることだけの総体になりたい。何も要らない。これから50年も生きていく自信は無い。何も無くなって、空っぽになって死にたい。最近は死ぬことばかり考えている。どうやって死ぬかが問題なのだけど、何となく、死に方を今考えなくても、ともかく死ぬつもりでいれば、どうにかなるのではないかと思う。飛び降りるにしても、首を吊るにしても、銃を手に入れるとしても。死ぬ準備を万端にして、それでおめおめと生き長らえてもいい。高きより飛びおりるごとき心もてこの一生を終るすべなきか。あるいは、おめおめと生きながらえて、今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ、みたいになるかもしれない。啄木と朔太郎。どちらもあまり好きじゃない。ゆっくりと、しっとりと、落ち着いた気持ちになりたい。毎日が晩年か、束の間の余生であるかのように生きたい。それは、何せ事実だから。いつ死ぬか分からない、そして必ず遠からず死ぬ生を生きているという点では、赤ん坊も老人も変わらない。生を惜しむ気持ちが厭だ。まるでずっと生き続けるみたいに、未来に甘えて生きていくのが嫌だ。何もかも無くなるんだ、と思うと、ほっとする。人類はきっと発展していくことだろう。多分、精神的には今は退化している時期だと思うけれど、いずれば精神的にも、誰もが幸せになれる世界を作り上げられるほどに、進化するだろう。僕はほんの少し、この世界に幸せの種を残して死ねたらいい。だからきっと誰も恨まずに死ぬだろう。

あれこれ考えないようにしようと思う。死んで、消えることだけを信じよう。それが、帰ることだということも。僕は宇宙としてではなく、どちらかというと社会的な存在として死にたい。

本当にいつ死ぬか分からないし、死んだらもう、戻ってこれない。今日でこの風景とはお別れなのではないかと思う。生きているっていうのは、本当に奇跡だ。自分がいる、ってことは、本当に不思議だ。