水の雑記

1月23日、
この世を心の底から愛したい。全てに温かく包まれたいし、全てを温かく包みたい。窓から差す月の光が似合うような、小さな、柔らかい音のするピアノが欲しい。シンプルな飾り模様の付いたドレーキップの窓。古い絵の掛かった、ハシゴみたいな廊下。夜の高速道路の音。森を抜けて、月の光に漉されてきた、夜の風の匂い。馬鹿みたいにぽっかりと浮いた月……幻影みたいに病的に遠い。草いきれの中の朝の匂い。発光するような髄液……。どこまでも、どこまでもどこまでも続く電線。

完璧な1月の、完璧な土曜日。冷たい陽。模様のある歪な、大きなお皿が、お腹から胸の辺りに埋まっているような、平坦な気分、吐き気。私は古い録音が好きだ。何千年もの間、そこを通った参拝者の、何千万もの靴底に磨り減った、大聖堂の入り口の石畳のように。私は花だ。海の底に永遠に咲く花。そして私の身体の中には、胸の底には白い花が咲いていて、誰もそこには触れない。音楽、そして言葉だけが、その花に触れられる。私はいつか、誰かの心の中の花に、そっと触れられるような言葉が書きたい。そうっと、水滴を宇宙から落とすような音を奏でたい。

劣等感。日本語が昔から嫌いだ。嫌いで、好きだ。型に嵌まらないでいいんだ、と最近は思う。

 

1月24日、
世界が手中にあるような感覚。世界はとても小さくて、僕が生きているこの世界で、僕は何だって好きなことが出来る。いろんな本が読めるし、小説が書ける。何でも学べるし、好きな歌が歌える。何にもしたくないときが多いけれど、生きていることが、不思議であると同時に、何よりも得がたい、奇跡的な喜びだと思えるときがある。生きていることが苦行であると思うときもある。ただ生きていること。この世界があるということ。(幻でも何でもなく。)何故かあるということ。???、、、誰とでも会えるし、話せる。……その奇跡を時々、いや、ほとんどの時間、忘れてしまう。

全てが嘘で、嘘みたいに美しい。嘘じゃなくて、何もかもがこのままでいいんだ、と思う。人との間の距離。気まずさ。緊張。後悔。卑屈さ。言葉に出来ること。出来ないこと。緊張。表情を繕う。時々そういう自分、そういうことしか出来ない自分が好きだ。不思議で。ひとりでごちゃごちゃ考えている自分と、人といてもじもじしている自分。どうしても人に反応してしまう、自分の奇妙な不器用さが嬉しくなるときもある。小さな、小さな、人と人との世界に住んでいたいと思う。可愛らしい、馬鹿らしい世界。安心感と緊張感がない交ぜになった気持ち。自分の挙動のいちいちが自分に映る。

何でもないような言葉に、どうして嬉しくなったり絶望したりするんだろう? 気になることは、何故、頭の中を支配し続けるのだろう?

普段、僕は無意味なことを馬鹿にしている気がする。無意味に美しく、無意味に可愛い世界。人生は暇つぶしなんかじゃない。ひややかな、ひややかな距離。神経質で、不器用な優しさ。

人と人との間の距離感や空気感だけを書きたいのかもしれない。同時に世界そのものを書きたいという欲求もあって、世界全体の見方についていっぺんに書いてしまいたいと思うことも多い。人の近くに居たいという気持ちと、たった一人で世界の全てを知りたいという気持ち。どうせ一人になるなら、本当に何ヶ月でも一言も話さないでいいくらい、完全に一人でいたい。その後で人と会いたい。「高く心を悟りて俗に帰るべし」。自分の考えだけに浸ると、僕の場合、とても危ないな、という自覚がある。他人に対して、いちいち批判的になってしまうし、何より偏狭な自己批判でいっぱいになってしまって、何か歪んだ自分を正しいと思い始めてしまう。楽しいことよりも、正しいことを求め始めたら危ない。正しさは相対的なものだ。様々な、多層的な真実があって、そのどれもが正しい。唯一正しい世界観は、多分、存在しない。生活している人たち、僕が馬鹿にしてしまいがちな人たちが、浅い世界を生きている訳じゃなくて、彼らはもちろん、僕と同じように生きているのだ、という自覚を常に持ち続けること。世界は、僕一人だけの世界じゃない。僕は、世界で最後の一人になった訳じゃない。

近付きすぎると離れてしまうのは何故だろう? ある距離感を保っている人の方がずっと、その人の存在を感じるのは何故だろう? 親しき仲にも礼儀あり? あまりに密着してしまうと、その人が見えない。見えているつもりでも、多分、自分の目の前にある事象以外には目が行かないので、その人の全体像を想像してみる、ということが出来なくなる。想像のし合いで、人間関係は、多分、出来ている。昔の人が、ほとんどひとり合点な妄想みたいな恋愛をして、詩や短歌を送り合ったように。でも、その方が余程本当の恋愛なのかもしれない。セックスもせずに、月の下で、一晩泣き明かしたりとか。近付けば、その人が理解できるなんて、幻想だ。お互いに想像の余地が無くなってしまったとき、人間関係は終わってしまう。淡い距離をずっと保つのは、でも、とても難しい。多分、お互いに相手の反応に自分の反応を合わせるようになったとき、関係性は透明な想像の領域から、不透明な、べたべたしたものになってしまう。相手が自分に何を期待するか、コントロールしたくなってしまう。相手が自分に何を期待して、自分が何を相手に期待するか、、、期待外れの反応をしてしまうと眉を顰められるのがとても怖いし、相手もまた、自分の期待外れの言動を取ることはざらにあるのだ、ということを忘れてしまう。予定調和的な関係は美しくない。予定調和はとても息苦しい。一人になると、僕は往々にして、一人だけで完結した世界を作りがちで、それで小説を書いても、僕の独り言にしかならない。人が好き、という感情が抜けてて、人を無意識の内に怖れている。自分の考えが喋っていて、また他人も自分の考えが喋っている、自分にとってはとても都合のいい世界だけが出来てしまう。

誰もを愛することは、個人ごとを愛すること。手中のものではなく、届かないものを愛すること。それから、この世界に生きていることを楽しむこと。

(彼女はしぶとくなかなか帰らなかった。僕は意地になって煙草を吸っていたけれど、そろそろ喉が痛くなってきていた。仕方がないので、浅い陽の差す窓ガラスに目をやって、それからベランダのアボカドが沈黙しているのを、真面目な顔を作って観察していた。)

僕は美しい物を持っていて、たまにそのことで幸せを感じる。何かを欲しいと思ったり、何かをして欲しいと思ったりしながら、でもそのことで感じる不足感を超越したいと思ったりもする。