メモ(生きていること、いないこと)

1月12日、
死んだら楽になれるだろうか? しばしば、僕は死ねないのではないかと思う。生きている、とは、多分死ねるということだ。でも、すとん、と身体が死んでも、苦しみみたいなものは残り続けてしまうのかもしれない。消滅、なんてこの世界には無いのかもしれない。生活は消える。宇宙も消える。でも、世界は消えないのかもしれない。感情や魂、あるいは思念みたいなものは、どこかに残り続けるかもしれない。

ときどき、心に引っかかる、この世界に生きていたい気持ちがあって、今日はどういう繋がりで見たのか、YouTubeで、最低の映画を酷評するという動画を見ていて、何かみんな生きてるなあ、と思った。お金や自己満足の為にだけ映画を作る監督も、それを見て最悪だとか言う人たちも、離れて見ていれば、可愛いみたいに感じられる。『人間失格』みたいに、自分だけが他の人を理解できない、生きているとはどういうことか分からない、と言いたくなる気持ちもあるけれど、それは多分、薄々皆思っている気持ちで、つまり自分には内面があって、それを生々しく感じられるけれど、他の人たちのことは、どうしたって表面的にしか見えないので、急に人のことが全然分からなくなって、ぽっかり孤立するような、虚無的な気持ちになることって、きっと誰にでもある。目の前の人が、生きているのかいないのか分からなくなる。今まで現実というネットワークの中で忙しく働いていた脳髄が急に孤独になるような。
はっきりと、僕には、書きたい、という気持ちがあるときがあって、それは僕の中で、ほとんど生活愛と同義だ。意味がないけれど、ふわふわとした遠い、優しい感情。それを感じる時間が僕は好きだけど、そんな気持ち、すぐに忘れてしまう。何もかも無意味。毎日、言葉に対する熱烈な感情があればいい。そして人を、何となく好きになりたい。非論理的なものを好きでいたい。

優しい気持ちが崩れること。エロいアニメとかで裸の女の子が虐められる場面を見てオナニーをして、その後感じる激しい自己嫌悪、というか自責の念というか。別に全然人道主義だとか、それどころか優しい、だとかいう気持ちは、僕は全然持ち合わせていないけれど、くだらないな、性欲ってものは、と思うし、全ての女の子たちが、いや別に女の子じゃなくても、みんな幸せであればいいと思うし、男なんてものはみんな去勢でもされればいいと思う。少なくとも僕自身からは性欲が消え去ってくれればいいと思う。虚構の中であっても、酷いことを欲求することは、実際に何処かで酷いことが実現されることと同じことのように感じてしまう。というか、何処かで、それが本当に起こってくれればいいな、と(優しい気持ちからであれ、最悪な気持ちからであれ)願うことは、何処かでそれが実現されることと同じであるような気が、僕はする。だから、埋め合わせのように、誰もが幸せである世界を、けっこう大真面目に想像する。それはあくまで僕個人の(都合の)話であって、スプラッタ映画が無くなれ、とか、残虐な描写のあるアニメとかを無くせ、なんて全然思わなくて、ただサディスティックな性欲に身を任せてしまった自分がすごく嫌になるだけで、僕自身が僕自身を厭うような欲求が絡まなければ、血みどろの映画をけらけら笑いながら見ているのはけっこう好きだ。それは別に、僕の殺人欲求を満たすために見ているわけじゃないので、自分自身に対しての自己嫌悪が絡まないし、殺人がいっぱい起こる世界なんて、僕は別に全然望んではいないからだ。

人を殺すことは、悪いことというより悲しいことだ。僕は多分、人に憎しみを覚えたり、本気で相手を悪だと思い込んだら、人を簡単に殺せると思う。もしかしたら、何の意味も無く、無感情にだって殺せる。会社で人事に対して権限を持っていたら、利益にならない社員は、ためらいなく切ると思う。結局は僕は自分勝手に自分自身の不幸を回避したいだけだ。自分自身の中で生じる優しい時間が好きなだけで、他人から優しく思われることは別にどっちでもいい。優しい気持ちが崩れること。人の不幸を喜ぶ気持ちが自分の中にあると、単に気持ち悪い。何故なら、僕には確かに人の不幸を喜ぶ気持ちがあって、同時に、そういう自分を見下しているからだ。表面的な欲求ににやにやしている自分を殺したいし、哀れに思う。僕は優しい人間じゃない。でも夜中、何故か優しい心が呟き始める時間があって、そんな訳の分からない気持ちが何処から出てくるのか分からないけれど、その時間が、僕は好きだ。そしてずっとその気持ちが続けばいいと思う。でも眠れば忘れてしまうし、朝はただ気分の悪さでいっぱいで、そして人に会うと自動的に静かな気持ちは霧散してへらへらしてしまうし、現に目の前にいる人に対しては、取り繕ったような言動をしてばかりだ。いつも緊張しているけれど、それは自衛のためだと思う。

神の慈愛を信じる人が多くいるのも分かる気がする。神が全てを証明してくれるから、神を信じる、というのは逆で、神が確かにいるのだから、とまず最初に自明の如く神の存在を信じる気持ち。説明の出来ない愛情のようなもの。それが自分にも与えられている感覚。何だか分からないけれど、有り難いような気持ち。考えが先行していて、その答えとして神を求めても、神は証明できない。あまりに苦しくて、その苦しみをたったひとりで耐えなければならないとき、神でも仏でもいいから縋りたくなる気持ちはまた別で、神が現実的に自分を楽にしてくれるかは別にしても、僕はものすごく苦しいとき、十字架を握りしめていれば、かなり楽になれると思った。それで十字架を買ったんだけど、一刻も早く死にたいほどの苦しみが和らぐと、十字架は捨ててしまった。それはともかくとして、ただ全てがあるなあ、とか、あって欲しいな、という説明の付かない気持ちや、素朴に何かに感謝したい気持ちがあって、やおよろずの神を有り難く思うのも、キリスト教の神に感謝するのも、多分、もともとの気持ちは同じことなんじゃないかと思う。どうして神なんていう突飛な非論理的なものを信じるかというと、生きてること自体がとても突飛で非論理的だからだと思う。生きていること自体を、いいな、と感じられることって、何はなくともそれだけで幸せだし、説明は出来ないけれど、何か大切だと思える感情に、神という名前を付けて、昔の人はそれを忘れたくなかったんじゃないかと思う。仏教は、とても論理的に人を生という苦しみから解放するための方法論、という側面が大きいのではないか、と僕は浅薄に、そう思っている。俗を捨てれば楽にはなれる。でも僕は俗なことが好きだから、世捨て人にはなれない。弥勒は人を愛しているらしい。仏教では愛は、大事なもののひとつではあるけれど、全てではない。全然仏教について、僕は知らないのだけど。中原中也が、仏教は詩には合わなくて、詩を書くならキリスト教がいいと書いていた。詩は愛だから。仏教に完全に帰依したら、言葉が不要になる気がする。でも僕は言葉から離れられない。

こう書いていると、古事記万葉集も、もしかしたら読めるかもしれないと思えてくる。どちらも、つまらないから一生読まないだろうと思っていたけれど。生きていること。感謝することや畏敬の念。世界の開闢を論理でなんか書けない。僕は詩が好きだ。それはやっぱり何やら分からない気持ちで、説明の付かないものだけど、無くしたくない。その、何やら分からない気持ちが無いと、詩も小説も、まず読めない。言葉があるだけで嬉しいな、という気持ちが好きだ。詩にも小説にも意味が無くて、自分には縁遠いものに思えてしまう時間は、とてもつまらなくて、詩や小説が面白くないとき、僕は世界の何も面白くない。耳に心地いい音楽や、目を楽しませる視覚情報・表現だけが面白いと思ってしまう。でも、生きてるだけで嬉しいという、何となくそういう気持ちが無いと、音楽だって絵だって、自然だって、一瞬楽しく思えても、僕はすぐ冷めてしまう。気持ちはずっとゴミゴミしていて、そういう自分を説明することばかり書いて、説明の付く言明だけに、いっとき納得したりする。何かが足りないと思っていても、その足りない何かを強く求める気持ちも湧いてこない。古事記は(智恵の足りない昔の日本人の)稚拙な作りものではなく、それはそのまま真実だ、と本居宣長は言っていたらしくて、僕はまた、何て宣長はそう極端(狂信的?)なんだろう、と思っていたけれど、ソクラテスもまた、ギリシャ神話は、それはそのまま真実なんだと言っていたらしくて、それはきっと、神話というものは、フィクションではなく、どうにも説明の付かない感情をそのまま語れば、つまり感情を言葉に翻訳するのではなく、素直に感情そのままを語るならば、人間にとっての真実は、普通に読めばどうにもナンセンスで馬鹿みたいにしか思えない神話として表現されるしかなく、(くどいけれど)感情はナンセンスで説明が付かなくて、説明すれば馬鹿みたいにしか聞こえないもので、しかしそれが人間にとって本当のことであるから、神話もまた本当のことなのだ、と強いて解釈するならば、そういう意味合いのことを言っていたのかな?、と思う。でも、それだけでは言い足りない何かがある、と今僕は感じていて、そもそも「真実」とは何なのか?、と考えると、そんな「意味合い」のことなんかすっ飛ばして、解釈なんか抜きで、今ここで僕が読んでいるもの「書かれているもの」=「真実」と端的に、それだけ思っていればいいのかもしれない。英語には英語の、日本語には日本語の生命があって、それを感じる時間(錯覚であっても)があって、そんな時には、英語の参考書でさえ好きだ。フランス語は、まだ分からないけれど。

別に僕は、特定の宗教に入る気は無い。ただ、実際的な、安定剤として、何だかよく分からないけれど、やおよろずでも何でもいいから、有り難いと思ったり、祈ったりするのは、いいことかもしれない。儀式めいたものには興味がなくて、普段の生活というものの中で、僕の精神を軽くしてくれるものとして。熱狂的になったり、オピウムのように陶酔したり、忘我(エクスタシー)を求める為にではなく。熱狂的になったり陶酔するには、まず文学で十分だし、サッカーとか野球のファンになるとか、ゲームをするとかすればいいし、エクスタシーのためには音楽や詩があるから、別に神の存在なんて必要ない。ただ静かな、和らぎの気持ちが欲しくて、その為に神を意識するのは有用かもしれない。キリスト教(聖書)でも神道古事記)でもイスラム教(コーラン)でもギリシャ神話でも何でもいいと思う。それぞれの細かい宗派や規律などは、後から出来たもので、もとはどんな神であれ、自分を超えたものが確かにある、というはっきりした直観によって、そう名付けられたものだと思うし、だからそういう原始的な有り難みみたいなものさえ感じられれば、僕はそれでいい。芭蕉の「何の木の花とは知らず匂ひかな」という句のような、西行の「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌のような、とにかく、自意識から解放されて、祈るような気持ちになれるなら何だって。中也は、仏教なら、弥勒には愛があるから、(詩を書くには)信じるのもいいかもしれない、ということを書いていたし、岡潔は、弥勒が何故人を愛し続けているかというと、人間という愚かな弱いものたちが、いじらしくて可愛いからなんじゃないか、ということを書いていた。……僕は、信心深くなってるのかな? 弱くなっている、ということなんだろうか?

キリスト教にはかなり興味がある。説明くさいし、人間の醜さも含まれていて、たくさんの経典を読まなくても、聖書が一冊あればいいところもいいし、モチーフが何だか格好いい。本当に苦しくてならないときに、数珠を持つより、十字架を握ってる方が何となく、楽になれる。僕は、特定の宗教、例えばキリスト教に拘りすぎると、まず間違いなく原理主義的になって、ゴッホヴィトゲンシュタインみたいに、熱烈にキリストを信仰し始めて、狂信的なくらい布教をし始めてしまう自信がある。本当はただ、人や、世界に対しての、親近感、、、温かみや親和性、みたいなものが欲しいだけなんだ。何もかもが希薄で、無意味で空虚で、つまらない時間とか、虚無感で、また恐怖や不安で、一刻も早く死にたいような時間を減らしたいだけ。死後のことや、世界のことは、どちらかというと文学の領域だし、ただ単に僕は現世で、日常的に生きている間、少しの時間でいいので、自分から離れて、全てをそのまま受け入れられるような、優しい時間が欲しい。現実を、信じることが出来て、それを好きでいられる時間が欲しい。自分の気持ちを社会にはもちろん、神にも託したくない。自分は自分。それだけは変えられない。ある種の信者たちが陥りがちな気がする、奇妙な連帯感のようなものは、僕が一番持ちたくないものだ。

感情。古い本をよく読みたい。史実の羅列には全く興味がない。最も古い物語としての神話にも少し興味が出てきた。それからとても俗っぽい感情。今ここに生きている僕の感情。通俗的なもの。小説とか。アニメでも何でも、チープなもの全般。今、生きている人たち、古人ではない人たちが、ちゃんと生きていること。その感覚。

寂しい気持ち。孤独な気持ち。生きていて、生きてきた、僕。
寂しいからと言って、死にたくはないのだ。でも、死ねたらどんなにいいだろうと思うこともまた、やめられない。

僕は病気を治したい、13歳から続く、猜疑心という病気を。何もかもが非現実に見える。全ては何にも裏打ちされていなくて、次の瞬間変貌する可能性を常に内包している。今、この瞬間、僕は世界が信じられない。とても虚しく冷たい感覚だ。この感じを、うまく言葉に出来たことは一度もないし、言葉にしても生活的に理解されるだけだし、多分、伝えられたことは一度もない。世界が錯覚でもいい。燃え立つような感覚が欲しい。世界が本当でも錯覚でもいいから、夢中になりたい。感じたい。

迷い。戸惑い。宗教なんて要らない、と今また思っている。感情。感情を知りたい。思いっ切り、思いっ切り感傷的で、遠い、遠い小説が書きたい。

ずっと、情熱は、僕にとって、一番縁遠いものだった。

 

1月13日、
感情って何だろう。感情があまり感じられないとき、例えば鬱のときには、解放されたい気持ちはあるけれど、感情を持ちたい、とはあまり思わない。感情が大事なものだとは、どうしても思えない。自分の感情を感じられるときは、感情は一番失いたくないものだと思う。

 

1月14日、
13歳からの20年間で得たもの。失ったもの。2021年、33歳の僕は、大きく変わろうとしている。13歳から、僕は完璧に鬱だった。死を少しも考えない日は、ほぼ無かった。今、僕は、はっきりと鬱じゃない、と言えるときが時々あって、その時だけは、失われた20年間を取り戻せるのではないかと思う。

 

1月15日(金)、
洋服店やカフェや画廊の凝った飾り窓。理由も無く掬い出されるような過去の思い出。

忌まわしい思い出よ、去れ。そして昔の、憐れみの感情と、ゆたかな心よ、帰ってこい。何もかもが明るくて、そして僕の精神は、LED電球のように澄んで光っていた。
明晰でありたい。情熱的でありたい。

性欲なんて無くなってしまえばいい。
中性になりたい。

妄想?、いや違う。憧憬? 慕情・・・切望。

 

1月16日(土)、
空虚。疲れ。

本を捲る音も生きていて。紙の中で緑の細胞膜が弾ける音。珈琲と煙草の匂いが染みて、タールと手垢に汚れた本。アルメニア・ペーパーの煙の匂いも染みている。部屋にも。空間にも。パソコン内部の配線の隅々までも。匂い立つパソコンで書いている。

何でチェスの勝負中に、チェス盤を引っ繰り返したり、キングをナイフで刺して殺したり、対戦相手をぶん殴って、それで勝ったことに出来ないのだろう? 言葉は、無限だ。音楽も、無限だ。何でもありだから好きだ。でも、きっかり型に嵌まってて素晴らしいのも好きだ。絵や立体作品など、視覚表現全般も、すごく自由で好きだ。映画(や芝居やアニメ、映像作品)はちょっと制約が多いんじゃないかと思う(どうかな?)。何故かというと、内面を万全に描けないからだ。内面と外面を行き来したり、内面と外面の矛盾が不思議に統合されたりする表現が好き。映画も大体僕は安っぽいB級ホラーばかり見てるし、大作は疲れる。映画はあんまり深い表現ではないと割り切っている。映画好きの人には申し訳ないけれど。写真も、見るのはすごく好き。でも僕は多分写真を撮るのよりは、写真を加工して作品を作るのが好きだろうし、撮影よりも、カメラそのものに惹かれる気持ちの方が強い。いまだにカメラは魔法の道具だ。でも、撮るのよりは、何気ない風景を例えば撮る場合でも、それよりはスケッチした方がいいかな。写真で作品を作ろう、という気が全く無い。でも繰り返すけれど、写真を見るのは好きだ。

土や星と一体化出来たらどんなにいいだろう。僕は社会化された西洋的な日本にぴったり適合して生きている。どんなに生きにくくても、生きにくさもまた、適合の形だ。物質的な進歩は、もう必要ない。数学も規律も忘れた場所に行きたい。

きれいな音楽を聴くよりは、ノイズの海みたいなギターの音を聴いている方がいい。

 

1月17日(日)、
絵、写真。
色、音、ノイズ。
風景、触感、形。
赤、白、黒。カラフル、モノクロ。

むー、やっぱり僕は心が弱っていたと思う。言葉から不思議な、透明な遠い記憶のようなものを感じられなくなったとき、僕は古典に走る傾向にある。聖書は聖書として、読み物として読むのはいいけれど。

ただ遠いだけの寂しさ。


絵を抱いて、その中に手を浸すことも出来る。溶液に理解を求めて。


たくさんの詩集が私の腕の中で育まれています。詩を出すたびに私は固形を失う。


夢の中で半分生きている。父のうがいの音でさえ、夢という夢を完成させるための結晶。


海辺の別荘で、ポプラ並木のベンチの下で、セラピーを受けたい。リン酸塩をコリシディンの瓶に入れたまま。


白い歪な抵抗が肘の間にあって、Schubert(1797-1828)とDebussy(1862-1918)を丹念に聴く。鯨より蟻塚の方が物知りかもしれない。地中の水浸しの蟻たちは宇宙の雨の飴の味を知っている。

 

1月19日、
過去のことは、全て遠い夢か幻か、夜の中に光る遠い窓みたいに見えて、もうどうしても、その頃の心の本質みたいなものには、二度と触れられない気がする。身体に残った傷口や、頭に刻み込んだ言葉だけが、昔ながらの身振り手振りで僕の心に何かを伝えようとしている。でもその声は聞こえない。僕は心のドアを叩いてみようとする。出来るだけ心の底の方を裂けないかと、強くイメージする。でも、僕の一番大切な、本質的な部分は、今はもう、もやもやとした厚い殻に覆われていて、その底の方で強く光っているはずの僕の孤独な鋭さは、霧の日の、山の方の猟銃の音のように、間が抜けてて、とても遠い。それとも僕の心は、僕の身体を留守にしていて、ここにいるのは、人間の形だけはした、抜け殻の僕。脳死よりもずっと早く、心は死ぬ。夜中、ガラス窓には温度が無くて、ふざけてるみたいに生活的に見える。ギターの木の冷たさは生ぬるい。世界がみんな割り箸みたいな使い捨てに見える。割り箸を洗って再利用する人もいる。いつからかいつまでもこの部屋にいて、僕の心は毎日劣化コピーされていく、不安で彩られた量産品の風景写真みたいだ。いつか僕は新鮮な気持ちで、その風景の中を生きていた。他人よりも他人の僕。プラスチックの甘い安っぽさに優しさを感じていたのはいつのことだろう? ガラスのはっきりとした冷たさに切なさを感じていたのは? 光や音や記憶の中を、湿った路地の匂いの中を、個人的なファンタジーの中を、きっと幸せの降る空に向かって歩いてきたはずだった。浴槽の中で何も思わずにぷかぷか浮いているように幸せだ、と自分に言い聞かせてみることがある。最近僕はよく笑う。熱すぎる泥水の中で膨れ上がって溶けていく虫みたいに笑う。1月のぴりっとした寒さの中で、僕は家の裏口を出て、どうしても光に溶けない風景の中で灯油を入れて、幻聴みたいに鳥が鳴ってて、プランターに植わったアボカドの木が、綺麗に死んでるみたいに生きている、と思う。そしてそう思うことが、どんなに光や空から遠い迷い言かと思う。悲しい、という気持ちだけ、油みたいに湧いてくる。死のうと毎日一回は思う。思うのだけど、……「死」は、段々すっぱりとした清潔な境目ではなく、生ぬるく曖昧に僕を浸していくだけで、僕は死んではいないはずなのに、生を感じられなくて、記憶の歪な欠片ばかりが溜まって汚れている。

「懐かしさ」の箱が開いて、火照った頭の表面に懐かしさの雲烟を感じることもある。けれど「懐かしさ」の中身を知ることは出来ない。それは懐かしさが日に溶けるように美しいからではもちろんなくて、懐かしいものたちはもう、僕の中で決定的に死んでいると、僕には分かりきっているからだ。懐かしさの後を追っても、僕は決して何処にも行けないし、戻れない。もういい加減諦めて死んだらいいかもしれない。人はよく「楽しい」と言う。僕はそれを聞くたびに、本当かと思う。本当に楽しいのだろうか? 人は、本当に楽しいことは秘めているものなんじゃないか、と僕は思う。本当に楽しいなら、楽しいなんて言わずに、せっせとその楽しいことばかりを取り憑かれたようにしているに決まっていると思う。父はよく僕に「数学は奥が深くて楽しいからしっかりやれ」と言っていたけれど、そういう父が別に数学をしていないので嘘だと思った。母は別に読書が楽しいとも言わず、黙々と本を読んでいたので、僕も自然に図書館に着いていくようになって、読書家になった。僕は産まれ付いて、世界の全てを知りたいという願望があった。4歳の頃にだってやはり僕は「懐かしさ」に囚われていて、それは産まれる前の、太古の昔の透明な記憶の残像のようなものだった。どうやれば、そこに行けるのか、子供の頃の僕は、数学によって行けるに違いない、と素朴に信じていた。数学の複雑な記号は、文字通りの魔法だと思っていて、難しいことを世界で一番知れば、世界で一番、誰よりも遠く、誰よりも明るい場所に行けるのだ、と真面目に信じていた。それだけが僕にとって興味のあることで、だから音楽にも芸術にも、僕は全く興味を持たなかった。数学の「証明」は、本当に、世界のあらゆることを証明するのだと思っていた。なのに13歳の頃には、僕はあらゆることに幻滅していて、僕には音楽と詩と小説以外、世界には何ひとつ無かった。数学者も物理学者も、決して魔法使いではないと思ったし、哲学はよく分からなかった。哲学は常識という前提が無ければ読めないものだからだ。その頃から、僕は生きることに積極的になったことがない。「真実」、それだけが知りたい。

例えば、目に見えるものをいくら積み重ねても、絶対に真実には辿り着けない。仮に真実を知るのに視覚が必須なら、盲人には真実が分からないことになるけれど、そんなことはありそうにない。耳も手も目も鼻も口も無くても分かるもの。それが真実でなくてはならない。僕は最初、性急にそう考えたし、今でもそうだと思う。自分が届き得ないものについての憧れが常になくてはならなくて、自分が何をどこまで積み上げたかは、いつだってどうでもいいことだ。世界そのものがしんみりと染みてくる感覚。遠い、本当のことを知りたい。

それでも、ああ、何か、何かを感じる。

何故、人は現実感を持てるのだろう? 僕は多分、素朴な虚構実在論者(虚構/フィクションを(現実と全く区別することなく)実在すると信じる人のこと)なのだと思う。描写出来る苦しみを持てるとき、ある意味僕は楽だ。人の中で人知れず人に恐怖を抱いているとき、自分がもはや救われているということに気付かない、ということを除けば、僕は幸せだ。僕は感じたい。楽しくなりたい。心が浮き立つ気分は13歳の頃に無くしてしまった。12歳まで、僕は人間だった気がする。僕は、面白いと感じたい。遠い何処かに行きたい。

本当にお金を儲けたいなら、迷わず儲けるだろう。僕が一番に求めることは、身体から解放されることだ。「楽しい」という気持ちに、いつもうっすらと靄がかかっている。

生活者となるために、必要に迫られて身に付けた感情がいくつかあると思う。
羞恥心とか、約束を守れなかったことや、人を裏切ったことの罪悪感とか。でも、ひとり夜中に生きていると、ふと僕は人間なんて本当はどうでもいいのではないかと思う。僕には僕があまり大事じゃないかもしれない。

でも、虚飾なく好きな人たちがいて、そう思うと、僕は随分差別的な人間である気がする。

優しくあれたら。ただ優しくあれたらどんなにいいだろう。血も、においがしないくらい遠くから見れば綺麗だ。優しい時間がとても好き。泣きたくなるくらいに。やっぱり何もかにもに感謝したくなるように。

時間が過ぎていくのが優しい。消えていくものは何もかも、遠くから見れば光って見えるのかもしれない。僕の中に優しさがあったとき、僕は僕の優しさになんか気付かなかった。何も無理して生きる必要は無いんだよ。感情の中に理性が溶け込んでしまえばいい。銀河の中に、塵が理性的に並ぶように。

目立ちたくて歌うのでも、褒められたくて書くのでも構わないのだと思う。結局のところ僕たちに出来るのは日ごろの技術の研鑽だけで、感情の方はどうにもならないのだから。でもいつまでも自分の中に感情の火種が見つからないとき、僕は自分を、死んだ方がいいと思う。優しい時間の中であっても、死は思うけれど、それは光に包まれた優しい死だ。

僕に取り柄があるとすれば、自分を捨てられることだ。けれど死のうと思うと、生きているものの全てが、生きているだけで愛おしい。死にたさとは無縁の人たちばかりが死んでいく。あるいは生きていて欲しい人ばかりが先に死ぬ。大抵の人は、死ぬという段になって、観念するのだろうか? 生きたいと思うのだろうか? 死を意識すると、何もかもが遠い昔の出来事に思えるのではないだろうか? 目の前にいる人だって、テレビだって何だって。今まで僕は、何度自殺未遂をしたか、もう覚えていないのだけど、いつだって本当に死のうと思っていたけれど、それにしては迂遠な手段ばかり執ってきた。もうすぐ死ぬと観念したのは二回だけだ。手首を切って立てなくなったときと、リチウムを200錠くらいウイスキーで飲んで、あまりの苦痛に、ほとんど宗教的な幻覚を見たとき。僕は南アメリカの砂漠地帯の洞窟の奥にいると思い込んでいた。洞窟の向こうに、斜めに夕陽が差していて、僕からは見えない場所で、おばあさんがずっと泣いていた。ベッドから、デスク脇の引き出しを見ると、床は渓谷になっていて、引き出しがまるで星みたいに遠く見えた。体液を垂れ流しながら、長いこと這って、引き出しに辿り着くと、安定剤か何か、溜めていたのがあったはずなのだけど、引き出しの中から薬の袋だけが消えていた。上から下まで引っかき回したけれど、安定剤も眠剤も、綺麗に消えていた。その時家族は僕を寝かせたまま他県に旅行に行っていて、出がけに母が僕の部屋を調べて、カッターやら薬やら、危ないものはみんな持ち出して行ったのだ。母は後で、僕の傍にいるとぴりぴりぴりぴりしていて辛かった、と言ったのだけど、実際は僕は全てが琥珀色に見えていた。迫り来る死を、ただ目を瞑って待ち受けていたのだけど、母にはそれが単に神経質に映った。僕はどういう訳か、レッド・ホット・チリ・ペパーズのアルバムを手に持っていて、ブックレットのメンバー写真を見ていた。僕は彼らに、地獄から見上げられていた。『Under the Bridge』を聴くと、地獄で何にも楽しいことはないのだけど、ともかく道連れはいる、という感じがした。ヘロインの地獄もリチウムの地獄も、変わるところはない。確かにこの人たちは宇宙の果てで孤独だったのだとしか感じられなかった。何もかもが、何光年も先から、僕に偶然受信された風景に見えた。ベッドに横になっていると、隣の家族の物音がよく聞こえる。窓の外は真空で、黄色い光に満ちていた。ということがあったのだけど、それは別世界のことで、とても在り来たりなことに思える。頭がちょっといかれると、人は簡単に違う時空を漂ってしまうのだと思う。それよりも僕は、もっと昔、この世の中で、現代に於いて死のうと思っていたときの方が、今では得がたい時間を生きていたと思う。生きるとは、今生きている、まさにこの時間を愛することだと思う。死とは単なる移行だと思う。この世はこの世で永遠に残り続ける。けれど世界はこの世界ひとつじゃなくて、無限にあって、僕もまた無限にいるのだと思う。とは言っても、今ここにいる僕は、今ここにいることを望んでいる。今書いていることも相当おかしくて、分裂的なことは分かっているのだけど、要するには、他の世界のことなんか放っておいて、今ここにいる僕自身を一心に生きる以外に、僕には何の方法も無い、ということだ。死を望むなら、死ねばいいと思う。それは、今生きているこの時間には、もう絶対に戻ってこられない、ということしか意味していないと思う。……病的なことを書いているけれど、病的な考えにも少しはメリットがあって、ある種のヴィジョンは僕をとても孤独にするし、孤独の中では、人はそんなに悪くはならないと思う。一日一日を生きていられることが奇跡なら、その奇跡だけで十分だと思う。僕に足りないのは、この世の、現在や、生活に対しての、情熱や愛情の希薄さだから。

 

1月20日
近くに、とても高い(200mくらい?)橋があるから、次はそこから飛び降りようかと、よく思っている。でも想像するたび足がすくんでしまう。何故そこまで生に執着するのか? この世界について、もっとたくさん知りたいと思っている。人は、自分が知っている苦しさで、人の苦しさを計ろうとするものだ。だとしたら、僕の苦しみについては、ほとんど誰も、想像することも出来ない。そして僕自身、誰の苦しみも、想像することが出来ない。たまたま受信された僕。

 

1月23日、
私は12音階を愛している。西洋の人が、恣意的に作った音楽の規律。どこでも割ることが出来る1オクターブを、綺麗に12等分にカットしてしまった。西洋的な思考ってみんなそうだ。本来あり得べからざるところに区切りを付けて、区切りの間にあるかもしれない無限の音階については見ない。見ないことで非常にシンプルで、整然とした、例えば音楽のシステムを構築できる。精緻な音楽理論が出来る。私には時々それが息苦しい。デジタルにきっちりと12個に分かれた音じゃなくて、もっと曖昧な音程を聴きたい、と思うこともある。だからだと思うんだけど、たまにインドの音楽を聴いている。インドの音楽にも一応音階はあるけれど、インドの音楽で重要なのは、半音よりももっと細かい音程の揺れだ。半音をきっちり二つや四つに割った微分音ではなく、もっとアナログでシームレスな音程の変化が、インドの音楽を特徴付けている。インド音楽って、けっこう大雑把というか大らかなところがあって、音程を無限に分割できる楽器なら、何を使っても全然構わないらしい。シタールを弾く師匠にヴァイオリニストやギタリストとして弟子入りしても何ら構わないらしい。何の音でも弾ければ構わない。西洋音楽ではなかなか出てこない思考だと思う。グレン・グールド西洋音楽の大家としては珍しく、音なんて鳴ればいい、というスタンスで、ピアノ曲じゃない曲でも編曲したりして平気でピアノで弾いているし、電子音楽でのバッハのアルバムを大絶賛していた。インド音楽ではピアノは一切使われない。半音より細かい音程が出せないからだ。僕はサロードという楽器が好きで、一般的なインド音楽のイメージと言えば、やっぱりシタールだと思うんだけど、サロードシタールより音が澄んでいて深みがある。何というか、筆で流し書き…、草書体で流れるような文字を書く感じ。東洋には、くっきりと分ける、という思考はあまり無いのではないだろうか。空気や水を、O2やH2Oと言い換えたりする発想は、東洋には無いと思う。戦後の日本人っていうのは、多分いい方に考えれば、東洋的な実感と、西洋的な思考法の両方を使えるから、いいとこ取りすれば、とても豊かなものを産み出せるのではないかと思う。