年末年始のメモ

宇宙。時。感覚。私が今座っている場所。ギターは語る。色によって。

ギターには自傷的なところがある。怯えているとき、弦は痛い。

僕は傷付いているとき、感傷に浸る。思い出を、思い出すことを、何よりも大切なことだと、縋り付くように、思う。

今僕は椅子に座っていて、窓はかたかたなっている。そのかたかたが無意味だとはどうしても思えない。ストーブもしゅーしゅーいっていて、それが本当でも嘘でも構わない。ビールを飲んでいて、美味しいと思っている自分がいるだけだ。いつもの自分には理由があるかもしれないけれど、今この瞬間の自分には理由が無い。ただ、ギーボードを打っているだけ。ひとりきりでいるだけ。誰もいない。ここには。僕さえいない。指先があるだけ。川が見える。僕は普段から書いているけれど、感情にまみれて書いる。間違えたらどうしよう?、って考えない時間が素敵だ。手術中の外科医みたいに。泳ぐ。川が見える。

ゲームの音がしてる。エンジン音と爆撃音が優しい。友人がゲームをしている隣で書いている。一緒にいて全然緊張せずにいられるのは、彼くらいなものだ。部屋の中は少し寒くて、多分、19度くらい。ふたりでばかばか煙草を吸っているので、窓を開けている。鋭いような、寂しいような、困難なような。生活とは関係のない、社会からは遮断された領域で、私たちは存在している。何故だか彼といると、宇宙の果てにいるような気がする。壁のカレンダーも意味ありげに微笑んでいる。ビールの空き缶がピアノの蓋の上とデスクの上に並び、ふたつの灰皿には、山のような吸い殻が積もっている。僕はこっそり薬を飲んでいる。床が冷たいので椅子の上に両足を乗せて、それでもまるで無重力の中にいるみたいだ。

新年は、幸先のいい日。友人が家に来てくれたし、頭もまあまあ覚めている。あらゆる時計がこの部屋の中で回っている。僕は経験したことしか、本当には書けないのに、そのことをいつも忘れていて、想像だけで、見たこともない現実を作り出せると思っていたりする。友人といると、結局は僕は寂しいのだな、と思う。人に会いたい。人との間の距離を、僕はいつも測りかねている。本当は、内面の中でしか、人とは繋がれないと思う。でも普段はそのことを忘れて、外面だけに対人関係を任せている。そして活字を、作りもののように見て、軽視している。砂漠は僕のシェルターだ。言葉は本当は、砂地のようで、海のようで、その底にどっぷり浸るときにだけ、僕は誰かとコネクトできる。寂しさの中で読むときにだけ、言葉は理解できる。寂しさの中で、僕たちは同じ存在。

私は、経験したい。私は、人に会いたい。人に会って、そのときだけ痛烈に感じる、私の中の伝えたい思いを、知りたい。書くことは、その先にある。内面の底から、伝えたい思いが無くて、他に何を書けばいいというのだろう? 寂しいとき、私は自分の心の本当の欲求を知る。そのとき私は、詩や小説から、人の心を感じる。隣にいる人との隔絶の中で、誰かが息づいている領域を知る。もう死んだ人たち、今生きている人たち。内面の裡で、誰かに出会えたとき、私の人生は、今この瞬間、満たされていると感じる。それだけでいいと思う。そして、私の出会えた人たちが、この世から失われて欲しくない、と強く願う。その願いだけで、生きている意味がある、と感じる。ただ、あり続けて欲しい、と願うこと。……会話って、ほぼ誤解の集積だ。会話の中での距離の虚しさを、詩や小説は、満たしてくれる。虚しさが無いと、本を本当には読めない。

言葉と音楽の境界は曖昧だ。言葉と絵画の境界も。

経験したい。外に出たい。いろんな人に会いたい。会って話したい。会話では伝えられない何かを形にしたい。衝動を自分の中に発見したい。人間の内面にコンタクトしたい。私には文学が必要だ。誰にも伝えられない気持ち、特に彼には伝えられない気持ちを、文章にして、伝えたい。

人との距離を感じるとき、例えば詩が、とても近しくなる。唯一、そこが私の生きられる、息の出来る場所だと思う。孤独を感じるとき、私は、多くの人が言葉を残してきた意味が分かるような気がする。全然血が流れていない人なんていない。血で会話したい。血の流れる音で交流したい。ポップな映像の中で共演したい。光と音、そして心と感情に、まみれたい。まみれた中で混ざり合いたい。

帰ってこられる場所があるって素敵なことだ。自分の心の中に。自分の身体に。人が呼んでくれる自分の名前の中に。コーヒーの香りの中に。電線に囲まれた街の中に。人に会って、そして自分のお家に帰る。いつもの心に戻ってくる。

思い出深い本を読むと、ときどき、全身の毛穴が粟立つように、ぞくぞくとする。ひとりだと、何にも感じないことが多い。人といると、これが自分なんだな、って感じる。もしかしたら、対人関係において、僕は分裂しかけているのかもしれない。自分が自分から剥がれていって、自分が分からなくなる。自分を取り戻せなくなる。自分が自分でいられる場所が欲しい。僕の場合、それは言葉と音楽なのだと思う。話していて、ふと、中也詩集を広げると、息が深く出来る。僕の居場所はここなんだと思う。

ぼんやりとひとりでいるときも、また自分が何だか分からなくなる。自分や人が生きているという感覚が遠くなる。自分のお家に居過ぎると、自分のお家が分からなくなる。何が好きなのか。人と繋がりたい、という欲求が段々薄れてくる。人について想像することもなく、自分の内面との憂鬱な対話が続く。いつもいつも同じ内容。本との内面的な対話も出来なくなる。表面の、少し上しか見えなくなる。

何かに衝動的に美しさを感じる。自分を自分であらしめるものたち。言葉が好きだなあ、と思う。いろんな文学を読みたくなる。友人とトルストイの話をして、『アンナ・カレーニナ』を読み終えたとき、世界が一端書き換えられる感覚がしたのを思い出した。違う世界に行ける感じを思い出した。早速『アンナ・カレーニナ』を四冊組で買った。文学が好きだ。友人がいろんな本を挙げるので、全部読みたくなった。試し読みで読んだ、最初の数行から、心の核が震える感じ。


何故、全ては無いのではなく、有るのだろう?

ここは、私がいてはいけない、という感覚。

怒り、というか、虚しさに襲われて、大事なものを壊したくなる。


ディスプレイの中は、小さな実験場のようなもの。

‘それ’が社会的に見てどうなのかはさて置いて、自分の視点から見てどうなのか、常に考えること。思いっ切り自己中心的になること。自分のポケットの中を把握するように。今、僕のコートの内ポケットの中にはiPodが入っていて、ヘッドホンからはELPの1stアルバムが電子の嵐のように流れている。デスクの上はまるで崩壊直後の銀河のように色々なものが置かれてて、きらきら光っている。仮にデスクの上が世界だとすれば、僕は世界の外にいる。世界とは要するに、ひとつの窓から眺めた、物事の配置だ。僕は世界の内側にいる、と思っているけれど、それは僕が眼の後ろの脳にいる、と僕が思っているからだ。網膜が窓だと思うと、せいぜいデスクの上の小世界しか把握できない。本当は、眼って、ずっと遠いところにある。デスクの上の物の配置が、勝手に変わってしまったら困るけれど、その論理的配置が、何の理由も無く、勝手に変わらないことの方が不思議だ。例えば、いきなり重力が無くなったりはしない。隕石で地球が半分に割れたりしない限り。でもおそらく、いきなりカッターナイフが踊り出すこともあると思う。それも含めての世界だ。僕が狂うと世界が狂う。世界が狂うと僕が狂う。科学者は科学で世界が解けると思っているけれど、それは人間にとって正常と思われる世界だ。しかもその世界観には感情や怯えや倫理は含まれない。正常で、かつ狂っていて、感情も、不安も怯えも、倫理観も全て折り込んで描けるのって、多分、言葉だけだ。正常で、かつ狂っている世界。淡い、それでいてくっきりとした影。窓から見える景色を描くのではなく、窓そのものを描くこと。赤ん坊が意識を得る瞬間。混沌が人間になる瞬間。――人間は、何故か感情を持ってしまう。混沌そのものが、何故有るのか分かりはしないけれど、それは感情そのものが何故有るのか分からないことと同じだ。何かが有る。それが世界だ。世界には中心点が無い。でも僕にとっての中心点は僕の感情だ。意識でもいいけど。中心点は、おそらく人の心それぞれに有る。木や竹であっても別に構わない。木や竹は木や竹として語るからだ。僕という中心点を比喩的に語ること。多分それは全ての中心点を語ること。無限に有る中心点は多分世界の全て。僕という中心点そのものを語ることで、多分あなたという中心点そのものを語ることが出来る。それが表現であり、伝達ではないのかと思う。故に僕は思いっ切り自己中心的になってもいい。社会のルールを破って、自由に振る舞う、ということでは無く、他人もまた、自分と同じ、世界の中心である、ということに配慮すること。多分、それが倫理観で、横暴さというのは、ただの混沌への逆戻りだと言うこと。端的に言って、それは楽しくない。ただし倫理という名の別の何かが、自分の心を縛るときは、それを捨てること。捨てなければ見えないからだ。怒りも、恐怖も、さっさと捨てること。無と有の境目。無であり有であること。その地点を見付けること。何故なら、中心こそ全てだからだ。そしてそれは、身体とか、脳という中心ではない。明らかに、ひとつの物質としての脳は、全てを把握できないからだ。心の中心。そこに到るための方法論は、多分無い。でも、身体ではなく、心が何かを感じたら、それを忘れないことが大事だと思う。悪い感情は捨てること。良い感情も捨てること。それは悪い意味で自己中心的で、脳を中心とした感情だからだ。良いとも悪いとも言えない感情だけを忘れないこと。ぽけーっと眺めてて何か心が目覚めるような瞬間を捉えること。――僕には外界の全てがヴァーチャルに見える。僕に言えることは、僕は外界のあらゆるものに対して、殆ど感情が動かない。それは多分、ある種の病気だと思う。病気はとてもしぶとくて、完治しない。ときどき物事がヴァーチャルじゃなく見える。光が降ってくるような感じの、遠い感覚があって、そのときだけ僕は一瞬、とても活き活きして感じられる。世界の外側にいるような感じがする。その感覚だけを、忘れたくない。でも殆どの時間、僕にとって外界は、満遍なく不安に満たされていて、何も信じることが出来ない。

‘言葉’は、理想的には愛情に満ちているのがいいと思う。生理的には、僕は感情はお腹にあると、ほとんど信じていて、お腹が重いときは、何をしても悪くしかならない。でもどうしたらお腹が軽くなるのか分からない。さっさと薬とかお酒を飲んで眠るのがいい、と思っていたら、薬とかお酒を飲んで眠るだけの能しか無い人間になってしまった。希望を保つことは難しい。死ぬか、僕を完治させる薬を期待するだけ。でもそれは多分、本当の気持ちじゃない。