メモ

書くことに集中していたいのだが。こういうことがあった。庭先で花を見付けるように、太陽が電線を伝って、私の部屋にやってきた。

抽象画が好きだ。何故好きなのかは分からない。感情が自然に付いていって行く。昔の自分を追おうとすればするほど、私は遠く未来へ行ってしまうし、やりにくい現状を呪えば呪うほど、関節に干からびた挽肉が詰まっていく気がする。

懐かしい、風圧。暗い、黒い、明るさ。世界が溶けていく。感情。僕の生存は今、ひん曲がっている。

言葉は残り続ける。残り続けるものを言葉という。言葉、それはとても楽しいもの。言葉にかまけて一日を過ごしていたい。いつも「かもしれない」の淡い、明るい波を泳いでいる。

全てがコンピューターで繋がっていればいいのに。(心拍は踊る。狂ったように。)

趣味でピアノを弾いている。黒鍵を多用したり、白鍵だけを使ったりしてる。黒鍵をひとつ使えばFメジャーのスケールだ、とか、もよもよと少しずつ吸収してる。ギターは趣味というより、生きることの一環として弾いている。でも趣味と言えるのかな? 読書も当然のようにしていて、あまり「趣味」という感じはしない。生きている限り、本を読み続けるだろうから。英語の中にも自然にたゆたえる。英単語が好きだ。フランス語には、まだまだ馴染むことも出来ないでいる。

日本語は、周期的に僕を襲う。その魅力で、その包容力で、そしてその拘束力で。ときどき僕は日本語が本当に嫌になる。日本語、というか母国語には、生活の言語であり、詩的な言語でもある、という二面性があって、世界が生活の中に取り入れられているときには、日本語の何もかもに、生活の響きが隠れているようで、そして生活の中で大体不安な僕は、どんな日本語を読んでも、責められているようなストレスを感じる。世界が全て仮定であり、また過程でしかない、と感じられる素敵な気分のときには、窓の外で、アスファルトの上で、枯れ葉が風にかさこそいう音も、ここではない何処かで鳴っているように聞こえて、ノートに「昼、枯れ葉がアスファルトを擦る音」と書くだけでも、普段の不安から完全に解放された世界で、外国で、名前の無い僕が、透明な自由感を呼吸しているような気がする。自分が、アメリカの郊外の一軒家に、エミリー・ディキンソンみたいに住んでいる気がする。そして、毎日静かな数行の詩をノートに書いていれば、微かな興奮の中で、まるで永遠みたいに生きて、その日常の中で、日常的な就寝みたいに死ねる気がする。

毎日人違いをする。刷る。摺る。スルーする。青い爆弾(決して発火しない)を抱えたままで、古書が豊富な図書館に行く。その中二階には、とりわけ古い本が、湿度と光量の調整された中に並んでいて、電気で動作する本棚が、死体安置所みたいに続いている。スイッチを押すと、本棚に隙間が出来て、中にある本を読めるようになっていて面白い。言葉の中で浮遊する。そこでは古い古い文字が、誰にも読まれずに沈殿し、鎮座している。意味なんて分からない。私は言葉の中で浮遊していたい。意味には味があるだろうか? 無意味はカラフルで、まるでそれこそが世界の意味であるみたいな味がする。器用さより、不器用の方に味がある。

 

台所で書いている。何処ででも書けるのがノートパソコンの最大の長所のひとつだ。朝、納豆と、母が作ってくれた卵焼きとご飯を食べてから、これを書いている。やっぱりいつもと違う環境で書いていると、新鮮な気持ちになれるし、でも同時に、なかなか言葉が出てこない。少し緊張している。

画面の向こうでは、母がボールペンで何か書いている。今朝、母が知り合いから貰った、という古いLenovoのノートパソコンを押し入れから出してきた。僕は、母に書け書けとしつこく勧めている。母はタイピングが出来そうにないから、と怖じ気づいているのだけど、そんなのやればすぐに出来るのになあ、と思う。

一週間か、もしかしたらもう少し長く続いていた憂鬱が、やや落ち着いてきた。けれど、頭が働かないのは相変わらずだ。言語能力が長年ぽんこつで、今月に入ってから、ほんの少し、言語回路と、脳内麻薬製造工場が、漸う稼働し始めたのを感じるのだけど、まだまだ、憂鬱だったり、頭が重くて泥みたいな気分でいるときが多い。

子供の頃から、書くことほど簡単なことは無かったのに、ある頃から言葉はざわざわとノイズを立てるばかりで、明瞭で論理的な形を、なかなか取らなくなってきた。慢性的に疲れているのは、十代の頃から同じだけど、その疲れが段々、脳の中心にまで達してきたような感じがする。言葉が、ひとかたまりに縺れ合っているような。それを解きほぐすのには、言葉から意図的に離れた方がいいのかもしれない。自分の部屋にいると、ディスプレイを眺めながらぼーっとしてしまうことが多いので、たまには台所で書きものや勉強をしてみるのもいいかもしれない。……緑茶をがぶがぶ飲みながら。母とお喋りをしながら、指先だけは別の考えを持った生き物のように動いている。

人生って、最高の瞬間だけじゃない。昔はいろいろあったなあ、と思うと、昔の自分を取り落としてしまったようで、忘れてしまった自分を丁寧に拾い集めていきたい、と思う。……薬をやめたい。頭と感情の働かなさをどうにかしたい。もっと分裂的なほどの感情の坩堝の中にいたい。多少、頭がいかれても、構わない。感情も身体も、どんどん擦り切れてしまえばいい。歳を取ったら、頭が悪くなるなんて、全く信じていない。信じていたって仕方ないしね。

脳も身体も、せっかく高機能なもの(人と比べて、という訳じゃない)を貰っているのだから、使えるだけ使わなければ、不遜なような、罪深いような気がする。この頃、僕は、脳が本当に回復してきた。感情も。難しいことを知りたい。難しいことを考えたい。いろいろなことを平行して、水平的に、多次元的に。宇宙は、日常の、何と言うこともない、細部や、日常言語の細かな変化の中に隠れている。引き籠もりの僕が言うのも何だけど、あんまり引き籠もっているのは良くなくて、本当はいっぱい自分以外の情報量を浴びるべきなんだと思う。引き籠もるなら、本格的に引き籠もらなくては。誰にも会わず、光も浴びず、声も発さず、もちろんパソコンやスマートフォンの電源も切って、そして殆ど食べずに。洞窟で修行するレベルで引き籠もれば、もはや寂しくさえなくなる。そこで見付かる何かは、きっとあると思う。中途半端な引き籠もりは、妄想を膨らますばかりで何にもならない。

みんなが覚めている時間に私は眠っている。皆が眠りに就く頃、私は覚醒している。