メモ(mouse2)

ただよりいっそう気持ちよくなるためだけに生きて、何がいけないんだろう? 僕はただ書いていたい。読むことの快楽を味わっていたい。麻薬。脳内麻薬。人は、たまたま風向きが良かったり、悪かったりする。神さまがいるとすれば、それは人間が風向きを読めないところから来ていて、風向きの良し悪しは、けれど人間のために決まる訳じゃない。雨が人間のために降る訳ではなく、政府が個人のためにある訳ではないように。人間には、内面的にも、外面的にも、天災との付き合い方、以外に所作が無いのかもしれない。
たまたま全てがうまく行く人、何もうまく行かない人。それらの違いは、その人個人の人間性の違いから来ているのではないだろう。

トム・ヨークを聴いている。鳥は鳴いていない。ただ冬のさむしい部屋の中で、骨みたいな指先を動かす僕だけがいる。不幸は骨みたいに鳴る。骨の鳴る音がディスプレイに叩き付けられ文字になる。書くことだけに集中していたい。それにはパソコンよりもワープロの方がいいかもしれない。パソコンには、繋がりを感じすぎる。もっと奥まった世界にいたい。画面が小さいほど、僕の奥まった場所で鳴る音は大きくなる。

書くのに最適なパソコンが欲しいと思う。自分と、パソコン以外の世界を、全てシャットアウトしてくれるような。コックピットみたいな。

不安も焦燥感も消えないくせに、現実にいる自分の立場ばかりが寒々と意識されてくる。現実にいる自分を、プラスチックのように固めて、心の外にしばし放置しておけたらいいのに。

トム・ヨークの音楽が終わり、今はエイフェックス・ツインを聴いている。ヘッドホンの中を、希望的観測に満ちた神経症が満たしていくような。ヘッドホンで聴く音楽は、まるで脳の中で鳴っているみたいに聞こえる。それが嫌だ、という人も多いみたいだけれど、僕は音の像が頭の中にある感じ、って好きだ。音楽が神経の水溜まりの中で鳴っているみたいで。音像が外にある方がいい、という意見は多い。やはりスピーカーで聴く方が、ヘッドホンで聴くより、広い空間を感じて、ライヴ感があっていい、という人が多いみたいだ。オーディオマニアは大抵スピーカーで聴く。僕はスピーカーで聴くのも、とても好きだ。浴びている感じ、身体が音の中にたゆたう感じ。両方好きだ。ヘッドホンもスピーカーも。

パソコンの中の小さな世界に潜り込んでいるのが好きだ。透明な花に包まれているような気がする。別にどうってことない日常でも、それを言葉にすると特別な響きを帯びる。現実の方がフィクションで、書かれた内容の方が、ずっと、私にとって真実味がある。現実には輪郭が無くて、捉えどころが無い。夜、もやもやとした昼間の記憶に、輪郭を与えていく。言葉によって。その時間がとても好きだ。

このところ、僕の世界はいくつもの小世界を含んでいる。

もっと、いろんなことを知りたい、と思う。外に向かう意識ではなく、内面にいくつもの小宇宙が浮かぶような感じで。ふわふわしていたい。壁になりたい。床になりたい。絵も描きたい。変てこりんで、でもこわばりや意図や迷いの無い線で。意識の、少しだけ底でいたいんだ。無意識の宇宙の底にも旅してみたいけど。インターネットの闇と光の中に行きたい。人の心の闇ではなく、多分もっと抽象的な、実際には存在しないかもしれない、ネットの底の海。誰かの心が、言葉が、個人ごとのデバイスによって打ち込まれ、並んでいる。人の心の欠片が。どれくらいの感情が、ネットには満ちているのだろう? そこにあるのが情報だけと言うなら、現実だって同じだ。情報だけ。でも情報は感情の震えを乗せて軽々と、何処までも運ぶ。ああ、誰もが自分のためだけの、そして世界の全てと繋がるデバイスを持ち得ていますよう。自分の心の部屋のような。ディスプレイの中。そこで僕は、指先で呼吸する。小さな小さな遊泳区画。コンセントにも繋がず、ラップトップで書いていると、僕は遠い遠い場所に無数の透明人間を感じながら、寂しくなくひとりきりで、無名の世界を冒険しているみたいな気分になる。……小宇宙の中。でも大きいって何? 小さいって何? 縮尺。身体を前提にした単位。本当の楽しさには大きさは無い。大きさって、身体の消滅と共に消える。もっといろいろと知りたい。宇宙。他人と僕という、孤独な宇宙の距離。

今、僕は15.6型のmouseのパソコンを使っている。mouseは、四日前に買ったばかりだけど、もう僕の宝物だ。赤くて、薄くて、チーズの絵が描いてある。可愛い。僕は環境の変化がおそろしく苦手だ。パソコンを初めて買ってから13年近く、ずっと一度も宗旨替えすることなく一太郎を使い続けている。ノートパソコンは、すーっと、僕の意識を小さな窓に集中させてくれる。僕の意識は収束し、そして拡がる。小さな画面の中で、文字たちが、まるで顕微鏡を通して見る微生物のように、息をしているように見えて、書く環境が秘やかであればあるほど、内なる声は大きくなるのではないか、ということを感じた。パソコンの違いは、本当に大きな、環境の違いだ、と強く感じる。万年筆で書いていた時代(さすがに毛筆やくさび形の文字の時代までは分からない)には、万年筆の青インクでしか書けなかった文章があっただろうし、僕はキーボードの、まるで演奏しているような感覚が無いと、多分うまく書けない。紙に書くのも好きだけど。現代の道具を使って、現代の言葉が書ける、ということは当然だと思う。多分、僕は道具に影響されやすい。だから、時々は万年筆で原稿用紙に書いてみるのも面白いかもしれない。敢えて。言葉は武器ではない。けれど道具は武器に似ている。ペンは剣よりも強い。タイプライターはまるで機関銃のようだから、ペンより強いかも。剣道があるならペン道があっても良さそう。機関銃は「道」にはならない。ペンの方が、肉筆というくらいだから、自分の思いを、よりフィジカルに表現できるかも。でも、ピアニストならぬタイピストという名称があるから、タイプの方が、より踊る音楽のような文章が書けるかも。誰もが自分に適したデバイスを持てますよう。道具は自分に近しい身体。身体と心が直結したときにだけ、人は泳ぐことが出来る。

暗い、夜。電灯の光にだけ照らされて、僕はここにいる。煙草を吸い、コーヒーを飲んで、眠剤を噛む。いつも通りの不摂生な自分が、夜の密度の中で、確かにここにいる。私は夜に包まれている。呼吸は決してなだらかにならない。私を閲する何ものも存在しないはずの夜、私は私の内面を自己検閲している。常識という架空の、しかし確かな精神的重量を持った歯車が、私の中に組み込まれている。

朝、生白い快晴の中で、現実的などろどろをどうしようもなく感じている。弱い人間である僕が陽に晒されている。朝から何錠も薬を飲んでしまった。不安と友好的な握手をしたことなんて無いのに、不安は外国軍の基地みたいに、堅固で巨大な要塞を、何食わぬ顔で僕の心に建設していて、そこから駐留軍みたいな不安の種が、好き勝手に僕の神経のあちこちを飛び回り、押し潰しているみたいだ。固く強ばった身体をコートで包む。この頃癖になっている左腕の自傷をする。痛みと血の赤さが、僕を心地よい眠気みたいな怠さで包んでくれる。

鬱が寛解に向かい始めてから、20ヶ月ほど経つ。何にしろ僕らは、生きていくしかないのだ。どうしたって。キーに慣れるためだけだって、長い時間を要する。

熱い常識を捨てる。何もかもを捨てる。もう、全部、分かってるから。何も。僕をどうか放っておいてくれ。何にもしたくないんだ。

夕暮れは悲しいだろうか? 何も分からない。ただひとつ分かるのは、考えは血の巡りを悪くする。何にもいいことなんて、ない気がする。

時代って、進んで、良くなったか、と言えば、全然そうは思えない。寧ろ何というか、人間の素朴な実感(体質のようなもの)から、離れていっている気がする。例えばノートパソコンにしても、携帯電話にしても。