メモ(元気が出ない)

苛立たしいような不安の中にいる。静かな場所に行きたい。身体的にも、精神的にも。
元気が出ない。

自分が苦しいとき、他人の幸せを願うことは、とても、とても難しいことだ。僕にはとても無理かもしれない。僕の暗い顔や言動を喜ぶ人はいないと思う。まず、自分が元気でいなければ、と思うけれど、その元気になるための道筋が、僕はいつもずれている気がする。僕に本当に幸せがあるとすれば、僕が僕を捨てられるときだし、そのとき僕は、心から人の幸せを願えるだろう、と思っていたのだけど、その考え方は極端で、消極的だ、とこの頃は考えている。野心や好奇心や愛着心まで捨てる必要は無い、と最近は思っている。何もかも捨てるべきだ、と長いこと思っていた。ヴィトゲンシュタインは、買ったばかりのセーターを、人にどうしてもあげなければならない、という強迫観念に悩んだことがあったらしいけど、それに似た、極端な(かつ少しずれた)、自分が何かを所有することへの強い反発の気持ちを、長いこと、どうしようもなく抱えていた。それに、他人のことを思うなら、それを行動に移さなければならない、自分が(主に精神的に)満ち足りた環境にいながら、決して満ち足りた環境にいる訳ではない他人の幸せを祈ることは、矛盾している、とほぼ信じていた。そう信じていると、例えば書いていて、楽しくなり始めると、決して楽しい時間を過ごしている訳ではない人たちのことが気になって、楽しい自分に罪悪感を感じ、それ以上全然楽しくなれない、ということも続いた。……ジョン・レノンは、自分は大邸宅に住み、特注のグランド・ピアノを弾きながら、貧しい人たちを含めた、世界の全ての人の幸福と平等を祈る歌を歌い、その矛盾を指摘されても、全く意に介さななかった。僕にしてからが、ジョンは矛盾している、と考えていた時期もあったのけれど、今はジョンは正しいと思う。
自分に、人の幸せを願う資格があるのかどうか、ということに、原理主義的に思い悩む必要は無いのだと、今は思う。「今」というのは、まさに今現在のことなのだけど。僕は僕の全てを活かしたい。それが僕にとっての幸せだから。それぞれの人がそれぞれの世界で、その人なりに幸せになって欲しい。僕は、全てが「無」だ「空」だ「海」だ、という考えを正しいことと思い、そこに普遍的な安息と幸せを見いだそうとしていて、またその考えは誰にとっても正しく、「無」を知ることが、誰しもにとっての幸せであるに違いないと思い、まず自分が「無」をよく知れば、僕が救われ、「無」を人に伝えることで、全ての人が救われるに違いない、という考えに、かなり固執しつつあった。無所有や無欲が不可欠に思え、全てが「無」であって、ひとつひとつのものはその泡沫に過ぎないから、と現実のあれこれに興味を失い始め、人間の喜怒哀楽についてさえ、それは錯覚による一喜一憂で、つまらないことだと頑なになり、「無」を知る、というよりは、無感情に無感覚になりつつあった。本当は違う。「無」を知ることは、現実に対する激しい愛情の先にあるのだと思う。訳が分からないほど愛したその先に、光が光に溶け合う「無」があるのであって、無感情で、往々にして強迫的な観念は決して「海」に辿り着けない。今はそう思う。好奇心のままに進むこと、感情を燃やすこと、そしてひとりひとりの中に感情や思いがあるのだということ、それを馬鹿にしないこと、その先にやっと道が見えてくるのであって、感情を欠いた思考には、真実に辿り着く力は、少しも無い。何故だか分からないけど、今はそう信じてる。
自分の感情のままに何処までも行くこと。行けるところまで。好奇心を燃やすこと。書くこと。自分なりの最高の幸せを見付けること。普遍的な幸せがあるなどと思って、その幸せを他人に押し付けたりしないこと。人にはその人なりの感情があって、その人なりの幸せがある。誰もが、その人なりの幸せを見付けられますよう。僕は今はそう願っている。僕自身が、僕なりに幸せになることを、恐れなくなった。

もっと感じたい。もっと強く。