ちょっとしたメモ

僕の心の中には「部屋の中でだけ自己完結していたい」という気持ちと「誰かと繋がりたい」という気持ちがあって、でも後者の気持ちは今、少し遠くて、僕自身、そんな気持ちは殺されてしまえばいいと思っていた。同時に、寂しさを無くしてしまってはいけない、という気持ちもあった。
誰かの幸せを願うには、自分はあまりに、醜い存在なのではないか、と思う。誰かの幸せを心から願うこと、と、誰かを幸せにすること、を繋ぐ何か、祈りのようなもの、が、僕の中で、生活の中で、擦り切れてしまったような気がする。自分の弱さ、というか、役に立たなさ、に幻滅しているのかもしれない。誰かの為に祈ること、そして、誰かの為に役に立つこと、そのふたつが繋がらない。僕はあなたの幸せを心から願っている。でもあなたの役には立てない。祈りに現実的な力があるなら、僕はいつまでも祈り続けるだろう。けれど、現実に役に立つのは、お金だったりする。お金を稼げない自分を恨む。

僕は少し内気すぎるというか、あまりに自己中心的な思考に溺れてしまいそうな危険性を自分に感じつつある。意図的に他人から離れて、まず自分の心に深く潜り込まなければ、そうするためには孤独にならなければ、と思っているのだけど、孤独になるには中途半端だし、段々、人から離れる、と言うよりも、人を人として見ない、という方向に向かい始めている気がして、それは正しくない方向だ、ということを薄々感じ始めている。誰かと、言葉ではなく心で繋がりたい、という気持ちは、多分、誰しもが持っていると思う。人を説得したいのではなく、人の心に何かを届けたいという気持ち。人の心に触れたいという気持ち。それと同時に、自分の心の底に行きたい、という気持ちがあるのでなければいけない、と思う。そうでなければ、生き方も、感じ方も、粗雑になるばかりで、抽象的な考えばかりで頭がいっぱいになって、何処にも行けない気がする。

生活の中では、会話の中では、人との隔絶ばかりを感じる。文学は言葉だけれど、言葉に出来ない寂しさや愛しさを言葉に出来る。それは感傷的でナイーブな考え方かもしれない。音楽にももちろん感傷性やナイーブさがある。でも、僕は生活の中での、もしかしたらあり得るかもしれない、心の触れ合いみたいなものを信じていて、それをどうしても切り捨てることが出来なくて、そして言葉ではそれが可能なのではないか、と思っている。音楽にもそれは可能だと思う。けれど、音楽は、もう少しエクスタティックなもので、生活の中での微妙な感情の揺らぎ(寂しさ、すれ違い、何かが通じ合ってしまったかのような瞬間)、とは違う気がする。もちろん、非常に個人的な種類の、まるで詩のような音楽もある。僕がもし音楽を作るとしたら、とても個人的な音楽と、気持ちよさや精神性を重視した音楽の両方を作りたい、と思う。言葉の中を泳ぐ気持ちよさも大好きだ。音楽の中を泳ぐことも大好き。誰かの心に小さな何かを届けたい気持ちと、個人的で自己愛的な、自己完結していたい感情、その両方が好きだ。多分僕は、自分自身に戻りつつあるのだろう、と思う。

しばしば人と人との間の、途方も無い孤独な距離を思う。矛盾しているかもしれないんだけど、僕が孤独になりたいのは、究極のところ、孤独の底では、誰もが誰かと繋がれる場所があるんじゃないかと思うからだ。けれど、孤独になろうとすればするほど、僕は他の全ての人たちから、決定的にずれた世界にひとりぼっちで潜り込んでしまって、しかもそれを正しいことだと思って、他人とは何も分かち合えない存在になってしまうのではないか、という不安も感じる。

言葉のことを再び信じるようになってくるにつれ、言葉は誰かの心に何かを届けることが出来る、一番の(唯一の、ではないけれど)手段であり得るんだ、思うようになってきた。読書をすることで僕は人の心や世界に触れることが出来る、という感触も取り戻しつつある。それが錯覚であるとしても。一度、僕は言葉に幻滅した。言葉なんて何の役にも立たない、言葉は決して人の心には届かない、という絶望感をずっと、どうしようもなく抱え込み続けてきた。書けば書くほど誤解され、また、書いても書いても何ひとつ伝わらず、話せば話すほど、やはり誤解され、嫌われるばかりだ、言葉には何の力もなく、それどころか言葉のせいで何もかもうまく行かない、とさえ思い、言葉の無い世界を夢見さえした。僕は昔、言葉を全面的に信じていたし、何より言葉が好きで、言葉そのものの魅力に浸っているだけで、読んだり書いたりしているだけで、この上ない幸せを感じていた。どういう経緯で言葉を憎んだか、またどうして再び言葉を信じる気になったのか、具体的な理由はあまり思い浮かばない。今はまた、言葉が大好きだ。もっと、言葉を愛したいと思う。