ジャンクなメモ

(最近書いていて、捨てようと思っていたメモの断片です。特に内容は無いのだけど、捨てるのも惜しく思えたので、上げておきます。)

私はこの世界の全てを知りたい。私はこの世界そのものになりたい。全て混沌へと還してしまえ。そこから掬い取れる唯一の形が私だ。心の底から記憶を掘り起こして小説を書きたい。あるいはもう届かない思い出のために。書きたい。

音楽、全ての音、色、形、人々、ファッション、言葉、名前、形容詞、におい、味、感触、比喩、、、全て一緒くたにしてしまえ。全ての情報の中を泳げ。泳ぎ切るんだ。

全てに意味は無い。

身体も、心も、日本語もフランス語も英語も、音楽の中に溶けてしまえばいい。

欠落も、そして過剰も含めて完璧な私。

僕は全てを知りたい。

私はとろとろ溶けていきたい。何もかもどうだっていい。私は骨として宇宙の中にいる。

光と、カラフルな遊びの中に埋没していく。

僕は長く生き過ぎてしまった気がする。考えや「優しさ」や、やましさで頭をいっぱいにしてしまった。僕の生きていた全てを整理して、アメリカにでも行きたい気分だ。マリファナを頭の中がバナナみたいになるまで吸って、ヘロインをやって、多分、こんなものか、と思ってやめて、ピストルを買いたい。RugerのSP101の2.25インチ。.小型だけど357マグナム弾が使える。死の理念は頭の中を清潔にしてくれる。何にも未練が無い。ただ、いくつかの物をリストにして、譲渡したい相手を書き示していたい。本は大分減らした。これからも生きている限り、蔵書は増殖していくだろう。まともな本を揃えていたい。哲学書は僕を悪くした。でも哲学書が有用な人もいるだろう。売って、欲しい人の手に渡ればいいと思う。自然に赤やヴィヴィッド・ピンクに惹かれる気持ちが、現代の中で弱っちく生きる僕の心の表層から芽生えてきて、相変わらず丸い…丸メガネを掛けている。赤い万年筆を買った。心が丸くなる。

僕は絶望していた。安い値段で買える薬は、もはや僕に何の快適ももたらさなかった。キャレットの点滅。ディスプレイ上の白紙の画面を、僕は昨夜からもう10時間以上も見詰めている。僕は今が良ければそれでいい人間だった。今僕にあるのは失われた過去だけだ。今を生きていない僕は、過去を必死に寄せ集めている。決して、幸せになれない人間。それが僕だ。
スピーカーからは、ジャック・ホワイトの弾くギターの轟音が流れ続けている。ホワイト・ストライプス時代のジャック・ホワイトしか、僕は聴かない。僕はこの家にいて、窒息しそうだ。いや、魂の半分はいつも窒息して、死にかけている。僕は音楽を浴びることで辛うじて、命を繋ぎ止めている。
思い出。僕にはいい思い出なんて無いのかも知れない。あらゆる理念から離脱したい。僕が確かに生きていたのは19歳と3ヶ月までだ。そしてそれから4年間ほど、僕は死ぬ気で書いていた。文字通り、死ぬ気で。死んでしまう気で。僕は昔、日本語が大嫌いで、英語だけを使いたいと思っていた。日本語なんてばらばらにしてしまいたい。日本語をばらばらにしたい。完全に溶け出してしまうためには、僕の心の中には痼りがある。言語的ハイに陥りたい。言語とだけ過ごしていたい。パソコンがあれば何処だって故郷だ。
あらゆる理念から離脱したい。精神的な重圧に拮抗した日本語から脱したい。日本語と英語とフランス語が、頭の中で雲のように綯い交じったらどうだろう? 人なんて存在しない。存在するのは肉塊だ。この世で唯一存在しないもの。それが心。いや、確かに僕に心はある。しがらみだってある。――罪と罰って何だろう? でも、いいかい。僕は存在しているだけだ。――大抵僕は、ジャズのビッグ・バンドでの演奏を聴くと気持ち悪くなる。チャールズ・ミンガスを例外として。

――ここからまた、キャレットの点滅を10時間ほども見詰めていた。スピーカーからは、相変わらずホワイト・ストライプスの轟音が流れている。

綺麗な道を描きたい。出来うる限り多くの時間が大きな水に浸っていますよう。水のような音楽を聴く。酒のような音楽を聴く。泥のような音楽を聴く。

ただ私はとてもさっぱりして死ねると思って嬉しいときがある。才能が無いので誰にもひけらかす必要が無いし、有名じゃないから悲しむ人も少ない。思えば私は迷い道を随分複雑に歩いて生きてきた。ヴィヴィッドもピンクも忘れて。軽々と生きることだって出来たのに。哲学はお約束の上に成り立っている。本当は、世界には表面しか無いよ。
いろんなものを抱えて生きてきた。哲学も知りたかったし、絵画も音楽ももっと知りたかった。けれど本当に知りたかったのは人間だ。無くしてはいけなかったものを無くしかけていた。それは私の中の「好き」の感情。「好き」から世界が拡がって、宇宙になる。
思い出は多く背負わなくていい。本当に好きな欠片たちだけでいい。多くを背負おうとし過ぎた。本当に本当に好きなものだけを、誰が何と言おうと好きでい続ければいい。本当には好きになれないものは、誰がそれを高く評価していようと、ずっと好きじゃないままでもいい。人生には全てのものに構っている時間は無い。というより、人は人生に於いて、ほとんどのものと、殆ど全てのものと、深く関わり合うことは出来ない。

想像することは楽しい。いろいろな色の薬を飲んで頭がどんどん働かなくなるのも楽しい。ノートパソコンは画面やキーボードと一体化できるから好きだ。音楽の世界。言葉の世界。全て、全て片付けていく。「あの時間」に必要なもの以外は。

何も怖くない。何も私に触れられない。

記憶には無い場所に連れられていく。世界は「好き」と「嫌い」で出来ている。
私は「自己」という幻想の消滅を楽しむ。

デスクの上にあるのは、お気に入りのパソコンとステレオ、iPod、角砂糖の瓶、コーヒーのポット、錠剤がいくつか、それから読みかけの本が数冊。それだけ。[片付けていく。][片付けていく。] 変な言い方だけど、私は私を正しく失うごとに、正しく私を取り戻していくみたいだ。

薬を飲んで書いている。僕は何をさて置いても、自分自身になりたい。

懐かしい、自分の時。
ミンガスを聴いていると何故か遠い昔を思い出す。

僕は僕になりたい。僕は僕を取り落としたままだ。19歳の時、確かに僕は僕だった。19歳の3月まで。それから23歳とちょっとになるまで僕は書きまくっていたけれど、それは僕の頭の中の喧噪を、さらなる表面的なでカラフルなノイズで相殺しようという企てだったと思う。すごく不安だった。いや、不安というより自暴自棄だった。僕は僕を取り落とした。そして、僕は僕を取り落としたままだ。
今から、僕は僕を生きられるだろうか? 僕は僕になりたい。自分を忘れたままでは、何ごとにも集中することなんて出来ない。
昔聴いていた音楽を聴いて、昔の僕を思い出すことが、時たまある。でも、最近聴き始めた音楽からも、自分が自分でいられる感覚を取り戻すことが多い。例えば、特にチャールズ・ミンガスを聴いていて。
人生の時間は長くない。

冷たい昨日は、……。

私は夢の向こう側に棲んでいる。私は私の面影を追う機械。写真のような絵画。

脳や腸はいつか魂に至ることが出来る。しかし、身体(特に脳)が全てだという思い込みが、魂を窒息させてしまう。

あの頃の心のお守りをずっと大切にしてる。

大切な思い出と、祈りの時間があるから、僕は生きていける。

天国というより幽久を思い出す。

チャールズ・ミンガスを聴くと思い出す感情。それは不思議で特有なものだ。味わった記憶のない、もしくは記憶の底に沈んだ、懐かしい冷たさ。胸が透明な灰色になる感覚。

何故だろう? ミンガスを本格的に聴き始めてから、ちょうど二月半ほどしか経っていないのに、もう大分昔からミンガスを聴いている気がする。いろいろな思い出の場面にミンガスがいる気がする。僕の美しい時代の傍らにもミンガスがいた。

視覚的な作品からきゅんとする、ぐっとするものを感じることは多い。特にコーネルの箱。それからイリヤ・クブシノブさんのイラスト。ゲルハルト・リヒターの抽象画。きゅんとするのとは少し違うけれど、とてつもなく病的で、意識の奥にある意識を垣間見られるような、フランシス・ベーコンの絵画。ジャクソン・ポロックの絵。作風が変わるまでのタカノ綾さんのイラスト。

不安なんて要らない。悩みなんて要らない。

私は静けさの両端にいる。

月日は、赤い。私にとっては日常はとても不自然だ。言葉はとても数学的なものだと思っている。音楽も。それはこの「現実」には含まれないものだ。読書が全然足りない。やりたいこと、やらなければならないことが、本当は私にはいっぱいある。あまりに怠くて寝てばかりだけれど、本当は私は「現実」が好きだ。「現実」を乗り越えられる限りにおいて。「現実」には、たまに戻ってくるくらいでちょうどいい。本当は私は、音楽の宇宙、それから、言葉の宇宙にいたいのだ。今、欲しいものは特に無い。PS5が欲しい。それからギターのアンプを少しばかり改造したい。他には……、本がもっとたくさん欲しい。もっともっとたくさん読みたい。映像は、アニメを見るだけでいい。ゆっくりとギターを弾いていたい。今、僕は全然書けないけれど、書けるようにまたなれたら、一日中だって書いていたい。たとえそれがお金にならなくてもいい。お金になったら尚いいけれど。音楽は美しい。音楽は私をここにいながら、同時にここではない世界へ誘ってくれる。

夜の夜中、まだ怠いとはいえ、頭はやや集中モードに入っている。夜中、一番調子がいい。昼間は動くのが億劫で、食べるのさえ面倒で、でも食べなきゃますますしんどくなるので、栄養を補給するためだけに、仕方なく食べている。夜中は、しんとしていて、空気が濃くて、重力がほどよく私を避けてくれている気がする。夜の時間に、小さな音量でスピーカーからの音楽の、音の粒子に包まれたり、ヘッドホンで、頭の中を音楽でいっぱいにするのが好きだ。濃密。夜、言葉と戯れることも好きだ。本と音楽さえあれば、私のお腹は満たされる。不思議な感慨が、夜には田舎の情景のように、寂しく、眩しく、私の脳内を満たす。憂鬱が、優しいブルーに切り替わり、関節を気持ちよく、柔らかくする。

僕はベートーヴェンの後期の音楽が大好きだ。晩年のピアノ・ソナタやバガテル、弦楽四重奏。でもグレン・グールドに言わせれば、後期のベートーヴェンの音楽は駄作ばかりで、結局のところ、ベートーヴェンはただイメージやゴシップで有名になったに過ぎない、と言い切っている。つまり情熱の人というイメージや、聴力を失ったが、にも関わらず大曲を作り続けた、という逸話が彼を特別有名にしているだけで、作った音楽は駄作ばかりだ、と。僕は影響されやすいので、グールドがそう言っているならそうなのだろうか?、とちょっと後期の音楽の粗探しをしてしまうような、要らない意識を持ってしまう。でもやっぱり、ベートーヴェンの音楽はどれも本当に優れている気がするんだよなあ。他の音楽家ベートーヴェンを少しでも悪く言っているのを読んだことがない。かと言って、グールドが適当なことを言っていたとも思えない。素人の耳、というのを僕は信じていて、例えば音楽理論的に詳しいことは分からなくても、ただまっさらな耳で聴いて感動する音楽は、やっぱり素晴らしい音楽だと思う。グールドだってただの人だ、と最近ようやく思えるようになってきた。グールドは好き嫌いが本当に激しい。グールドが嫌いだという音楽を、僕まで意識して嫌いになる必要は、本当に、全く無いのだ、と最近はやっと思えるようになってきた。全ての基準は、人の意見ではなく、自分の耳だ。僕は僕で、僕の激しい好き嫌いがある。臆面も無く、好き嫌いを前面に押し出したって、別に構わないんだと思う。誰も、僕の意見なんか、別に無視してくれればいいんだから。

夜中、物ごとに集中できるときは本当に嬉しい。まだ、この世の違う側面にまでは行けないけれど。僕は「あの場所」に行くことだけを、今の目標にしている。でも、それは、努力無しでは行けない場所かもしれない。「あの場所」は全てがフラットな世界。何にも、何ひとつ気にならない場所。僕はまだ外部を気にしつつ書いている。現実の延長と、完全に自分の力を発揮できる場所には、くっきりした境界がある。僕は今、宇宙から阻害されている。現実に拘束されている。

言葉。この素敵なもの。本当は私をどこにでも連れて行ってくれるもの。私は本当はヘロイン中毒になりたいのかもしれない。何も、現実的なことは何ひとつ考えたくない。ただ言葉と音楽に集中していたい。一日中、足の小指の爪を眺めているだけでもいい。多分、それが、あくせく意識の浅瀬で不安がっているより、ずっと正しいことなのだ。言葉が全然出てこないのは、言葉を知りすぎたため。言葉に塗れているから。ここにいて、言葉から遠く離れた場所に、旅に出なくてはならない。現実的意識から遠く離れた場所に。

心にはとても深い場所がある。深い場所、内面の深い場所が、外面とひっくり返って、世界が全て内面になった状態。私はそこに行きたい。シンプルに生きたい。言葉……読書と書くこと、音楽……音楽を聴くこと、ギターを弾くこと、歌うこと、それだけの場所に行きたい。

一途に。何も恐れることなく。何も、迷うことなく。知識や知恵は、書くときにだけ最大限に使って、普段はただ感じるままに生きること。感じて、感じて、感じるままに。……今はAll45g荷重のタイプライターみたいな、ストロークの深いキーで打っていて、これは無意識に打つには向かないんだけど、書いているという深い実感がある。かたかたという打鍵音がかなり大きい。隣り二軒くらいまでには届きそうなくらいの打鍵音。ミンガス・ビッグ・バンドを聴いている。ミンガスの名を冠しているけれど、ミンガスの死後に結成されたバンドで、主にミンガスの作った曲を演奏する。ミンガスがいないのだから、と少し馬鹿にしていたけれど、ちゃんとミンガスの血を受け継いでいるという感じがして、それに何しろミンガスの曲がいいので、ミンガスが演奏しているアルバムと遜色なく聴ける。

一生真空管と戯れていたい。一生モノクロでいたい。一生言葉と遊んでいたい。一生音楽の、花の一生のような世界を旅していたい。……言葉。宇宙。タイプライターみたいに指先に抵抗のある心地良いキーボード。宇宙を全部知っているみたい。いつかFenderのベースマンを思いっ切り鳴らせる家に住みたい。今はBugeraが最上。VOXの方がいい音がするのに音量が大きすぎるので使えないのが惜しい。もう少しだけ大音量が鳴らせる場所だったら良かったのに、住宅街ではBugeraがちょうどよくて、Bugeraは多分、この大きさと音量の小ささでは、おそらくかなりいい音のするアンプだと思う。前から持っているFenderのChampion600も、久しぶりに弾いてみたらかなり良くて、これも、真空管を換えて使ってみようかと思う。音量もちょうどいい。……ああ、それにしても、言葉と、ギターと戯れたい。

辛い自分から、少し距離を置くことが出来るようになった。僕はこの頃、読み書きするだけで、言葉に触れるだけでいいと思ってる。他の何ごとにも本当の興味を持つことが出来ないけれど、言葉に触れていると、僕は生きていると感じる。音楽は僕の家だ。僕は長年、自分でも音楽を作って、演奏できたら、歌うことが出来たら、と望んでいるけれど、それにはまだまだ、少し時間がかかりそうだ。以前は僕は歌うことで、書くことと同じ気持ちよさを得ることが出来た。今は、歌うという行為に、音楽との間に不純物が挟まれたような、味気なさを感じる。その内、音楽に溶け込めるだろう。音楽と一体化出来るだろう。僕は音楽そのものになれるだろう。今は、ヘッドホンやスピーカーから流れる音楽の中でしか溶けられないけれど、いずれ僕は無意識みたいにギターを弾けるだろう。日常や身体の全てが安寧と心地よさに包まれるとき。

死にたい。と何百回書いたことだろう? 心の底に遊びに行けなければ、いったい何処で遊んだらいいだろう? 僕は今、生活のことをひどく気にしていて、キーボードを叩く指もひどく重い。僕が昔持っていたのは、現実に届かない苦しみだった。現実の中での当たり前のコミュニケーションが出来ないので、書くことで、どうにか繋がりたい欲求があった。僕は今、現実に生活している人たちの心労がよく分かる気がする。現実人になるとは、現実人の振りをするということだ。それが無意識的に発揮できるまで。
才能を見える形で発揮するとは、一途になることだ。筆先が向かう方向が、今書いていることの正確な直線上に無いなら、書かない方がいい。

現実に辿り着く、という僕の願いが叶ったのか、僕は分からない。普通に生きてると見える人も、全然普通じゃなく、身体はちっとも軽くなく、仄かな破滅願望を抱いているように見えてしまう。そして僕もまた、その一員であり、多分一因であるのだとも。何かを背負っている。みんな何かを背負っていて、その背負っているものを通して会話が成り立っているみたいだと思う。まるで病人同士の連帯感のように。

他人のことは分からない。けれど僕は出来るだけ他人と同じ言動を、出来れば感情を込めて、しようと努力してきた。何も面白くなかった。そして何ひとつ面白くなくなったとき、僕はまともだと見なされた。罪や罰や空気を読む、ということを覚えた。そして僕には罪があり罰があり「半病人」としてのスタンスを守り、低い立場からものを言うことを覚えた。僕は今、条件反射だけで生きている。僕は空っぽだ。

僕は僕という存在を解体したい。何にも無くなって感情だけになりたい。ただキーを打つ機械になりたい。僕は自らの犠牲者だ。つまり自らの加害者だ。僕は時間を掛けて丹念に自分を殺してきた。そしてそれが自分の望むことなのだと信じていた。僕は寂しさを心の地下深くに鍵をかけて幽閉してしまった。今でも寂しさの声は聞こえる。けれど牢獄の鍵を、僕は無くしてしまった。僕は僕の影だ。冗談と言うにはあまりに現実的なこの夢を、僕に与え続けるのは誰だろう? もちろん。僕自身に違いないのだ。

僕はもうだらだら生きているのは嫌だ。死のうと思う。死ぬために一途になることは、生きることに一生懸命になることだ。死はもしかしたら、生ではなく、死の可能性の回避なのかもしれないのだから。さっぱり消えてしまおうと思う。
アメリカに行って銃で死ぬのがいい、と夢見るように思うのだけど、このまま、何にもせずに、何にも身辺整理さえせずに、今すぐ首を吊った方がいいのではないか、とも思う。

自分自身を思い出すこと。それは努力や熱狂的な追求では、決して辿り着けないものだ。

言葉に出会って、ぞくぞくするという感じ。言葉がそのまま新しい世界なのだという感じ……。自分が言葉に魅了されなければ、ひとを魅了する言葉は書けない。当たり前のことだ。もっと、言葉を理解しなければならないのではないか、と数年来思っていた。割と真面目だったと思う。古文も漢文も読んだ。教養を身に付けなければ、という気持ちがあった。地味な感興を覚えた。今まで、僕が本当に心が開けるような、心臓が泡立つような、光を感じる言葉に出会ったのは、現代の小説と、中也の詩、英語の詩、それから一部の現代詩、からだけだ。哲学にも意識的にならなければいけない、と思っていた。ヴィトゲンシュタインを知れば世界が知れるかと思って、本がぼろぼろになるまで読んだけど、違和感があった。井筒俊彦さんの本は、4冊の本を3度以上ずつくらい読んだけれど、最終的には要らないと思った。僕が既に知っていることが書かれていて、その再確認にしかならなかったし、心の底の風景がどんなものか、は書かれていたけれど、どうすればそこに行けるのか、ということは、まるで書かれていなかったからだ。
ただ、文が読めない、という症状が僕にはあって、そういうときにゆっくりと吟味しながら読める漢詩や和歌には助けられた。文からイメージを想像するのが異様に遅くて、けれど時間をかければ短い言葉を味わえないことはなかったからだ。
僕は、僕の本領は散文と散文詩だと思ってる。でも思い出そうとしただけで絶望的になるほどの年月、僕は散文を満足に書けないでいる。以前は僕は小説を書こうと思っていたし、それに自分が書いた短い小説が、レベルは高くないと思ったけれど、好きだった。
僕の人生は長くない。人生は長くない。僕は僕の命を、生きている限りは、死ぬまでの間、有効に使わなければならない。意味なんて無い。だからこそ楽しい。生きることは、言葉にすることの出来る(匿名的な)人生以上のものだし(何故なら僕は僕で、僕以外の何ものでもないのだから)、書くことは生きること以上のものだ。

本を読むと、言葉が心の底に沈んでいく、それは心の底に必ず痕跡を残す。そのことを感じると同時に、本は、僕が昔感じたことの痕跡を、心の底から引き上げてくれる。
けれど長いこと本を読んでいないと、言葉は心の底の底の方で溶けてしまう。それはもはや形にはならない。けれどそれはたゆたっている。形に戻ろうとしている。読書を再開することで、溶けてしまった言葉たちは、再び息を吹き返す。僕は心の深い場所で言葉が再び産まれようとしているのを感じる。
奇妙なことに、読書をせずに書いてばかりいると、あるいは書こうとばかりしていると、言葉は死に絶えてしまう。あるいは死に絶えてしまったように見える。何故だかは分からない。言葉を取り入れないと、僕の中にふんだんに貯蓄されたはずの言葉たちが、すっかり元気を無くしてしまうのだ。文学は僕の心の底の方を活性化させる。
それが分かっているのに、僕には本を読めないときがある。ここ数年、ほぼ全く読めなかったし、無理に読んでも、何も(文字通り何も)感じなかった。僕自身、心の奥を意識できなかったし、心に、表層以外の領域があることを、そもそも忘れていた。

本はあるだけで暖かい。
僕は今、どろどろとしている。鬱屈して錯綜している。近代・現代以降、特に現代の小説や詩には、特別な浮遊感のあるものが多い。僕はそれが好きで、それだけが好きだと言って生きていければ良かったのだと思う。日本語を音として聴く、捉える。意味なんか当てずっぽうに。
恐れが僕の中に巣くっている。僕の中には暗い都市があって、厭らしい声が物陰から僕に向かって、ひっきりなしに投げかけられ、その度に僕の足は、足の筋繊維は枯れ木のように竦む。

僕はあとどれくらい生きられるのか。僕は今、怖い。何故かというと、僕は僕から隔絶されているからだ。本棚を丁寧に片付けようと思う。僕は僕の世界にいて、外界の全ては等価だ。僕は僕の身体・体内も、外界であると捉える。僕は迷っている。
今、感じられないものでも、時間をかけて読めば、何かしら感じられるようになるのではないかと思っていた。でも、分かるようになるまで辛抱する時間は、僕には無いんだ。僕は世の中で、良いと言われているものを、自分でも良いと感じられなければ、自分には何か欠陥があるのではないかと恐れていた。でも、僕は馬鹿だ。この頃いい加減分かった。僕は馬鹿だ。