日記

12月1日(火)、
誕生日だ。特別な感慨は無い。でもいい一年にしようと思う。

生きていて、現実に接触している感じを保ち続けること。

昼、眠ろうと思ったのだけど、何か甘やかな気持ちになって、ゾンビ映画(『ゾンビランド』)とスプラッタ映画(『クライモリ(原題:Wrong Turn)』)を見た。感傷的になる。ブルーに結ぼれていた気持ちが、少し温かくなる。赤を見て落ち着く気持ちって、何だか懐かしくて、少し気持ちが切り替わって、陰鬱な黒縁セルロイドの眼鏡よりも丸メガネの方がいいな、と思ったり、2年間使ってきたブルーの万年筆を、その内真っ赤なのに買い直そうか、と思ったりする。赤は好きだ。

自分を取り戻せそうになったり、もう感情は戻って来ないのかと思ったり。精神の繊細な神経網の上で、くるまったり、放り出されたり。さっきまで不安に震えていたのに、今は音楽に指先から溶けていく快感に目を細めていたり。

夜はすき焼きを食べた。昨晩から麦茶以外何も口にしてなくて、食欲が無かったのだけど、少し無理して食べたら、まあまあ食べられた。ビールと梅酒を飲んだ。

フィジカルさとか、愛着とか。それは理念ではないから忘れてしまう。

 

12月2日(水)、
昨日、数時間ほど、ぽっかり開いた絶望感に浸っていた。

『死ぬと思えば全ては奇麗。恨み言なんて無い。自殺しか出口が無いならば、振り向いても何にも無いならば、そこを出てみようかと思う。生活のことは考えられない。ここに無いものは、何にも。生活がどうあれ、行きたい場所に行けるなら、それだけで生き永らえることの理由になる。
いつ死のうか、どうやって死のうか、そればかり考えてぐるぐるしている。以前ウィスキーで、どう考えてもあの世行きの量の薬を飲んだときは、地獄の方がよっぽどましだ、と思った。地獄には苦痛があるだろうけれど、そこでは正気は保っていられるだろうから。正気が次の瞬間瓦解するのではないかという不断の緊張は、段々僕を起きたままの悪夢に引き摺り込んでいく。生死というベクトルや、この宇宙とは別の世界に、落ち続けていく感覚。隣の話し声や、テレビの声を、ずっと昔の琥珀の記憶みたいに感じた。ODの失敗は怖い。練炭は頭ががんがんするだけで、車の排ガスを使ったときも同じ。首吊りは何故か成功しない。血圧がとても高いからだろうか。死のうと思うときは、冷静で、でも一瞬ごとの高揚感の満ち引きの中で、何だか夢みたいで、そのとき血圧はすごく上がっている気がする。普段でも、病院で測ると190くらいある。母はもっと高いことがあるので、多分遺伝だ。銃がある国がとても羨ましいと思った。お気に入りの銃を手に入れて、日常の誤差みたいに、思い立ったとき喉の奥を撃ち抜きたい。
とても疲れている。疲れに親しんでいて、疲れていない感覚を、もう思い出せない。手首を思いっ切り切ったとき、呼吸の出来ない沼の中に、方向も分からず沈んでいくような感じがして、洗面器の中に溜まっていく血が凝固して、両手いっぱいのゼリーみたいになってて、グレン・グールドゴルトベルク変奏曲を聴きながら、けらけら軽く怠く笑っていられたところまでは覚えているんだけど、気付くとソファでポカリを飲んでいた。腱を切ったので、今この瞬間も、左手は痺れている。死で頭の中がいっぱいになっている。

心残りは、僕がずっと行けなかった場所に、もう行けずに死んでしまうかもしれないことだ。僕は幸せを感じていない。快感も無い。完璧なる幸せ。今、僕は淡々と、事務的に書いている。人はもしかしたら死ねないのかもしれない。僕が死んでしまった世界もちゃんとあって、僕は僕が生きている時間上にしか、存在できないのかもしれない。そう信じている訳じゃないし、死の実在性を、僕は信じているし、感じてもいるのだけど。
ずっと身体が重い。ずっと重い絶望と癒着したまま生きている。ときどき、またあの場所に行けるかもしれないと、つかのま、希望が上から降りてくることがあるけれど、どんな希望も錯覚で、どんなに心が照らされている間にも、絶望はきちんと存在していて、それは液体のように、心にしっとりと浸み続けている。完璧な幸せ抜きで、どうやって生きていけるだろう? 人は一体どうして生きているのだろう? 憂鬱は治らないと思う。実質の無い喜び。憂鬱の中にすっぽり取り込まれれば、僕は温かい孤独に包まれて、遠い人生を夢見ていられるかもしれない。夢見られた人生は、実際の人生より、ずっと明るい。無言、静けさ、それを望んでも得られなかったので、もう、望み方さえ忘れかけている。

僕はしばしば、もう一秒だって生きていけないと切羽詰まる。薬を飲んでごまかす。
死んで無くなるのは表面の感情と、あれこれの感覚だけ。他はみな残る。もとからそうあったものたち全て。世界は見えない。見えるものだけが世界じゃない。
死ねないから生きているだけなんじゃないか? 現実には、何らかの価値あるものと、そうじゃないものの線引きがあって、そして死んでも生活世界はこのまま続いていくと、常識内で人々は、慌ただしく信じている。本当は、世界は、信じているより、ずっとずっと遠いもの。

それにしても、今僕は生きている。僕は文字や思い出を信じている。僕は僕自身であって、僕しか知らない僕自身と、僕自身の感情や思い出を抱えたままで生きている。それらを全くないがしろにして死ぬのは、罪深いかもしれない。誰も僕の世界を僕の代わりに生きられない。

例えこの世界が、時計の時間通りに残り続けるとしても、そこに僕はいなくていい。僕はずっと前から死骸なのだから。誰かが僕を見ていたとしても、理解しようとしても、それは僕じゃない。』

ということを書いていて、全然生きていたくなかったのだけど、この頃良くも悪くもとても不安定で、書き終える頃には何だか楽しくなってしまった。

 

12月3日(木)、
ずっと寝ていた。病院の薬と煙草を減らそうと思ってる。何かに依存しているのが段々嫌になってきた、というか不安になってきた。

一昨日すき焼きを食べてから、昨日まるまると、今日一日、何も食べていなかった。食べないでいると、空腹を忘れる。喉の渇きは忘れない。何も食べられないかと思ったけれど、今夜は、唐揚げをいっぱい食べて、ビールと梅酒を飲んだ。酔ってしまって、数時間何も出来なかった。

 

12月4日(金)、
外に書けることだけが僕じゃない。というか僕のほとんどは、言葉に出来ない。深いところに行きたいよ、と思う。言葉がまだ、意味を与えられずに、混沌としている場所。そこに、僕はいる。そこにいるときだけ、僕は言葉で表現が出来る。

鬱、鬱、鬱。何も楽しくない数時間。数日。