別の日記

11月25日(水)
夜。僕は浅い呼吸をしている。ヘッドホンの中ではジョイ・ディヴィジョンが流れている。書く、という世界で一番楽しい時間を、もしかしたら取り戻せるかもしれない。それ以外の全てを捨てても、書いていたい、と思えるくらいに気持ちのいい時間。それから音楽を聴くこともまた、最高に楽しい時間だ。世界で一番楽しいことはふたつある。音楽を演奏することは、まだそこまで楽しくない。慣れていないからだと思う。

リラックスしているとき、呼吸が深くゆっくりになる、というのは嘘だと思う。僕は気持ちいいとき、とても呼吸が浅くなる。

音楽って何なんだろう?、と神経質なとき、僕は考え込んでしまう。それはただの音とリズムの羅列に過ぎない。いい音楽と、というか好きな音楽と、好きじゃない音楽の区別が付かなくなるときがある。何だ、全部ただの音じゃないか、と思って。音楽を愛することは、音という、視覚と比べれば内容の少ない、情報を愛することだ。生きること全般に話を拡げても、生きるということは、不断の情報との交戦だ。何故人は、情報なんかに、何かを感じるのだろう? 食物が精神に影響を及ぼすことは、何となく理解できる。身体は物質だから。物質をそんなに信じている訳じゃなくて、物質だって情報だと思っているけれど、身体という物質としての情報に直接触れる、食物や薬が、身体の状態によって大きく左右される精神に影響を及ぼすことは、ありそうな話だと思える。けれど、音楽なんて音だし、つまり鼓膜を間接的に震わせる、空気の振動に過ぎないし、言葉なんか紙やディスプレイに付いた染みみたいなもの、なのに、それが人間の精神に大きな影響を与えるどころか、時には、人に新しい世界を垣間見せたり、人の世界や世界観をそっくり変えてしまったりする。そのことが、神経質なときには、ありそうにない話だと思えてしまう。

音楽が楽しいときには、音楽がただの音の情報だなんて、つゆとも思わない。それは身体を包む。心を温かくする。見たことのない世界を見せてくれる。何故そうなのか、と訊かれても、そうだからそう、としか答えようが無い。言葉だってそうだ。言葉は情報を伝達したり、命令するだけじゃない。文学って、とっても意味が無い。けれど文学に夢中になっているとき、それは何故も何もなく、一字一字のただの羅列が、「何が面白い?」という質問には答えられなくても、本人には何故か明確に、面白い。

神経質になっているときには「意味の無さ」に強く囚われる。音楽や文学に惹かれるかもしれないけれど、無心に楽しむことがどうしても出来なくて、「意味が無い」というひと言ですっきりと本や音楽を捨てられもしないし、それなのに「意味が無い」から本や音楽を積極的に求めることも出来ない。面白いものをただ面白がることが出来なくて、面白さの訳を知りたくなる。「説明抜きで」という言葉が不安で堪らなくなる。

 

11月27日(金)、
全ては存在しない。存在しない、も無い。全ては正気じゃない。正気じゃない、も無い。全てを外側から見ること。それだけが大事。ただ僕はそれらがあると思っている。そしてみんなそれらが続くと言っている。現実という強い拘束力。

音楽を聴くこと、それはミュージシャンが作曲し、レコード会社が拡散し、電波を通じて僕のiPodに電子的に記録され、ケーブルを通じてヘッドホンから僕の鼓膜に至り、脳がそれを音に変換すること。例えそれが正しいとしても、音はどこにあるのだろう? 脳が空気の振動を音に換える、として、それを聴いているのは誰だろう?

脳はおそらく恐れている。昔、獣がそこらを徘徊していた頃と基本的な構造が変わっていなくて、獣を目前にして恐れずに安息しているのは馬鹿だけど、昔の人は安全圏にいれば、それだけで幸せを感じていたはず。基本的に動物は何もしていないとき、何も感じていなくて、それ故に幸福なように出来ているからだ。クジラは自分がクジラであることをおそらく認識していない。深海に潜ることは、自分を潜ることだ。人間はつまり人間を恐れている。

不幸は人間的なもの。だから人間を、というか人間とはこういうもの、という思い込みをやめれば無くなる。もしくは、いや、言い換えれば、本当に人間的になれば、無くなる。言葉を信じるのではなく、言葉以前にあるものを信じること。

 

11月28日(土)、
あっちには電話があり、こっちにはコップがある。空間は、夜の凪は、それらを解いていく。妄念だ、全ては固執だ、と言っても、それらは解けてくれない。「それは現実だよ」という声は止め処なく堅く、強い。花を見て、花が好きだ、ということの心の中の緩やかな甘さ。言葉が思い起こさせる、くすぐったいような、お腹の中の影のような甘い感触。それが悪いことだとは思えない。これが薬の瓶だ、これはインクの瓶だ、とひとつひとつ確かめていくこと、それは快感だ。夜の中で、それらは光のように、夢のように儚い。全てが溶けていく中で、それでも事物は事物として存在すること。思うに人の心には、とても静かな心の故郷があって、個性とはその各々の、故郷を遡る旅なんじゃないだろうか? 何も、日本人だから日本の心に戻れ、という訳じゃない。iPhoneだとかイラストだとか音楽だとか、あらゆるチープなものに、自己と共鳴するキーのようなものがあって、心が疼くことがつまり、心の扉がまたひとつ開かれることなんじゃないだろうか。僕は割と日本のものが好きだ。書院造りとか昔の書とかを見るのは割と好き。でもその感情は少し堅い。それは「自分が日本人だから」という思い込みから、日本のものが美しいことに表面的な誇りのようなものを感じてしまっているような、違和感がある。心がすぃーっと開かれるんじゃなくて、自意識とか欲求とか、そういう熱い部分が高揚するような。僕は遺伝子に組み込まれた日本的な美意識というものを全く信じていない。血が受け継ぐ感情や感性というものを全く信用していない。日本人が、日本人的な空気の流れの中でしか享受できないような美とか面白さが、どうして、日本人である前に人間としての僕の、心の奥に届くだろう? 感情は文化的なものだ。泣くとか笑うとか、そういう表出出来る程度の感情。例えばそれは、将棋の中にもチェスの中にも宇宙があって、その宇宙は普遍的なものなのに、それを見ないで、将棋盤とか駒とか漢字とかに、ゆかしさとか何だとかを感じているようなもの。全ては繋がっている。全ては同じだ。アメリカもアフリカも日本も、全てが存在しているという点では同じ。そしてそれらの国を外側から見れば、アメリカ的だとか、アフリカ的だとか日本的だとか、差異はある。それはちょうど、雨が雲になったり、虹になったり、雪になったり、海になったりするのを、ひとつひとつ分けて、それらが全然違うものである、と考えるのと同じこと。雨はあらゆるものに変化する。あるいは変化して、それぞれが区別され、別々の名前を付けられる、いろいろのものに姿を変える。生活の中で、海を雲と言ったり、虹を流氷だと言ったりしていたら話が通じない。けれど、雨は床であり、雨は僕だ。だから僕と床とは同じだ。僕は床になるし、壁になるし、空になるし、音楽になる。もちろん、雨は雨だし、雲は雲だ。そしてアメリカの雨はこんな風で、ベトナムの雨はこうで、日本の雨はこうで、とそれぞれの風土が説明され、風土と文化の強い関連性が指摘される。それを細かく細かく細分化して、虫や花や人や、あらゆるものが他との差異によって区分化され、それぞれの特徴を他の全てのものと関連づけ、位置付けることで、百科事典的な知識は、無限に増大していく。区分をどれだけ細かく、どれだけ多く数え上げられるか、によって、知識人とそうでない人が分けられる。そうではない、全ては同じだ、という声は、限り無く弱々しい。何故なら僕は君ではないし、コップはスプーンではないし、空は全てではなく「空」という一文字の、とても狭い、無限に狭い領域に閉じ込められていて、空は青かったり、空は上にあったり、空は、他のあらゆるものとの区別や関連によってだけ成立する。それなら、眼の中に空があったり、空の匂いを嗅いだり、コップの中に空が溜まっていたりしたら、空は空であることから解放されるのか、とか、例えば詩的なのか、と言うと、全然そうではなくて、空という固定されたひとつの言葉を、生活の中ではあまり使われない文脈の中に置いただけのことで、ひとつひとつのものが言葉によって区分された、とても窮屈な網の目を、少し違う目に編んだだけのことで、網の目そのものからの解放はない。そして空は本来網の目の中には無い。新規の網の目はいくらでも製造可能だし、いくらでも拡張できる。しかしそれは世界を覆えない。世界には届かない。

テクノロジーの発達には感謝しているけれど、それによって世界は間違いなくうるさくなった。YouTubeInstagramやPornhubや、無かったからってどうだって言うんだ? 少し前まではテレビが大敵だった。LINEもメールもSkypeも、迷惑きわまりない。ただ、夜の中を四角く切り取る明度/ディスプレイは大好きだし、キーボードを打つこともまた楽しい。

役に立つから英語をするなんて馬鹿なこと。心の奥底を誰も知らない。知っている人もいるかもしれない。

私はスピーカーで音楽を聴くのが好きだ。本当はヘッドホンよりも好き。ヘッドホンにはヘッドホンの密室的な快楽があるけれど、スピーカーからの音は、空間を満たし、空間を塗り替えてくれるから。

私が死ぬかどうか、生活の中で退っ引きならなくなるまで、あとどれくらいの期間があるだろう?

 

11月29日(日)、
全て泡沫なのだと言っても、私自身がもっと深いところに行かなくては意味が無い。