夜の音たち


私は私としてここで完結している。昼間の私は分散していて、何処にもいない。いろんなことが気に掛かっている。ピアノを弾く以前に、ピアノを弾く意味に思い悩んでいるピアニストみたいに。夜、みんなが寝静まりつつある時間、私はピアノそのものになる。そして夢見るように音を奏でている。音の粒はディスプレイ上に色彩豊かに並び、私は夢見ながら目覚めていて、自らの夢が紡ぎ出す音を、天啓のように浴びている。それが意味。要するにはエクスタシーが大事なのだとは、偉大な芸術家が皆口を揃えて言うことだけれど、エクスタシーとは、自分の中の、隠れて見えなかった自分に出会うこと。あるいは自の中に他を呼び込むこと。それは誰にも迷惑をかけないし、それどころか、全ての人が、希望しているのは、自分に出会うことなんだ。みんな自分が自分じゃないみたいな歯痒い気分で生きている。私は、夜、この場所で、ディスプレイの前で完結していて、18世紀から21世紀の音楽に身体中浸っている。そしてこの瞬間も電力会社に繋がっている。コンセントと電話線を愛している。


海に浮かぶ泡の全てに名前を付けることは原理上可能だけど、そして、いろんな不思議な性質や、美的関心を惹く泡があるとして、その泡のひとつひとつに違った感情を抱くことは可能だけれど、それを集めて、僕はあの泡が好きだ、とか、この泡とこの泡は似通っている、とか言って、また、泡に価値を付けて経済的にも、この泡とあの泡を区別したりして、それで、人間として何らかの意味ある談義を行っている、と意識することも可能だけれど、いくら泡を見詰めても、いくらお気に入りの泡を大事にしても、海そのものには決して届かない。そして現実とはその泡のようなものだ。泡は儚い。よって現実は儚い。消えていく泡を見て、全ては去って行くと思い、世は無常だという結論に達することは単純に可能だけれど、海を見ている人にとっては、泡などものの数に入らない。そして、尚かつ、海を見ながら、あの泡とこの泡を見て、楽しむことも、また可能だろう。海を知りながら、尚かつひとつの泡をあまりに愛して、それ故に死ぬ人だっているだろう。でも、海を見ている人の見ている世界は、泡しか見ない人の世界とは、拡さも深さも、文字通り次元が違う。現実の海は多分、いつか干上がるだろうけれど、絶対に干上がることのない海があって、それが世界だ。あまりに泡についての言説がみんなして熱狂的だし、死にものぐるいで泡に一喜一憂する人たちが多いので、ついつい泡が全てなのだと思いがちだけれど、そして他人もまた、泡であるように見えるし、それが消えるところを見ているので、自分もまた泡のようにいつかただ単純に消える、と思いがちだけど、それは違う。泡とは海が表面に見せる一現象に過ぎず、全ては差異も区別も何も無い海そのものだ。つまり世界。世界はいろんな風に見える。でも、見えるだけだ。飛び込んでしまえばいい。溶けてしまえばいい。


ただそうなっているからそう、という考えが、私は大嫌いだ。例えば重力。ものが引き合うことが永遠の真実のように語られる。私は私の過去を信じる。それを欠いたら、私は私じゃなくなってしまうし、それに私は表面的な自我ばかりで生きてきたわけじゃない。いろんなことがあったと思う。けれど外界への反応だけで生きてきたわけじゃない。いろんなものを意味付けしていく。けれどそれはものたちを現実の中で位置付けていくだけ。現実そのものが無いとしたら? 現実はただそうなっている。何に支えられて? 次の瞬間、全ては踊り狂うかもしれない。今まではそうならなかったけれど。けれど私は無くならない。私は正気を保っている。私は言葉を信じている。そして、今まで言葉に出来なかった多くの物ごとを信じている。言葉の不可能性に私は支えられている。


それなのに消えない憂鬱と不安がある。僕は今、ここに銃があれば、この瞬間に自殺したい。僕はこの世界に生存していたいと、ほとんど、全然思わない。朝、それから何かしら意味ありげな昼間。生きているからには完璧に目覚めていたい。それなのに、僕は朝から疲れていて、それはもう13歳の頃からそうで、雨の日に起こる冷たい笑いも灰色に染まるような、全てが重油に塗れたような倦怠感。それが僕の人生に、神経網の奥底まで染み込んでいる。


つまり世界は成立した物ごとの総体ではない。世界は成立以前にあるものだ。


ディスプレイ。その中で私が遊べる期間は限られていて、大抵の時間、私は薬の瓶を撫でたり、お風呂に入ったり、爪の手入れをしたり、髪の毛をいじくったりして、出来るだけ無為な時間を過ごしている。


「社会というものはそうなっています」と医者の先生は言う。そこで怪訝な顔をする僕はおそらく不機嫌に見えるだろうし、反抗的な態度を取るものとして、社会の中では位置付けられるだろう。僕は石橋を100回叩いてもまだ信じないタイプだ。101回目に壊れないという保証は何処にも無いし、そもそも「石橋を渡る」という言葉そのものが無意味になる可能性は常にあるからだ。夜の世界が確かにあるならば、昼の世界は不可能性の彼方に消え去ってしまうし、昼の世界ばかりがあるならば、夜の世界は蹂躙され、夜にしか生きられない生き物たちは、あっという間に絶滅してしまう。それでも、昼の間、確かに夜は同時に存在していて、夜行性の生き物たちは、死んでも死んでもまだ生きている。彼らは死を生きているからだ。「世界はこうなっている」「世界はそうなっている」「世界はああなっている」そして僕は世界を知らない。誰も世界がどうなっているか知らない。例えば、机を触ると、机があるような気がする。机があるならば壁があり、ドアがあり、ドアの外には街があり、道路があり、ドアがあり、また人がいて、みな自分と同じような思考を抱えて生きているのだろう、どこに行っても、きっと、と類推できる。机がある、と強く信じること、それだけで世界は当たり前の世界に平均化されていく。けれど僕は宇宙全体を繋ぐネットワークの方を信じている。机はすなわち宇宙の果てであり、宇宙の果てはすなわち僕だ。類推をやめること。


誰も僕を信じないでほしい。音楽は僕という生体を溶かす。そこに僕はいない。だから僕の主張も無い。あなたはあなたが好きな音楽を聴くべきだ。音楽が好きじゃないなら、絵を見ればいいし、瞑想でもすればいいし、仕事が好きなら仕事をするべきだ。あなたはあなたという主体を消すべきだ。皮膚は外界と繋がっている。そして僕たちは自分たちの領域を侵されることを恐れている。でも実際には、自分が恐れるものがすなわち自分だ。自分を不安にさせるものの消滅を願うのと同程度に、自分の消滅を願うこと。


人間には、、少なくとも僕には、意識があって、いろんなものを常に見て、聴いて、感じていて、そこから類推されるあれこれを組み込んだ、強固な世界観を構築し、それを常に補強し、常にそれに抗っている。それで今、僕の文章は不安と恐怖と、破壊衝動、つまり全てをフラットに、元に戻したい気持ち、と、それから僕を安息へと手引きする思考の糸の間で、錯綜している。


言葉の、つまり意味の向こう側に行ってしまうことは、ある意味簡単だ。僕にはそれが出来る。世界とは一粒の雨のようなもの。けれど、僕は現実的に、生活的に、社会的に生きていて、その中で自分を守らなければ、つまりこの肉体を安全に存続させることが出来なければ、生きていけない。真実の感触ってある。それは、例え僕がホームレスになって段ボール箱の中で雨に打たれていても、あるいは身体的な拷問を受け続けても無くならない、つまり、環境や条件に左右されることのないもので、それから、今どんなに不幸で、苦痛の中で悶え死ぬ以外に何の未来も無いような人たちにさえ、彼ら/彼女らがみんな、全ては完璧な幸福の中へと帰ることが出来るのだ、と僕に信じさせるに十分なものだ。けれどそれをまた当然のように人に語れば、怪訝な顔をされるという社会的な認識が僕の中にはある。


僕の不安。僕の恐怖。それは全て僕の責任だろうか? どうしても不安が去らない。そして、何も面白くなくなる。僕は多分、嘘を吐いてきた。本来取るべきではない態度だと分かりつつ、上辺だけで振る舞ってきた。


私は心の表層にいるという意識があって、それはつまり私が私自身の心を信じていない、ということだ。完全な安心からは程遠い生を生きている。不安なとき私は自分の心にとっての物ごとの軽重を測ることが出来なくなる。何を読めばいいのか、何を聴けばいいのか、分からない。


ひとまず終わり。